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はああああ・・・。ミカにあんな風に言われてしまうと、もう荷造りの手伝いを口実に会いに行くこともままならないな。ただ邪魔なだけだし。嫌な顔されそう。そうすると、もう、本当にこれでおしまいなのかな。なんだかそんな感じですね。あっけなさ過ぎて、まだ信じられないけど。
もう会えないなんて。・・・ただ泣く。うう。
あ。そうだ! ・・・人間、せっぱ詰まったときには悪知恵が半端ない。そう言えば、いいこと思いついた。今度、また写真部の県内展覧会があるんだよね。俺も何か一枚出さなくちゃいけないんだけど、ミカの写真を出そうかなって、前々から考えていた。例の自信作。オフィーリア。初めて出会ったときのやつ。渾身の一枚です。自分で言うのもアレですが、あえて畢生の傑作と呼ばせていただきましょう。今どきのケータイ写真は、大伸ばしにも充分耐え得るクオリティですから。
これってもちろん、事前にモデルさんの許可が必要ですよね? そうです! 肖像権クリアのために、ミカさんの許可が、確かに必要です。これ、疑問の余地のない重要案件ですね。ゆえに、俺は、どうしても、会いに行かなければなりません。ご本人から許可を頂く必要が、どうしても発生してしまいますのでね。やむを得ないですね!
我ながら何という名案。それでは、いつお伺いいたしましょうか? ・・・お? ちょうど、ミカさんのお誕生日が近いではありませぬか! これは誠に好都合。お誕生日のその日に、ご自宅にお伺いする、と。
事前に打診して体よく断られちゃうと悲しいので、アポなしで突撃。いきなり行っちゃいますね。嫌な顔されても、重要案件だからしょうがないもん。・・・言うまでもなく、ささやかながら、お誕生日のプレゼントも持参いたしますですね。で、あと一回でも、ミカの笑顔が見られれば、俺、それでいいもん。この先、それだけで生きていけるもん。たぶん。
*
例によって、玄関先でうじうじと長い間ためらってから、思い切ってピンポンした。
・・・応答はない。まさか。激しく押し寄せるデジャブの嵐。まさか、もう発っちゃったとかじゃないよね? 焦って覗いてみたら、大きな窓越しに、見覚えのあるテーブルがまだある。よかった。少なくとも、中はもぬけの殻じゃない。でも油断はできない。もしかして海外移住の場合って、家具は置いてくもんなの? 家具付きで家を売るとか? ・・・表札を確かめると、まだ「上遠野」。ミカはまだここにいるって、とりあえず信じることにした。
だけどデジャブどころか、これでもう、いったい何度目だろう――こうやって無駄にピンポンしに来たのって? でもまあ、これだけは確実に言える。次はもうないです。次にここに来たときには、あの表札はもう替わっている。知らない人のうちになってる。ううっ。
また押した。返事なし。留守なのかな? 誕生日なのに。あ、でも、パパとお出かけかもね。高級レストランでバースデイランチとか。また中の様子をうかがったが、人の気配は・・・分からない。灯りはついてない。けどまだ昼間だからな。この邸宅の中はすごく明るいし。
また押した。しつこいな俺も。キモいんだよ諦めて帰れよバカが。でも諦め切れるくらいなら苦労はないです。
そのとき、ミカの部屋の窓のブラインドが微かに揺れた。それとも気のせいかな? 分からない。また押した。ストーカー上等! また押した。・・・今度は確かだ。誰かが確かに部屋にいる。ミカが部屋にいる。たぶんブラインド越しに、こっちを見ている。
頼むよ正直それ怖いよっ。ラブコメじゃなくてサイコホラーになっちゃうだろ。普通に出てきてくれたっていいじゃん! また押した。・・・ミカは出ない。ピュアなシカトですね。これって前にもあったっけ? あったようななかったような。でも忘れたかったので忘れました。
あああぁぁぁぁぁ~。とにかく詰んだ。俺もうダメぽ。大事なことなので二度言います。俺もうダメぽっ。
これほど完膚なきまでに拒否られてしまったら、もう向こう側へ突き抜けてしまって、ある種、爽やかと言えますね。しつこいようですが、もう俺ダメぽです。かくなる上は、うちに走って帰って、泣きながらダメぽの余韻に浸ろうっと。
だけどそれより何だろう――我が胸の奥より湧き出づる、この憤り。誕生日のミカが、ひっそりと、ひとりぼっちで、今、この家の中にいる。・・・そんなことがあってはならない。まさかミカパパ、忙しくて忘れてんじゃないよね? ちゃんと夜にでも帰ってきて、ふたりで、ロウソク立ててケーキとか食うんだよねもちろん? それかバースデイディナー。もちろんそうだよね。うんうん。
