(3)
上遠野氏はまだ話し続けている。ノリ始めると止まらないらしい。専門用語もぽんぽん飛び出して、もう半分も理解できないんだが、何にせよ、天才と対話しちまってる感が半端ない。アインシュタインと物理の話したらこんな感じかな? あるいは錦織とテニスの話とか。とにかく一生に一度あるかないかの偉大な邂逅。孫に自慢できちゃう。「おじいちゃん、子供のころ、あの上遠野さんと会ったことあるんだぜ!」的な。もうおなかいっぱいです。
こりゃもう尻尾を巻いて撤収だな。話の切れ目を狙って、俺は
「あの・・・。できましたらミカさんには、俺が言ったことはご内聞に・・・。おせっかいなやつだと思われたくないっちゅうか・・・」
ミカパパは、ちょっと吹き出しそうな顔になったが、ぐっとこらえて、
「あはっ。なるほど。そうね。了解ですよ。大丈夫。聞かれたら、建築の話で盛り上がったと言っとくから。うん。・・・でもお心遣いありがとう。君は優しいですね」
*
なんだよ。ミカパパ良い人じゃないか。シャイな俺の極限テンションも、ようやくだだ下がって落ち着いてきた。
ほっとしたのかがっかりしたのか、自分でも分からない。もし万が一、上遠野氏が毒親とか、ミカが虐待されてるとかだったら、俺は、どんなことをしてでもミカを助け出そうと、なりふり構わず全力を尽くしただろう。だけど事実は真逆で、すごく良い人。すごく良い父親で、忙しいけどミカのことを、将来も含めてちゃんと考えている。ミカも、尊敬し信頼するパパに従って、どこまでもついてゆく。今どき美しい話じゃない? 何の問題もないよね。
だけど何だろうこの感じ。ミカの楽しそうに笑う顔が浮かんだかと思うと、すぐにまた、今度は物憂げな顔が浮かぶ。どうしてあんなに寂しそうな顔をするんだろう。どうしてあんなに悲しげな・・・。そして、海にぽつんと浮かぶその姿。
俺の勝手な想いが暴走を始めた。ミカは確かに父の偉大さを、その仕事の重要さを、誰よりも良く理解している。だけどそれは同時に、諦めなんだ。父の足手まといになってはいけないと思っている。自分の涙など、取るに足らないと思っている。我慢しなくちゃと思っている。
そしてそれは実際そうなんだろう。ウィキペディアに上遠野氏の偉業が載るのは確実だ。でも、その娘が、ある冬の日の夕暮れ時に、赤い目をしていたなんてことは、絶対に載らない。だって人類にとってはどうでもいいことだから。
だけど。・・・だけど、この俺にとっては、それが全てだ。ミカの涙が、悲しみが、俺の宇宙でただ一つ大事なことなんだ。それ以外の物事は、たとえそれがいかに偉大な芸術であろうと、全部背景に退いてしまって、ぼんやりとしか見えない。
上遠野氏はあれほどの人物なのに、どうして俺に見えることが、彼には見えないんだろう? それとも、全ては俺の思い過ごしなのか。さよならが辛くて、そう思いたいと願う俺の、単なる妄想に過ぎないのか。
判断がつかない。客観的に考えることができない。バカだから。ガキだから。
*
「あ。どうも花染さん。お久しぶりです。お元気ですか?」
「でたね役人。なんか声が、ふだんより、またいちだんと暗いんだけど?」
「用事なければ切りますね。まだ学年末終わってないんで」
「今さら一夜漬けしても遅いよ。諦めなよ。それよりさ。聞かないの? あたしと月島くんのこと」
「切りますね」
「まあ待て。遠慮しすぎなんだよ山本くん! 分かってるって! やっぱ知りたいでしょ? それじゃ恥ずかしながら、お答えいたしましょう! ぶっちゃけ、めっちゃやたら良い感じです! もうこれ以上ないくらい、らぶらぶですっ。これもみんな、スキーのお陰ですっ。スキーさいこおおおっ」
そんな、電話口で怒鳴らなくても聞こえてますっ。
「良かったですね。だったら、またお二人で行ってあげてくださいよ。まあこの雨続きで、雪、解けちゃったらしいけど」
「残念。まさか、あたしたちのあつあつのお熱で解けたんじゃないよね? ぶぶぶふははははははっ」
