第167話 瓶の蓋論

 旧ニコライ・ヴトロフ邸スパソ・ハウス(駐露米国大使館)の駐露アメリカ大使は、震えていた。

「おお、神よ……」

 アメリカ大使館前には、大勢のデモ隊が詰め掛け、今にも突撃しそうな勢いだ。

 事の発端は、前大統領のヴィクトルが、『ソ連崩壊時、日米に核兵器を渡していたこと』が発覚したからだ。

 これに真っ先に怒ったのが、ヴィクトル政権の閣僚の1人であったイゴールだ。

 彼は大統領になると、直ぐにアメリカ大使と日本大使をクレムリンに呼びつけ、抗議した。

 そして、

「断交も有り得る」

 と発言したのが、国営放送を通じて発信され、感化された支持者が愛国無罪の下、集まったのだ。

 この状態だと、日本大使館も同じような状況だろう。

 アメリカ大使の脳裏に浮かぶのは、イラン・アメリカ大使館人質事件である。

 親米派で独裁者であったパーレビ国王の下、イランは近代化を推し進めた。

 然し、これに反対したのが、ホメイニを代表としたイスラム法学者達。

 彼等は、パーレビから弾圧されつつも、遂には革命を成功させ、彼を1979年1月16日にエジプトに亡命させた。

 その後、パーレビは世界各地を転々としつつ、「癌治療」を理由に同年10月22日にアメリカに入国した。

 これに対し、革命政権は激怒。

 元よりあった反米感情が加速し、10月22日以降、テヘランのアメリカ大使館周辺で反米デモ行進を行い、遂には、11月4日、暴徒が大使館の敷地内に侵入。

 遂に大使館は、暴徒の手に落ちることになる。

 暴徒は、人質52人と引き換えにパーレビの身柄引き渡しを要求した(*1)。

 暴徒の大使館襲撃は、以下の国際法に反していた。

 ———

『第22条

 1

 使節団の公館は、不可侵とする。

 接受国の官吏は、使節団の長が同意した場合を除くほか、公館に立ち入ることができない。


 2

 使


 3

 使節団の公館、公館内にある用具類その他の財産及び使節団の輸送手段は、捜索、徴発、差押え又は強制執行を免除される』(*2)

 ———

 然し、暴徒やそれを鎮圧する筈のイラン政府は、諸外国の非難を無視。

 アメリカでも反イラン感情が高まり、両者の対立は根深くなっていく。

 事件当時のアメリカの大統領は、人権派で、人質が居るにも関わらず、救出作戦をしないことに不支持を集めた。

 そして、

 翌年4月24日に『イーグルクロ―作戦』を実行に移すも、事故により失敗。

 アメリカと近しい関係にあるサウジアラビアやヨルダン等が、説得に当たるも、イランは強硬姿勢を崩さなかった。

 事件が一気に動いたのは、同年7月27日にパーレビ国王が、最終的な亡命先であるエジプトの首都ヨルダンで病死したことから、暴徒が大使館を占拠する根拠が喪失し、これを皮切りにイランの態度は軟化し始め、11月4日にカーターが敗れ、新大統領にレーガンが就任した後も交渉は続けられ、1981年1月20日。

 人質が実に444日ぶりに解放されたことで、解決した。

 この時のように、ロシアのデモ隊がいつ暴徒になっても可笑しくはないだろう。

 直近では、2012年9月11日にリビアで領事館が襲撃に遭い、クリストファー・スティーブンス大使(1960~2012)が殺害された。

 この事件は、1979年2月14日にアフガニスタンでアドルフ・ダブス(1920~1979)がテロリストに殺害された大使以来、33年振りのことであった。

 余談だが、この他、4人が武力攻撃により、公務中に殉職している(*3)。

①ジョン・メイン(1913~1968) グアテマラ 反乱軍

②クレオ・ノエル(1918~1973) スーダン  テロリスト

③ロジャー・デイビス(1921~1974) キプロス デモ隊

④フランシス・ロメイ(1917~1976) パレスチナ テロリスト

 又、これとは別に2人が、飛行機事故に遭い、同様に殉職している。

①ローレンス・スタインハルト(1892~1950) カナダ

②アーノルド・ラーフェル (1943~1988) パキスタン

 アメリカの大統領は世界最強、と言っても良いくらいに厳重に警備されているが、これほどの大使が犠牲になっているのは、大統領の代わりに狙われるのかもしれない。

 言うなれば、世界で最も命の危険性がある外交官はアメリカ大使、と言えるだろう。

 2021年には、アメリカの大統領がロシアの大統領に対し、「殺人者」と述べたことが、契機となり、ロシアは駐米大使を帰国させた(*4)。

 アメリカも2016年の大統領選挙でロシアが干渉していた、とし、ロシアの外交官を大量に追放している(*5)ことから、両国の外交関係は非常に悪いのだ。

 一応、現時点ではロシアは、イランの人質事件のようなことはしていないのだが、冷戦時代以来、暗闘を繰り広げらている両国だ。

 報道されていない暗部は、当然沢山あるだろう。

 ♪ ♪ ♪

「!」

 スマートフォンが鳴った。

 大使は、慌てて引っ手繰る様に取る。

「はい」

『私だ』

「! ゴールドシュミット国務長官?」

 国務長官は、日本で言う所の外務大臣に当たる。

『帰国だ。テヘランやベンガジの二の舞は避けなければならん。12時間以内に荷物をまとめろ。良いな?』

「は、はい!」

 電話を終えたゴールドシュミットは、キューバ産の葉巻を咥える。

 白髪で黒縁眼鏡の老人だが、その眼光は猛禽類のように鋭い。

 国務省の執務室で、ゴールドシュミットは、吐く煙で輪を作っていた。

(対露政策は失敗だったな……それもこれも大統領が後手後手だからだ)