さてと。自分を納得させたら、後はもう帰るしかない。ええと・・・誕生日のプレゼントはどうしようか? ・・・まあいいや。ポストには入らないし。どうせ大したもんじゃないし。喜んでくれるかどうかも自信ないし。じゃ代わりにこれかな。ミカの写真。四つ切に印刷してきたやつ。ええと・・・お誕生日おめでとう。この写真は記念に差し上げます。もしよければ、県の写真展に出したいので、同封の承諾書にサインしてもらえますか? お電話いただければ取りに伺います。よろしくご検討お願いいたします。
メモを添えた封筒を、ポストに落とし入れた。ミッション終了。
最後にまたもう一度、ミカの部屋の窓を見た。これで見納めかな。ブラインドしか見えないけど。
*
あれ? 足が動かないよ。動けません。棒立ち。ずっと窓を見つめたまま。そのうち、ミカがひょいと顔を出すんじゃないか? ・・・なんてね。
*
動けない。
*
やっと足が動くようになりました。ではさようなら。ごきげんよう。うちへ帰りかけたけど、途中で気が変わった。なぜか無性にクレープ食いたくなった。もうヤケ食いだあああっ。
*
その晩も翌日も、承諾書の件でミカから電話があるんじゃないかって、ちょっとだけ期待して待っていた。だけど期待外れだった。うちのポストの中に、町内会の回覧板の裏に隠れて、封筒が入っていた。いつ来たの? ずいぶん早いね。気がつかなかった。承諾書といっしょに、お嬢さまらしいきれいな字で、短いメモが入っていた。
〈写真ありがとう。大切にします。お元気で〉
ピンポンせずにただポストに入れたのは、やっぱり俺にはもう会いたくないからだろう。考えたくないけど。
――もうなんか、写真展とかどうでもよくなった。それにおなか痛い。部室に出掛けて写真をでかく印刷するつもりだったけど、やめました。顧問の先生に体調悪いってラインして、申し込みをキャンセルしてもらった。せっかくミカに承諾書もらったのに、ちょっと悪かったかな。まあいいや。別にもうどうでも。
*
突然の臨時休校と言っても、この街ではまだ一人も感染者が出ていないので、正直危機感は薄い。実質、長~い春休みですね。しかも補習や体育会系の部活がないので、ラインの会話を見ても、みんな、どこかだら~んとした感じです。課題はやたら多いんだけどね。
課題とかやる気ないし。何をしたらいいか分からない。手持ち無沙汰の俺は、毎日ぶらぶらしていた。三月ってこんな長かったっけ?
よせばいいのに、机の上とか整理し始めた。例のアンバサダー報告書のコピーが出てきて、自分で自分に無性に腹が立った。それといっしょに、ミカと行こうと思って作っていた候補地のリストも出てきた。行った場所もあれば行かなかった場所もある。あ。これは・・・。音楽大学の大学院ですね。キャンパスは大きな公園の隣にあって、自転車で行ける。行ってみるか。気分転換に。
小さいけどしゃれた白い建物の一階に掲示板があって、演奏会の案内がいろいろ出ていた。お。ちょうど今から一つ始まるところ。らっきい。ミニコンサートというより、学生の演習用の公開演奏会ですね。小さめの演奏室。無料。宣伝は特にしてないので、聴衆は一握りでほぼ内輪の人々らしい。友だちとか家族とか。でも、ここのレベルは世界でもトップクラスなので、演奏はすごい。これ、やっぱちょっと穴場です。ミカと来たかった。自慢できたのに。
まあご存じのように、俺のクラシックの素養はワーグナーの最初の五分に特化されているので、聴いてても誰のかも何の曲かも分からないんですけどね。でも生演奏の見事さは分かった。ミカのために用意していたセリフは、「すごいだろ! ヨーロッパでもこんなコンサートに行った?」だった。でも今、もし隣にミカがいたら、セリフはたぶんこうかな――「すごいだろ! でも向こうでも、こんなコンサート聴けるよね? 楽しみだね」。
帰り際、演奏を無事終えたお姉さんに、友だちが話しかけているのが聞こえた。
「すごく良かったんじゃない? 後ろで聴いてた高校生、感激して泣いてたわよ」
「そお? ありがと。でも・・・陽気な曲なのにね」
*
眠れないのでテレビをつけたら、深夜映画をやっていた。ちょっと昔の日本映画ですね。明治の話で、原作も有名だよ。たしか教科書にも載ってたんじゃない? 観たら、なんだこれも寝取りじゃん。月島の言うとおりだな。恋愛ものは、古今東西、小説、映画、テレビ、オペラ、そこらじゅう寝取りだらけだ。だけどどうにも理解できなかったのは、主人公が月島みたいなやつじゃなくて、ごく普通の地味~な常識人だってこと。高等遊民とか言ってた? でも、だったら、そんなこと絶対できないと思うんだけど。常識として。
だって、もし仮にミカが人妻だったら、いくら好きになっても俺は寝取りとか絶対しないもん。月島の分類だと法令遵守寝取られ男ってとこかな? でもそういうことじゃないんだ。法律とかじゃなく。ただ、好きな相手を傷つけるようなことは――結果として相手が傷ついちゃうようなことは、何であれ、絶対にできない。好きになるって、そういうもんでしょ? 違うかな?