「・・・じゃ失礼します」
「待てと言ってんだろもう。それでさ、ミカパパとの話はうまくいったんかいあんたは? あんたがどうしてもパパに会いたいって泣いてるって、月島くんが心配しちゃってさ。かわいそうで見てらんないって。彼、すっごく友だち思いだから。それで、建築に興味があるってことにして、ミカに頼み込んだんだよ、あたし」
やっぱり。
「――こっちも学年末間近で忙しかったのにさ。ちゃんと感謝してる?」
「そりゃどうもです。感謝感激雨あられです」
「真心がこもってないなあ、そのゆい方。まあいいけど。・・・で?」
「はあ」
「で? 引き止め失敗?」
「失敗です」
「だろうね。ま予想どおりですね。・・・それじゃあ残念だけど、やりますか」
「は?」
「送別会。お別れ会。四人で。テスト明けの週末。どうせあんた一人じゃ、ミカは会ってくんないだろ? ・・・どうこの思いやり。我ながら泣けるよね。感謝しなよ、あたしたちにっ」
「はあ。感謝感激雨あられですねそりゃ」
う~ん。嬉しいような、でもありがた迷惑のような・・・。分からんっ。
「・・・でも、いいんですか?」
「なにが」
「気のせいかもですけど、そこはかとなく、花染さん、なんか月島をミカさんに会わせたくないような、そんな風潮が――」
「はは。鋭いね。まあ昔はね。だけどもう大丈夫。二人の永遠の愛を確かめ合ったから! 彼、5回も言ってくれたもん。永遠って。ははっ。・・・もうね。言っちゃなんだけど、ミカなんて、なんぼのもんじゃい! って感じ。うあっはっはっうあっはははあっ」
「・・・2週間・・・」
「なに?」
「いや何でもないです」
*
会場は、おなじみ〈クレープ田んぼ〉のすぐ隣、そびえ立つ高級ホテルの一階にあった。ホテルはもともと航空会社直営だっただけあって、今もあか抜けたインターナショナルな風情が漂う。その豪華なロビーの一角にある、しゃれたカフェレストラン。通りかかって大きな窓越しに覗いたことはあるけど、実際入るのはこれが初めてだな。壁じゃなくて、長く緩やかなカーブを描くソファと低い生垣で仕切られただけのスペースに、明るい木のテーブルがゆったりと並ぶ。高い天井もあいまって、開放感抜群です。
でもよかった。もしミカと来たことのある場所だったら、情けないけど俺、絶対思い出して泣いちゃってただろうから。はは。・・・あ。花染さんだ。
「よお山本くん。ここいいでしょ! あたしも初めてだけどね。ファミレスとかカラオケも考えたんだけど、やっぱミカには、こういうハイソな雰囲気が似合うじゃん? 世界的っつうか。それでいてお昼のバイキングはお値段リーズナブル。学生だと割引もあり。我ながらベストチョイスっ」
「それって、自分が来たかっただけでは・・・」
「あ! 来た! ミカ! こっちこっち!」
ミカもロビーの向こうから手を振った。が! 俺を見ると、はっとして一瞬帰りかけた。俺は焦って、
「ちょ花染さん! ・・・俺が来ること言ってないの?」
「はは。えっとね~。あのさ~。山本くん来るって言ったら、ミカ断るかと思ってさあ。でも来ないって断言しちゃうと噓になるじゃん? だからさあ。『来るかもだけど、用事でたぶん来ないかな~来なさそう』って言っちゃってさあ。これってでも、絶妙でしょ? 嘘じゃないし。我ながら巧妙な作戦勝ち。あんた感謝しろよ! ははっ」
あのね。気をつけてよそれ月島入っとるよもう。・・・てか、花染さんが俺に耳打ちしている様子を見て、ミカがむっとしちゃってるよっ。また誤解しないでっ。
*
やっぱり一流ホテルのビュッフェは違うぜ。挨拶もそこそこに、四人とも、とりあえずお皿ゲットに多忙です。
「ローストビーフ丼うまっ」
「ローストチキンうまっ。黒酢ソースうまっ」
「牛ほお肉の赤ワイン煮込みうまっ」
「クリームコロッケバーガーうまっ。だし巻きうまっ」
いちいちうるせえんだよ月島。黙って食えよ。・・・一方、女子の盛り上がりは最高にかわいいですっ。
「ミカ何それ? 美味しそう! きれい!」
