第二章 生い立ち ④

 無口な子どものまま、平太郎は十歳になった。兄・清太郎の前髪は落とされ、跡取りとして父と過ごす時間が増えた。次男の平太郎は、読み書きそろばんだけは仕込んでもらえたが、後はほったらかしだった。仕込んでもらったというより、見よう見まねで身につけたと言った方が正しい。このままなら、無駄飯食いの扱いでこの店に残るか、良くて知り合いの店に見習いとして出されるかの二択しかない。


 梅雨明けの夕方、父を訪ねてきた茶筅髷の男がいた。白髪が目立つところを見るとジジイのようだが、背筋はしゃんと伸びている。店の前に水を撒こうと、店の者が出ていたので、少し手伝うつもりで顔を出した平太郎は、茶筅髷と出くわした。

「ほう、おまえが平太郎だね。いい体つきをしている。おとっつぁんは居るかい?」

初対面でこう言われると面食らう。父の顔馴染みということだけは分かった。そばにいた店の者が

「これはこれはロアン先生、ようこそおいでなさいました。お待ちかねでございますよ」

と如才なく案内する。「ロアン先生」と呼ばれたジジイは、父の碁敵らしい。漢字で「鷺庵」と書くことは、後で知った。


 鷺庵じいさんは、夜になっても帰らなかった。囲碁の決着がつかなかったのだろう。食事を碁盤の傍らに運ばせ、二人は勝負にのめりこんでいた。子どもの平太郎は、当然先に寝ることになる。このころは、兄がまだ同じ部屋で寝ていた。寝言がうるさいと言われたこともしばしばある。前世も含めた記憶が溢れそうで、自分の寝言で目が覚めることすらあったほどだ。その夜も、眠りは浅かった。


 夜中に目が覚めると、平太郎はしばらく眠れない。夜に眠れない分、昼間に辛い思いをすることは分かっていた。眠れない身をもてあまし、部屋を出て庭に面した縁側で涼んでいると、鷺庵じいさんがやってきた。厠に立ってきた戻り道のようだ。

「おい、子どもは寝る時分ではないか。なぜ起きとる?」

「眠れませぬ」

「いつからじゃ?」

「もう、ずいぶんになります」

話し込んでいると、父が様子を見にきた。鷺庵じいさんは父を振り返り

「宗右衛門、息子の具合がおかしいこと、なぜ相談せんのだ?」

と問いかけた。


 あのときの父の顔は、今でも覚えている。頑固で、次男に何の言葉もかけてこなかった男が、初めて息子の顔を見た。妻の死を思わせる次男の顔が、初めて人間の顔に見えたような表情だった。そのとき、平太郎はようやく息子として見てもらえたのだと思った。前世で離婚を経験し、ひとりでいることの豊かさを知った平太郎は、ここにいる父を責める気になれなかった。


 父と息子の顔を見比べた鷺庵じいさんは、俺たち親子の関係が分かったらしい。くだけた口調で父に語りかけた。

「親はなくとも子は育つものよのう。宗右衛門、おまえさんの次男坊は、おまえさんより悟っておるわ」

そのままの顔を俺に向け、

「平太郎、明日、眠らずの病を何とかしてやろう」

と言い放って、さっさと部屋に戻っていった。


 気まずい空気の中取り残された親子は、どちらからともなく部屋に帰った。その晩、鷺庵じいさんは、うちに泊まった。昨夜のやり取りがあったせいで、父もどこか気まずそうな表情だ。朝食の場で不眠について聞かれたのは、今まで何も知ろうとしなかった父に聞かせるためだったのかもしれない。もっとも、無口で我慢強い子どもの体調など、男親に分かれというほうが無理な話でもある。


 食後しばらくして部屋で待っていると、鷺庵じいさんがやってきた。兄の清太郎を連れてきている。なるほど、同じ部屋で寝ている兄なら、父よりは気づくことも多かろう。


 兄によれば、不眠だけでなく、ずいぶん寝言もあったらしい。鷺庵じいさんの問いに

「『てすと』ができてないとか、『でーた』がそろわないとか、わけの分からない寝言が目立ちました。でも、言葉が分からないことより、言い方が大人びているほうが気になります」