つまり俺は、何が言いたいのかというと・・・何が言いたいのかな俺は? うん。つまり、結局俺は、いつでもどこでも、ずっとミカのことばかり考えていたってことです。読者のみなさんにはバレバレだろうけど。最初から。
そう――最初から。それは、去年、俺が一瞬だけ彼氏に昇格させてもらったときでもなければ、花火のときでもなく、お祭りのときでもない。ましてやミカがカメに噛まれたときでもない。それが始まったのは、もちろん、あのとき――生まれて初めてミカを見たとき。田んぼの真ん中に立っているその姿を、一目見た、その瞬間からなんだ。
その瞬間から、突如として、俺の世界は永久に変貌してしまった。全てが音を立ててミカを中心に回り始め、全ての思考が、感情が、ミカから放たれ、俺の頭を一回りしてまたミカへと吸い込まれていく。その乱流は、平穏だった俺の日常をことごとく引き裂いてしまったのに、裂け目から差し込むまばゆいばかりの光に射抜かれて、俺は目を閉じることすらできない。何というその輝き!
だけどその同じ瞬間――ほとんどそれと同時に、俺は本能的に悟っていた。彼女が違う世界の住人であるということを。俺は、決して、その世界の住人にはなれないということを。全てはやがて無に帰する運命にあるということを。
だから、こんな小説モドキをここに書き始めたのも、耐え切れない自分の心を紛らすためだったんだ。必要以上にネタをまぶして、面白おかしく書こうとしたんだ。公務員推薦枠なんて、ミカに会うための口実でしかなかったのに。ミカのことも、たぶん無意識に、できるだけ意地悪く、辛辣に描こうとしたんだ。本当の彼女は、もっとずっと素直で優しかったのに。
そうやって、俺は、自分自身の耐え難い辛苦から、どうにかして目を背けようとしていたのだった。ツンデレはミカじゃなくて、俺の方だったんだよ。
でもどうしてもうまくいかなかった。例えばミカのほんの小さなしぐさ――そのひとつひとつを思い出しては、あれは好意のサインだったんじゃないかって有頂天になり、次の瞬間には、単なる思い過ごしに思えて奈落の底に落ちる。その繰り返しで疲れ果ててしまい、それでも眠れぬ夜を過ごす。そうしてこれを書くんだけど、ミカのことは、どうしても「この人」と書けずに「このひと」と書いてしまう。だって大切なひとだから。
それに・・・そうそう。南高の文化祭に侵入したときもそうだ。会いに来たんでしょってミカに言われたとき、俺は驚いてしまった。だって――図星だったから。でもみなさんにもバレてたよね。あんな風にミカに会えるなんて、絶対、偶然なはずはないもん。
あのとき、俺にとっちゃ〈ミレーマ〉も〈P〉も極秘データも、正直どうでもよかったんです。ただミカに一目会いたい一心で引き受けたんだ。そうじゃなきゃ、臆病な俺があんな無茶なこと絶対にやるもんか。わざわざ花染さんにも電話して、ミカが写真部の展示室にずっといるだろうってことを聞き出した。それで、帰りはあえてそっちのルートを取ったってわけ。天井裏の隙間から、一目でもミカの元気な顔を見たいと思ったから。天井が落ちるなんてことはさすがに想定外だったけど。はは。
・・・てなわけで、だらだら書いたけど、お待たせしました! そろそろ最終結論。グランドフィナーレへと参りましょうか。姑息で臆病な俺が、泣き虫の俺が、打算だらけのこの俺が、この場でこの話を締めさせていただきますよ! 注目お願いしますっ。えっと。つまりですねっ。結局。だから俺は。何が言いたかったのかというと。だから――。
*
だから俺は、ミカのためなら普通に死ねる。
そう言い切ってしまえる自分がたまらなくキモい。だけど実際そうなんだから仕方ない。ミカのためなら、俺は、何のためらいもなく、笑って死ねる。初めて出会ったときから。今でも。そしてこれからも。
だけどミカが望んでいるのはそんなことじゃない。彼女は、自分が元いた世界へ、このまま帰っていくことを望んでいる。セレブの世界へ。偉大なる上遠野氏の世界へ。ヒルに噛まれたミカ、カメに噛まれたミカ、トイレへ飛び込んできたミカ、男湯と女湯を間違えたミカ――そんなミカは全部きれいに消してしまって、完璧なご令嬢として、洗練された場所へと帰ってゆくんだ。そしてそれは正しい。圧倒的に正しい。てか他に選択の余地はない。