「フルーツパスタ。あっち側にあるよ。いちごチョコサンドの隣」
「それクリームシチュー?」
「チキンフリカッセだって。そう書いてあった。まあフランス風クリームシチューですね」
「フランス来たああっ。・・・それはピザ?」
「キッシュロレーヌだって。ベーコン入ってるよ。・・・こっちもお勧め。クロックムッシュ。まあフランス風ホットサンド」
「迷うな~。食べすぎるとデザート入んなくなっちゃうし。・・・それパン? お菓子?」
「ブリオッシュだって。これも美味しい! あ、あっちにマドレーヌとフィナンシェもあるよっ」
「うわあああっ太るっ」
*
「・・・もう無理。もう入んない」
とか言いつつ、花染さんはコーヒーフロートに浮かんだアイスをすくって頬張った。
「ココアの隣にホットチョコレートってあったんだけど、どう違うんだろ? 知ってる? 竜也」
「みどり、両方持ってきて飲み比べたら? 多すぎたら僕も手伝ってあげるよ」
「えええそれって間接・・・やだあぁ。・・・今持ってくるねっ」
ちきしょう人前でいちゃいちゃしやがって。結局、ミカにかこつけて、自分たちが楽しくレストランデートしたいだけっしょこれ。すなわちスキー場の再来。二人だけらぶらぶで、俺たちはぎくしゃく。もう帰りたい。
でも、やっぱりここは素直に感謝すべきなんだろうな。花染さんの言ったとおりだ。もし俺だけだったら、どうせきっと、うじうじずるずるして、たぶんもうミカには会えずじまいだっただろうから。今だって辛いけど、それでも会えて嬉しかったもん。
よしっ。もう時間はないけど、せっかく来たからには、なんとか頑張って、ミカと、また笑顔で――。そのとき、金柑とミントのフルーツドリンクを、ストローで優雅に味わっていたミカが顔を上げた。こっちへちょっと身を乗り出して、
「それ抹茶入ってるの?」
よっしゃああっ!
「うん。チョコも。ショコラテリーヌって書いてあった。美味しいよ! し。しぇ。シェアっ・・・するっ?」
「私も取ってくるからいいです」
あああああぁぁぁぁぁ(泣)。半分こにしようよっ。
*
「・・・うん。南もそう。来週から臨時休校だって。急に。三月ずうっとらしいよ。びっくりだよ。卒業式は三年だけでやるみたい。部活も禁止だって。え~って思って」
「ほんと迷惑な話だよな。テニス部、大会控えてるのに」
「まだこっちでは出てないけど、東京はけっこう心配だよね。うち姉貴が東京にいるから。もうね、あっちじゃマスク売ってないんだって。親がこっちからマスク2箱送った。エタノールとうがい薬も。あとハンドソープ」
「ミカ大丈夫? 飛行機とか? ヨーロッパとか」
「うん。パパもちょっと心配してた。ミラノとか、ロンバルディア――イタリアの北の方で、ちょっと出てるんだって。急に」
みんな内心ちょっと不安そうだったけど、それ以上は誰も何も言わなかった。だって、せっかくの門出にケチつけたくないし。入試の前に予備校の話とかしないじゃん? 結婚式のスピーチで離婚の話とかも。それと同じ。
「でもさ~。ミカ、やっぱ羨ましいよ。ミラノとか! いいなあ~。ファッションとか。食べ物とかっ。でもイタリア語できんの?」
「少しだけ。昔ちょっと。でもだいぶ忘れたから、今、猛勉強中。とりあえずしばらく英語で乗り切るつもり」
「英語かあ~。さすがっ。そんな発言、しれっと言えるってのが、またすごっ」
「はは。・・・冬休みに行ったのも、引っ越しの準備だったの。家の下見とか。どの学校にするかとか。あと、書類いろいろ」
俺はミカの顔ばかり見つめていた。我ながらキモだし。でもお別れ会ってネーミングだし、考えたくないけど、これで最後かも、って思ったから。あ、でもそうでもないか。嫌がられなければ、引っ越しの荷造りの手伝いとか行こうかな。あと空港に見送りに。分かんないけど。はは。はは。
花染さんがこっちをちらっと見た。もしかして俺、暗い顔してた? 場を盛り下げないように、なるべく普通に話してるつもりなんですけど。