 それから灰皿に葉巻の先端を押し付ける。

(日本の方も失敗だ。糞ったれが。政変の時、反乱軍と一緒になって伊藤を討てば良かったものを……)

 ゴールドシュミットは、に賛成はしているものを、裏切者になることは許していなかった。

(あの政変は、伊藤に1杯食わされた……反乱軍の動きは、事前に察知していたのに……相当な食わせ者だな。奴は)

 正直な所、ロシアがあのようになるのは、が大統領になったからだ。

 前任者はロシアと友好的だったが、後任者である今の大統領は反露的だ。

 その癖、人権派のように、大使館が命の危機に瀕しても言葉だけの抗議だけで、何もしない。

 ゴールドシュミットは、現代版ロイ・コーン(1927~1986)である。

 自由主義政党党員でありながら、政治思想は保守政党そのものだ。

「……」

 報告書に視線を落とす。

 ———

『2016年末時点、日本のプルトニウムの保有量は、約47tであり、これは原爆に換算すると、約6千発分にも相当する』(*6)

 ———

 約6千発といえば、世界トップクラスの保有数だ。

 参考までに国別の核兵器保有数は、以下の通り。

 ———

『国    :数(発)

 ロシア  :6375

 アメリカ :5800

 中国   :320

 フランス :290

 イギリス :215

 パキスタン:160

 インド  :150

 イスラエル:90

 北朝鮮  :30~40』(*7)

 ———

 いずれも、2020年1月時点の数である。

 これに2016年の情報だが、日本が6千発持てば、イスラエル等の軍事大国を一気にごぼう抜きで世界2位に躍り出る。

(……軍国主義者の伊藤のことだ。絶対に数は、増やしている筈だ)

 歴史上、核保有国は、攻撃を受けた例が無い。

 中ソ対立の時も印パ紛争の時も、これらの国々は核保有国であったものの、良心の呵責かしゃくなのか、核戦争にまでは、至らなかった。

 尤も、印パ戦争の場合、核兵器が使用された場合、その推定の死者数は、1億2500万人であり、世界中が寒冷期になるシナリオが想定されている(*8)為、両国ともその危険性は熟知している筈だろう。

「……」

 ゴールドシュミットは、1971年、当時の国務長官と共に訪中した際、彼と周恩来チョウ・エンライ首相の遣り取りを思い出す。

 ———

『国務長官

「自力で自らを防衛する日本は、周辺にとって客観的に危険な存在となるでしょう。

 より、強力になるでしょうから。

 それ故、私は現在の対米関係が、実際には日本を抑制しているのだと信じている。

 もし我々が皮肉な政策を採ろうとすれば、我々は日本を解放し、自立を促すでしょう。

 これは日中間に強い緊張を引き起こすでしょうから、我々がその間に入る事になる。

 それはとても近視眼的だ。

 貴方方あなたがたも我々も、双方が犠牲者となるでしょう。

 ですから、我々が日本について相互に理解し、我々双方が、日本に対して抑制を示すことが重要なのだ。

 日本は太平洋において、アメリカの政策に従順であり得ると信じるアメリカ人は無警戒だ。

 日本人には彼ら自身の目標があるのであって、その目標はワシントンではなく、東京で作られる。

 アメリカの政策について、別の文脈から私が既に述べた事を、具体的に繰り返そう。

 第一に、我々は日本の核武装に反対する。

 このことについて、何の権限もない政府関係者が何と言おうと。

その上、彼らは決してそのような事は述べていない、と言う。

 第二に、我々は日本の通常兵器が、日本の四島を防衛するのに十分な程度に限定することが好ましいと考えている。

 我々は日本の軍事力が、台湾や朝鮮半島、またこれまでの協議で指摘した他地域であれ、何処に対しても膨張する事に反対する。


 周恩来

「もし貴方方あなたがたが、日本の核武装を望まないと言うなら、それは日本が他国を脅かす為に、貴方方が防御的な核の傘を提供するということか?」


 国務長官

「日本はそんなことができるか? どうやって?

 仮想の状況についてお話するのはとても困難だが、日本の行為によって生じるような軍事的紛争に対して、核の傘が適応される等ということを、私は極めて疑わしいと思っている。

 核の傘は本来、日本列島に対する核攻撃に対して適応されるもの。

 我々が核兵器を、自国の為に使うと同様に、日本の為に使うのではない事は当然。

 実際、そういうことはあまりないだろう。

 然し、日本は核兵器を非常に迅速に作る能力を持っている。

 ですから、要するに我々は、日本の軍備を日本の主要四島防衛の範囲に押しとどめることに最善を尽くすつもりだ。

 然し、もしそれに失敗すれば、他の国と共に日本の膨張を阻止するだろう』(*9)

 ———

 所謂、『びんふた論』だ。

 教え子として、その思想は、受け継ぐ必要があるだろう。

(……老人には、御隠居して頂いて、新時代に入らなければ、栄光なるアメリカは、衰退するばかりだな)

 ボタンを押し、

「ロビンソン、来い」

 知日派の専門家を呼ぶのであった。


[参考文献・出典]

 *1:『昭和55年 写真生活』 2017年 ダイアプレス

 *2:外交関係に関するウィーン条約 第22条 一部改定

 *3:ウィキペディア 一部改定

 *4:BBC 2021年3月18日

 *5:日本経済新聞 2016年12月30日

 *6:NHK クローズアップ現代 2017年11月17日

 *7:国際平和拠点ひろしま HP

 *8:ニューズウィーク日本版 2019年10月3日

 *9:『周恩来キッシンジャー機密会談録』毛利和子 監訳・増田弘

    岩波書 2004年 一部改定

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