つまり俺は結局ドンキホーテなんだ。想いは風車みたいに空回り。はたから見たら大笑い。
だからこの物語も、もう終わり。なんていうか、もっと、無邪気でハッピーな終わり方にするつもりだった、そうしたかったんだけど、うまくいかないもんだね。どうしようもなく暗い、尻切れとんぼの終わり方になっちゃった。だけど、読者から見れば、最高に笑えるめっちゃ情けない話に、無事、仕上がったのかもしれないな。まあ楽しんでもらえたんなら、それはそれで良かったんだけど。
*
・・・ふ。
*
・・・うるせえな。邪魔すんな。ゆうべもよく眠れなかったんだよ。最後にぐっすり眠れたのはいつだったっけ。はは。特に今、課題やってたから、寝落ちぬくぬく気持ちいいんだよ。ふは。ふ。・・・。
・・・。ふ。
・・・ケータイまた鳴ってる。ふはあ。しつこいやつだな。誰だよ。
眠気がいっぺんで吹っ飛んだ。信じられない。
「山本くん! よかった! 元気なの!? 大丈夫なの?」
おお。やっぱ良い声ですね。やっぱ好みです。でもなんか焦ってるけど?
「あ~。どうも~。もう着いたんですか? イタリア」
「なに寝ぼけてるの。まだ行ってないわよ。まだこっち。あさって発つ」
「なるほどー」
「写真どうして取り下げたの? 承諾書あげたでしょ?」
「あーすいません。確かに受け取っております。でもせっかくいただいたのに。ちょっと腹こわしちゃってー」
「それ聞いた。展覧会で。だから心配になっちゃって。それで電話したの」
「あーははーどうも。ご心配おかけしまして。でももう大丈夫で~す。ていうか、そんな無理して電話してくれなくても。俺と話したくないんなら、そんな無理しなくていいですので・・・」
精一杯の皮肉をぶつけたつもり。だけど相手には伝わらなかった。
「なに言ってるのよ? シカトはそっちでしょ? 私は山本くんと話、したかったのにっ」
「・・・は?」
これはちょっと聞き捨てならない。いくらお嬢さまでも、事実誤認は正さねば。
「いやどうみてもこの場合、シカトはミカさんの方では? だって誕生日の日、部屋にいたでしょ? 俺知ってるもん。俺10分ぐらいは外で待ってたもんっ」
「37分でしょ? 知ってるわよ。私、窓から見てたから」
「ちょ! おまっ! カウントすなっ。だったらすぐ出てこいやっ」
「だって! 出ても、何て言ったらいいか分からなかったもの。迷ってたのよ。どうしようどうしようって。様子見てた。すぐいなくなるかなって。まだいるかな? って。そんなに長い間立ってると疲れちゃうから、もうやめてって思って。・・・そしたら急にいなくなっちゃって。慌ててドア開けたら、もういなかった。そしたら写真があって。私、走って行ったのよ。山本くんちに。夢中でインターホン押した。12回ぐらい。でもあなた出なかったじゃない! やっぱり怒っちゃったんでしょ!」
「違うし! そんなん知らんしっ。俺いなかったしっ」
「うそ! 部屋の灯りついてたじゃないっ」
「消すの忘れただけだし。俺よくつけっぱだしっ」
「自転車もあったじゃないっ」
「歩いて行ったんだよ! 写真、しわしわにしたくないからっ」
「そんなの分かるわけないじゃないっ。だいたいどこ行ってたのよ?」
「クレープ食いに行った。7枚食った」
「なによそれ!? だからおなかこわすんじゃないっ」
「そんな怒るなよ! 元はと言えばそっちが出てこないのが悪いんだろ!」
「それはそうだけど・・・」
急に声がしおらしくなった。かわいすぎて死ぬっ。
「あのね。会場で写真部の人に会ったよ。プールにいた人。逢魔さん? 私、てっきりあの人、白鳥さんだとばかり思ってた。白鳥さんって、担任の先生なんだってね。知らなかった。勘違いしてた」
だからっ。何度説明すれば分かってもらえるんですかあなたは、と小一時間・・・。