と答えた兄の顔は、ずいぶん大人に見えた。


 おそらくは前世の記憶だろうが、正直に言うわけにもいかない。覚えていないの一点張りで通すことにした。鷺庵じいさんは、

「面倒な子どものようじゃな。ま、よかろう。それより、首から肩までの凝りが酷すぎる。何をすればそうなるのかのう」

と呟いた。兄の清太郎が口を挟んだ。

「平太郎は、よく転んでおりました。けがをしたことはございません」

「ほう、それは不思議なことよの。どんな転び方かの?」

仕方なく、俺は答えた。

「『でんぐりがえし』が好きなだけでございます」

と言いながら、ころんと回ってみせた。

「肩口から入って逆の手で支えながら起き上がるのは、柔の『受け身』じゃ。首回りは鍛えられるかもしれんが、おまえの年で鍛えすぎると、背丈が伸びぬぞ」

受け身を見抜いたあたり、なかなかに油断できない。


 幼いころの筋力トレーニングが、成長を妨げることもある。無口な子どものふりをしながら鍛えてきたのが、かえってよくなかったらしい。首回りについてきた筋肉は、遺伝によるものと思ったが違っていたようだ。


 鷺庵じいさんは、兄の清太郎に何か言いつけて部屋から出した。

「さて、今からおまえの『眠らずの病』を治してやろう。鍼は知っておるか?」

前世では聞いていただけで、実際に施術を受けたことはない。不得要領な表情をしていたのだろう。鷺庵じいさんは顔をくしゃっと折り畳むような笑顔を見せて教えてくれた。

「体のいろんなところに、ほれ、この鍼をぷすりと刺しての、楽な気持ちにしていくのじゃ」


 鷺庵じいさん、鍼を入れた道具箱を持ち込んでいた。あれこれ話を聞いていると、清太郎が小さな手桶にお湯を入れてきた。

「ご苦労さん。あとは、わし一人で大丈夫」

あらかじめ言われていたらしく、清太郎は席を立った。


 鍼を熱湯で消毒し、手首から腕、肩にかけて鍼を打たれた。平太郎の不眠は、凝りつめた肩や首の血行不良が原因だったようだ。施術が終わると、ずいぶんスッキリした気分になった。思わず、じいさんに向かってぺこりと頭を下げていた。

「ありがとうございます」

「一応の礼儀はわきまえているようだの。毎日、何をして過ごしておるのじゃ」

口角は上がっているが目は笑っていない。

「今までと同じ過ごし方なら、元の木阿弥じゃ」

嘘をつき通すことはできない。そう判断した平太郎は、前世の記憶と透視以外について話すことにした。そうなると、日常生活全てが、鷺庵の言う柔つまり体術の修業ばかりであったことになる。


 平太郎の話を聞き終えた鷺庵は、深いため息をついた。

「宗右衛門の言いつけでしておるのか?」

「おとっつぁ・・・・・・、いや父からは、あんまり声をかけてもらえません。好きにやっておりまする」

体術の修業を強制する商人なんているはずがない。いや、清太郎にいさんは道場に通わされていたっけ。「透視」で確かめたほうがいいだろうか。


 あれこれ考えている表情を観察していた鷺庵に

「おまえ、鍼に興味はあるか?」

と、ふいに尋ねられた。平太郎は

「はい」

と反射的に答えてしまう。答えてしまった後で、この選択は悪くないとも感じた。手に職をつけることで、少なくとも「無駄飯食い」と呼ばれずに済む。思わず両手をついて、頭を下げていた。

「鷺庵先生、弟子にしてください」

頭を下げたままの平太郎を、鷺庵はじっと見ている。ずいぶん長く感じた。しばらくして、平太郎に声が降ってきた。

「もう還暦のジジイだ。おまえが最後かもしれぬな。宗右衛門には話を通しておこう」

新しい師匠が部屋を出ていくまで、平太郎は頭を下げ続けていた。

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