第257話 弔問外交

『―――王宮警察の拘置所に拘束されていたケネディ公爵が急死しました。

 自殺と見られています。

 死因は、隠し持っていた毒物を服用したもの、と見られています』

 服毒自殺は、簡単に毒物を隠す事が出来る為、実行し易い。


 2017年11月29日。

 オランダのハーグで行われた旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷で、内戦中の残虐な行為への関与の罪が問われていた元クロアチア系軍事組織司令官が、禁固20年の判決に抗議して裁判中、判事達の目の前で服毒自殺を行った(*1)。

 この時の映像は、動画サイトで今でも確認する事が出来る。

 あっという間の出来事であった為、判事達も制止する事が出来なかった。


 ケネディの場合はそれとは違い、目的が達成された為、抗議が動機とは言い難いが、時機が時機だけあって、一気に陰謀論がSNS上で拡散される。


『王室が刺客を放った?』


『事件の全容が解明出来ていないのに、自殺を許す王宮警察、無能』


『捕まった直後、死ぬとか……闇、深過ぎだろ』


・国王

・王妃

・王女

・第二王子

・王姉   2人

・王姉の夫

・王弟

・王の従妹

 を一度に殺害したネパール王族殺害事件(2001年6月1日)の実行犯とされる国王の末弟も事件直後、拳銃自殺を図り(*2)、事件から3日後の6月4日に死亡している為、前例が無い訳では無い。

 が、今回はそれよりも早い。

 ネパールのでも様々な疑惑が残っているが、今回のも、


「目の上のこぶであったクロフォード、ショーンを一度に葬りたかった王室が、ケネディをたぶらかした説」


 が一部で持ち上がっている。

 もっとも、王党派であるクロフォード達を王室が危険視していた、という事自体、間違いなのであるが。

 不敬罪の下、王室の関与を疑う声は、トランシルヴァニア王国では、次々とAI人工知能による自動ネット検閲により、削除されていく。


 2022年6月13日(月曜日)。

 夕方。

 煉は、皐月、オリビア、ライカ、それにBIG4と共に急遽、東京国際羽田空港からプライベート・ジェットで飛び立つ。

 本当はシャルロットやレベッカ等も行きたい所だが、突然の訃報の為、王室側も相応の受入準備が出来ず、王室が許可した最少人数(それでも多いが)での弔問となった。

 喪服に身を包んだ8人は、入国するなり、そのまま葬儀会場に直行。

 2人の遺体と対面する。

「「「……」」」」

 BIG4の内、フェリシア以外は、茫然と立ち尽くし、

「ひいおじい様! おじい様!」

 ちょくの身内であるフェリシアは、棺にすがって、泣き叫ぶ。

 機内では誰よりも憔悴しょうすいし、葬儀会場では、喉が枯れるほどの大声だ。

「「「……」」」

 それが弔問者の涙を誘う。

「……」

 最低限の顔合わせを済ませた煉は、十字を切った後、そっと会場を出ていく。

 身内ではあるが、直系ではない。

 直系、或いは分家に配慮した形だ。

 遅れて皐月も出てきた。

 葬儀会場から離れた東屋あずまやで、2人は座る。

 外はフェリシアの想いを体現したかの様な、大雨だ。

「「……」」

 2人は、東屋から葬儀を見守る。

 葬儀会場には、現在進行形の英連邦や旧英連邦の旗が掲揚されていた。


・英、豪、カナダニュージーランド(1926年11月19日)

・パキスタン           (1947年8月14日)

・印               (1947年8月15日)

・スリランカ           (1948年2月4日)

・ナイジェリア          (1960年10月1日)

・ガーナ             (1957年3月6日)

・マレーシア           (1957年8月31日)

・キプロス            (1961年3月13日)

・シエラレオネ          (1961年4月27日)

・タンザニア           (1961年12月9日)

・ジャマイカ           (1962年8月6日)

・トリニダード・トバゴ      (1962年8月31日)

・ウガンダ            (1962年10月9日)

・ケニア             (1963年12月12日)

・マラウイ            (1964年7月6日)

・マルタ             (1964年9月21日)

・ザンビア            (1964年10月24日)

・ガンビア            (1965年2月18日)

・ガイアナ            (1966年5月26日)

・ボツワナ            (1966年9月30日)

・シンガポール          (1966年8月9日)

・レソト             (1966年10月4日)

・モーリシャス          (1968年3月12日)

・エスワティニ          (1968年9月6日 旧「スワジランド」)

・ナウル             (1968年11月1日)

・トンガ             (1970年6月4日)

・サモア             (1970年8月28日)

・フィジー            (1970年10月10日)

・バングラデシュ         (1972年4月18日)

・バハマ             (1973年7月10日)

・グレナダ            (1974年2月7日)

・パプアニューギニア       (1975年9月16日)

・セーシェル           (1976年6月29日)

・ソロモン諸島          (1978年7月7日)

・ツバル             (1978年10月1日)

・ドミニカ国           (1978年11月3日)

・セントルシア          (1979年2月22日)

・セントビンセント・グレナディーン(1979年10月27日)

・キリバス            (1979年7月12日)

・バヌアツ            (1980年7月30日)

・ベリーズ            (1981年9月21日)

・アンティグア・バーブーダ    (1981年11月1日)

・モルディブ           (1982年7月9日)

・セントクリストファーネイビス  (1983年9月19日)

