第二章 生い立ち ①
小見治郎は、都内の進学塾で講師をしていた。五十五歳で離婚歴があったが、子どもはいない。結婚二年目で浮気されたのだ。その後再婚もせず、惰性で生きてきた。だが、年を取るにつれ、都会での一人暮らしに疲れてきた。地味な生き方をしてきたためか、蓄えはそれなりにある。治郎は、のんびり暮らすため引っ越すことにした。生まれ故郷ではないが、いちばん長い期間過ごしたことのある田舎の町である。
父親が大きめの建設会社に勤めていた関係で、転勤が多かった。小学校を卒業するまでは、引っ越しが多くて落ち着かなかった。一人息子の教育を考え、中学・高校の六年間は落ち着きたいと希望を出したところ、父は宮崎県南部の港町へ転勤を命じられた。出世コースからは外れてしまったが、刺身好きの父はかえって嬉しかったらしい。港湾設備の営繕を手配したり、治郎が高校生のころ開催地に当たった国体施設の建設など、それなりに仕事には恵まれていた。
中学では陸上部に所属していたが、高校ではのんびり過ごした。剣道部・柔道部・空手道部と、武道に関わる同級生との関わりが多かった。そんなかかわりの中で、合気道の道場を紹介される。同級生と同じ武道では経験値の違いが大きい。彼らと話題を合わせるために、二年ほど通った。大学進学で何となく疎遠になりはしたが、内気だった治郎が物怖じしなくなったのは、このときの経験のおかげである。
就職の口を探すのは苦労するかと思っていたが、意外にすんなり決まった。治郎の専門教科は国語。得意なのは作文や小論文の指導である。地方の学習塾は、都会との学力格差を埋めるため英語と数学に力を入れる。その分、他の教科の講師が少ないのだ。特に作文指導は添削の手間がかかるため、嫌う者も少なくない。治郎の指導は、短文の積み上げを基本にした自己採点の可能なシステムだった。
「三ヶ月ください。書けるようにしてみせます」
治郎はそう言い切った。高校時代の同級生が、数学の講師でいてくれたこともプラスに働いた。都内での実績をアピールしつつ、中学生を中心に指導を重ねた。
令和元年度現在、宮崎県の高校入試は、推薦を希望する際、六百字の作文を書かされる。構成さえ定型化してやれば、決まった分量の短い文章を組み合わせるだけでよい。五十六歳のとき、入試で出題された作文の題名を予想し、当ててみせたことが功を奏した。生徒が集まってきたのだ。越してきて三年で、治郎の生活はようやく落ち着いた。
落ち着いたところで、治郎は仕事以外にも何かしたくなった。高校時代に通っていた合気道の道場は、もうない。あのころすでに五十代だった師匠は、すでに他界していた。今さら別な師匠につきたいとは思わない。そういえば、師匠は神社巡りが好きだった。宮崎県は神話の里。神社の「密度」はかなり高い。治郎の住む県南も例外ではなかった。思えば、この思いつきがいけなかったのかもしれない。
御朱印帳を買い、海岸近くの神社に参る。旅立ちの無事を願うという、神武天皇のお后が祀られていた。拝殿付近はひっそりしていた。二礼二拍手一礼のあと、石段を下りる。陸上をしていたころ痛めたひざをかばいながら、ゆっくり下りた。だが踏み外すときは一瞬である。
長い石段で足を踏み外せば、さすがに受け身は難しい。打ち所が悪ければどうしようもない。一番下まで転げ落ちた治郎は、下の道を散歩していたお年寄りの通報で救急搬送されたが、病院に着いたころにはもう手遅れだった。令和二年・享年五十八歳。治郎が最後に「旅立った」のは、「あの世」だった。
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