第六章 運河 ④

 鎬屋が選んだのは、小料理「月見や」。佐吉の行方が分からないことに焦った鎬屋が、咎を受けずにすませるため、勘定奉行の佐藤様に何やら頼み事をするらしい。おそらくは賂を考えているのだろうが、すでに黒田屋からの連絡が届いている。黒田屋の「始末」のために、「舞台」を作ってくれているのかもしれない。


 いつもは酔客のお大尽で賑わう「月見や」も、貸し切りになれば静かなものだ。料理を前に、人払いされた座敷で、勘定奉行と与力、鎬屋の治兵衛と手代の末吉が相対している。

「佐藤様と柏木様の取り合わせというのも、珍しゅうございますな」

治兵衛がおもねるように尋ねた。

「今宵は忍びで参ったゆえな。儂と柏木は、実は碁敵よ」

与力の柏木はそう強くないが、無理矢理つき合わされているという話も聞く。まあ、いざというときの護衛として来ているのだろう。

「ときに鎬屋、こたびは何用じゃ」

「運河の普請も大詰めにござりますれば、今までお世話になったお礼ということで、一席設けさせていただきました」

「死人が出たようじゃな。何か後ろ暗いことがあるのではなかろうな」

「滅相もございません。あれは不幸な事故でございました。……さあ、まずは一献」

酌を受けた奉行が、かすかに扇子を開き、パチンと音を立てて閉じた。差し出された菓子折を一瞥した彼は、低い声で尋ねた。

「何がしたいのだ?」

治兵衛は平伏したまま

「ほんのお近づきのしるしにござります」

と答える。

「儂は、菓子を好まぬのだがのう」

黙って菓子を取り上げ、下に隠された山吹色の小判を見せる。

「このような『菓子』は、いかがでござりましょうや」

間髪を入れず、声が浴びせられた。

「受け取るいわれはない。儂を見くびっておるようだの鎬屋。柏木、よく言い聞かせておけ。儂はこのまま帰るぞ」

平伏したままの治兵衛は声もない。


 隣の隠し部屋にいた安針は、音もなく天井裏に上がり、厠の真上まで這っていった。七分丈の筒袖に裁着袴(たっつけばかま)の出で立ちだ。この後、賂をけしからぬこととして逆上した奉行が席を立ち、こっそり立ち戻ったお供が取りなす手筈になっている。それから小半時、治兵衛がようやく厠に来てくれた。


 どっこいしょとかがみ込んだ白髪頭が下を向く。小さくため息をついた首筋が丸見えだ。この日に合わせて、遅効性の軽い下剤を仕込んである。古着を持ち込む際、さりげなく粉薬を渡したのは黒田屋の若い衆だ。小用ではなく、確実にしゃがみ込む姿勢になってもらうための準備だった。黒田屋の手筈に、抜かりはない。


 狙いは盆の窪の一点。板を静かに外し、太めの鍼を構える。安針はふわりと身を躍らせた。治兵衛に最初に触れたのは鍼の先。素早く左手を額に添え、鍼を深く差し込みながら治兵衛の背中に跨がる。外の仲間に合図を送り、治兵衛の体温が失われていくのを確かめる。肛門が緩んで漏らし始め、異臭が強くなった。垂れ流しが一段落したところで、厠の壁を外し終えた仲間が治兵衛を運び出す。


 外に控えていたのは、利吉とあと三人。外した壁を元通りにする手際もいい。元からこんな細工をしてあった厠である。治兵衛の亡骸を家に運んだ後は、着衣を整えた上で首をくくらせ、鴨居に吊す手筈になっている。首に巻いた麻縄が、盆の窪の小さな刺し傷を隠してくれるだろう。安針の脳裏に佐吉の顔が浮かんだ。いつの間にか、一蔵や佐吉に肩入れするような気持ちになっていたらしい。


 後始末を任せて、そのまま黒田屋に向かい、安針は土蔵の前で手を洗った。この次元で人を殺めたことが、何か大きな結果を生むのであれば、安針の存在自体も危うくなるだろう。それでも「始末」を引き受けたのは、一蔵の無念を晴らしたい気持ちが強かったからだ。「小見治郎」の意識よりも「安針」の意識のほうが強い今、安針はこの次元の住人になりきっているのかもしれない。混乱した自分を少し持て余しながら、安針は兄のもとへ向かった。

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