「おいおい。ミカ、見て見て! 山本くん元気ないよお。どうした少年。この世の終わりみたいな顔しちゃって。・・・ミカもねえ、まあ、なんか、いろいろあったんだろうけどねっ。もう最後なんだし、ここはひとつ、あたしに免じてさ。さらっと、水に流してやってくんないかな? でもって、気持ちよく仲直りしてさっ。笑顔で!」
花染さんどうもありがとうほんと余計なお世話です。ミカも一瞬そんな表情を見せたが、すぐに、にっこり微笑んだ。
「そうね。そうよね! ・・・山本くんも、みんなも、今日は本当にありがとう! とっても嬉しかった! 結局、この街にいたのは一年足らずだったけど、みんなのお陰で、すっごく楽しかった。山本くんにもあっちこっち案内してもらって、すごく感謝しています。お祭りとか花火とか。海とか山とか。全部素敵な場所。全部素敵な思い出。ほんとにほんとにありがとう!」
ミカはまたにっこり。爽やかっ。お嬢さまさすがです。場が一気に和んで、ぱあっと明るくなった。
「だよね! 短い間だけど、ミカ、ここの良さ、たっぷり満喫したじゃん。山本くんグッジョブだよっ。イタリア行ってもさあ、あたしたちのこと、忘れんなよ! ラインとかメールもね。この街のことも、あっちでぐいぐい宣伝してよね! ワールド観光客、呼び込みカモ~ンっ」
花染さんもご機嫌です。郷土愛爆発。鼻高々。
でも――。俺には分かる。・・・ミカ、それって、よそ行きの顔で、本心じゃないよね。気を使ってくれるのは嬉しいけど、結局、俺は、ミカからすごく遠くなってしまったんだな。南高のクラスメートや、パパのパーティで出会うセレブたちと同じくらい、遠い存在に。
あいかわらずミカの笑顔から目が離せない。けど、それだってやっぱり遠い。CMのモデルさんみたいに。・・・俺、ひがんでるだけかな。何だか昔のミカが懐かしい。毒舌女。不平不満、言いたいことずけずけ言いまくって、不機嫌で、それでいてちょっと笑うとそれがむちゃくちゃかわいい。そっちのミカの方が良かった。でもそんなミカはもう見られないんだね。なんかこみ上げるものがありました。でも、必死で我慢したです。
そんな思いをごまかすために、俺は、何とはなしに、うっかりミカパパの話を持ち出してしまった。
「でもさ。やっぱミカさんの親父さんって、実際会うとすごい人だね! プロジェクトもすごいよ。エトルリアだっけ?」
ミカの顔が、ぱっと輝いた。嬉しそうに、
「そうなの! あれすごいんだよ! 話聞いたの? ・・・でも――」
ちょっとけげんそうな顔で、
「山本くんもパパに会ったの? 月島くんだけかと思ってたけど・・・」
「え? ああっ」
しまった! そういう話になってたのかっ。月島が慌ててフォローに回った。
「おおおそうそうそう。そう言えば先日は。ミカさんありがとうっ。偉大なお父さんにお会いできて、もう感激ですっ。絶対忘れませんっ。もう一生の思い出ですっ。長年の夢が、かなったって感じでっ」
真心こもってないねえ。まあ当然だけど。
「よかった! お役に立てて何より。私も嬉しい。・・・山本くんも行ったんだ?」
「そ。そうなんですよっ。もうね、こいつがね、どうしてもいっしょに行きたいって言うもんだから、ついっ」
をいっ。ちげえよそれっ。墓穴掘るんなら一人で掘れっ。
「へー? 山本くんって、そんなに建築に興味あったっけ?」
「ええと・・・まあその・・・興味なくはないっちゅうか・・・かなりですね・・・」
必死で対応策を練る俺を尻目に、ここで何の配慮もない月島が、墓穴――もといブラックホールを、ホワイトホールの先まで鮮やかに貫通させた。
「いや、だからそれは。ちゃんと説明しろよ。引き止めたかったってっ」
うあああおおああっ! それ言っちゃダメなやつやんっ。やめてええおおっ。
「・・・え? それってどういうこと? 建築の話じゃないの? 引き止めって何?」
俺はもう絶句。月島が、水の流るるごとき流暢さで火に油を注ぐ。