・ブルネイ            (1984年元日)

・ナミビア            (1990年3月21日)

・カメルーン、モザンビーク    (1995年11月13日)

・ルワンダ            (2009年11月29日)


 と言った現行の国々、計54か国。

 脱退済みの、


・ジンバブエ(2003年脱退 2018年、再加盟申請)

・バルバトス(2021年脱退)


 2か国。

 加盟申請中の、


・南スーダン 2011年

・スリナム  2012年

・ブルンジ  2013年


 以上3か国。


 元加盟国のアイルランド(1931年加盟、1949年脱退)


 非加盟国の15か国と1地域。


・南部アフガニスタン

・米、以、香港

UAEアラブ首長国連邦

・パレスチナ

・イラク

・エジプト

・オマーン

・カタール

・クウェート

・スーダン

・ソマリア

・バーレーン

・ミャンマー

・ヨルダン


 これ以外の王室属領であるチャンネル諸島やマン島。


 果ては、


・英主権基地領域アクロティリ及びデケリア

・英領インド洋地域

・サウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島

・ケイマン諸島

・フォークランド諸島(マルビナス諸島。アルゼンチンと係争中)

・セントヘレナ

・ピトケアン諸島

・アンギラ

・モントセラト

・タークス・カイコス諸島

・ヴァージン諸島

・ジブラルタル(スペインと係争中)

・バミューダ諸島


 からも代表者が来ている。

 クロフォードの顔の広さが伺える一方、この弔問外交は、領土問題で対立しているアルゼンチン、スペインに対する主張の場とも化している。

 その証拠にイギリスと国交を結ぶ多くの国々の大使は、来ているものの、両国の大使は、居ない。

 イギリス政府の明確な主張に対する意趣返しだ。

 歴史的には、昭和天皇の大喪の礼(164か国)、チトーの葬儀(119か国)等には遠く及ばないが、それでも英連邦がここまで勢揃いするのは、極めて珍しい。

 トランシルヴァニア王国での国葬なのだが、イギリス色が強いのも多民族国家ならではあろう。

 トランシルヴァニア王国は、イギリスの領土問題には、中立の立場を表明している為、アルゼンチンとスペインが来ないのは、完全に火の粉がかかった感じだが、両国よりも歴史的にはイギリスとの関係が強くもある為、仕方の無い一面もある。

 二兎追う者は一兎も得ず。

 サンフランシスコ平和条約(1952年)直前、日本国内は、単独講和論(対象者:アメリカ)と全面講和論(対象者:ソ連、国民党)に分かれていた。

 当時の首相・吉田茂は単独講和論を、左派は全面講和論をそれぞれ主張した。

 当時の世論調査(*3)では、

・単独講和  45・6%

・全面講和  21・4%

・分からない 33%

 と単独講和論が2倍以上の支持を得ていた。

 もし、ソ連等と講和を結んでいたら、北方領土問題は早くに解決していたかもしれないが、後年のハンガリー動乱(1956年)やプラハの春(1968年)を考えると、単独講和で正解、と言えるだろう。

「……」

 大雨の中、皐月がしな垂れかかった。

「守ってあげてね?」

 間髪いれずに煉は、答える。

「分かってるよ」

 皐月が心配しているのは、アイルランド系のキーガンとスコットランド系のフェリシアの仲だ。

 弔問を終えたキーガンが、雨の中、小走りでやって来た。

 見れば、彼女以外のアイルランド系も、罰が悪そうに早々と帰っている。

 ただでさえ、BIG4から事実上、除名されて余り評判が宜しくないアイルランド系が、1人の公爵の暴走で更に名を落としているのだ。

 白眼視され、陰口を叩かれているのは、容易に想像がつく。

 王侯貴族の社会だけあって、表立っていう事は無いだろうが、その分、陰湿である。

「少佐、申し訳御座いません。身内が大罪を……」

「謝るな。連座の時代ではない」

 キリスト教徒が多い貴族社会では、連座を重んじる事がある。

 中世ヨーロッパでは、魔女狩りの際、魔女とされた女性の子供までもが鞭打ちに処される事例(*3)があった程だ。

 恐ろしい事にこれは、冷戦期、共産政権下でもあった。

 NKVD内務人民委員部命令第486号等がその根拠だ。

 スターリン時代の1930~1953年の間には、78万6098人が処刑(*4)されたとされているが、その実数は分かっていない。

 トランシルヴァニアでもその時期、多くの人々が連座の規則から犠牲となった。

 現在では、


『何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない』


 という日本国憲法第31条と同じ様な、文言で、連座を憲法により禁じている。

 但し、中世ヨーロッパやスターリン時代にあった事を違憲にしても、長年、染みついた貴族の感覚は中々、払拭し辛い。

 キーガンにも責任を求める貴族も居ても可笑しくは無い筈だ。

「おいで」

 皐月が、キーガンを抱き締める。

 煉は風邪覚悟で東屋を出て、空を見上げる。

 大きな雨雲が、ゆっくりと動いていた。


[参考文献・出典]

 *1:AFP 2017年11月30日

 *2:ネパール政府調査委員会の公式発表

 *3:朝日新聞 1950年11月19日

 *3:桜井信夫『ほんとうにあったこわい話2 おまえが魔女だ』あすなろ書房 

   1990年

 *4:ゴルバチョフ政権下のKGBソ連国家保安委員会の発表

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