「それでね。あの。・・・私、山本くんに謝らなきゃいけないことがあるの」
「あ。シカト? 俺にめっちゃ冷たくしたことですか? だったらもういいですけど」
「じゃなくて。ていうか、私、冷たくした? いつ? でもそれって結局、もともと山本くんが悪いんじゃない?」
「そうとも言えますが・・・。じゃあ、冬休みに黙ってヨーロッパ行っちゃったことですか? それか、俺の誕生日に電話してくれなかったこととか? それとも。あるいはあれかな? あの――」
延々と続く謝罪候補リストに、ミカはいらっと来たらしく、素早く早口で割り込んだ。
「違うの! そういうんじゃなくて。・・・あの。・・・私、実は。私・・・見ちゃった」
「ええっ!? まっまさかっ。まさかあのときトイレで、俺のナニを――」
「違うからっ! そんなの見てないからっ! バカっ」
「だったらなに?」
「あの――」
ケータイの向こうでミカが大きく息を吸い込んだ。
「勝手に見たら悪いと思ったんだけど、山本くん怒らせちゃったと思ってたし・・・やっぱり心配で。山本くん大丈夫なのかなって。それで。つい。思い出して。見ちゃった。・・・〈カクヨム〉」
*
「ええええっ!?」
「ずいぶん前に、ちらっと画面見たことあるじゃない? それで覚えてたの。〈カクヨム〉と〈都会育ち〉で検索したらすぐ出た」
「・・・ま。まじですか・・・」
まじで血の気が引いた。超絶に激ヤバい。ミカにだけは知られたくない裏情報が、満載じゃないですかっ。〈P〉とかっ。〈ミレーマ〉とかっ。・・・太ももとかっ。このタイミングで、ミカに絶交されるのだけは勘弁してっ。神さまっ。
「あの。・・・あのね。この『美少女』って、ひょっとして、――私のこと? ははっ。お世辞でもちょっと嬉しい。あははっ」
もちろんだよ。決まってるじゃないか。他に誰がいるんだよ。
「あああのっ。ミカさん。全部読んだの?」
「ううん。えっと・・・長いからまだ全部は。読んだの最近の方だけ。最近、ちゃんと元気にしてるのかな? って思ったから。一番新しいとこ」
よよよよかったあ!
「ミカさんどうしても一つ約束して! 残り読むのって、俺がいいって言うまで待って! もっと文章磨き上げたいからっ。お願いしますっ」
ヤバいとこ全部削除しなきゃっ。
「うん。分かった。ごめんね。勝手に読んじゃって。ごめんなさい。でも、私、・・・」
語尾が震えた気がした。
「私、あのね。私・・・。あれ読んで。ちょっと。うん。私。あの。なんていうか・・・すごく。私。・・・嬉し・・・嬉しくってっ。・・・」
沈黙。ミカが必死にこらえているのが分かった。ミカがどこを読んだのかが分かった。こらえきれずに微かな声が漏れるのが聞こえた。言葉にならない声が揺れて、次第に大きくなった。しゃくり上げる息遣いが荒くなった。
あんなことを書くべきではなかった。ミカに読ませるべきではなかった。悲しませることだけはしたくなかったのに。引きとめることだけはしたくなかったのに。あんなに我慢しているのに。あんなに固く決心しているのに。
すすり泣く声が、本当に長く続いた。聞くのが耐えられないほど長く。
もう、本当のミカを消し去ることはできない。この街の記憶を消し去ることはできない。この一年をゼロにリセットすることはできない。ならば、彼女が発つ前に、せめて俺にできることは――。
ミカが落ち着くのを待って、俺は言った。
「明日は忙しいんだよね? 夜、ちょっと出て来れる? やっぱ無理かな?」
「あ。そうね・・・うん。大丈夫。荷造りとか全部終わってるから。あとは乗るだけだから」
「パパに怒られるんじゃない?」
「はは。明日はパパ、たぶん事務所で徹夜。あさっての朝、直接空港に行くと思う。いつもそんな感じ。ギリギリの人だから」
「そうなんだ。はは。よかった」
そして俺は言った。
「――明日は新月なんだ」
**********
今回の挿入歌は ClariS 「treasure」。
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