「いやーこいつがね。いやーやっぱ、いくら何でも引っ越し早すぎじゃないかって、こいつが――」
「えええ!?」
これもういけません! ミカの顔が、当惑と怒りで真っ赤に染まっている。直視無理なレベル。そりゃそうだ。立場が逆なら俺だって怒る。元カレとも言えない俺が、彼氏になり損ねたこの俺が、どの面下げて、ミカの頭越しに、恐れ多くもあの上遠野氏に、行くのやめろとかご意見
「ちょっと! まさか、そんなこと言うために、わざわざパパのとこ行ったの? この忙しい時に?」
ミカが目をむいた。お怒りごもっともです! 俺もいっしょに怒りたいです! だが、月島もようやく逆鱗に触れたことに気づいたらしく、機先を制して電光石火、保身に走った。
「そ。そうなんだよっ。こいつがっ。僕はね、非常識だって言ったんだよ! 迷惑なだけだからやめとけって言ったのに、こいつが、どうしても一言言いに行かなきゃ気が済まない、ってっ。そう言い張ってっ」
てめえっ。きたねえぞ月島っ。ところが敵はやつだけじゃなかった。なんと花染さんまでが、最愛の彼をかばうモードに爆入!
「そうだよ! 竜也悪くないから! 山本くんが泣いて頼むから、彼、仕方なく連れて行ったんだよっ。親友だから。かわいそうで見てらんないからってっ」
おおっと! それ伝聞でしょ実際見てないでしょそれ詐欺師の嘘だからっ。
「そうなの!?」
ひえええええっ。ミカさんこんなやつらに耳を貸しちゃだめだっ。全部俺が悪いことになってるっ。ひどいっ。今日ここで、こんなタイミングで、ミカを怒らせたくないよおっ。それでなくても俺、もう崖っぷちなのに、みんなして、指で背中つんつんとか、やめてええええっ。
ミカが俺の顔をガン見している。俺は凍ってる。それは、まさしく、怒り心頭、軽蔑の眼差し――ではなかった。
確かに顔は赤い。だけどあれは、どういう表情だったんだろう? あとで何度も何度も思い返すことになる、あの表情。複雑な感情の入り混じったような、何とも言いがたい、混沌とした――。意外にもミカは怒鳴らなかった。ささやくように、かすれ声で言った。
「それで、パパは何て言ったの? 山本くん」
「ええと・・・そうですね・・・どういうか・・・やっぱり・・・」
不意にミカが目を逸らした。そして今度はきっぱりとした口調で言った。
「そうよね。バカバカしい。何言ってるんだか」
*
それで終わりだった。それ以上ミカは怒らなかった。俺たちは、ほっとしたような、拍子抜けしたような視線をお互いに交わして、普通の会話に戻った。・・・エトルリアはミラノよりもっと南の方。フィレンツェとローマの間。すごく田舎。だけどプロジェクトの本部はミラノにあるし、ミラノはやっぱりビジネスの中心地だからいろいろ便利。パパの事務所もそこに構える予定。家と学校も・・・。
別れ際にミカが言った。今日は本当にありがとう。忙しくなるから、みんなにはたぶんもう会えないと思う。フライトはまだはっきり分からないし、たぶん発つ直前までばたばたするから、見送りとかも気を使わないで。だから、残念だけど、たぶんまあ今日が最後。嬉しかった。みんなのことは忘れないよ。この街のことも。向こうに着いたら連絡しますね。じゃまたね。どこかでお会いしましょう。さようなら。
*
帰り道、ぼんやりしていたのか、チャリでサイクリングロードを走っていたら、危うく脇のフェンスにぶつかるところだった。危ねえなおい。その向こうの用水路に、首の長い大きな水鳥が一羽、両の羽をゆったりと広げて休んでいた。もう暗くてよく見えないけど、真っ白だから鶴じゃないな。たぶんサギかな。羽の内側に、幼子がいたりとかしますかね? まさかね。
そのとき何の脈絡もなく、不意に、ミカのイメージが暗がりの中に見えた。
例によって、ミカは、海の真ん中に、寂しげに漂っている。ちょうど手を、こっちに差し伸べようとしていた。――あの、何とも言えない表情を浮かべながら。
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