2話 ミドル
――実りの村ラクニバ。
優しい青色をしたソラニアの花が咲き誇り、真っ赤に実ったマトマ畑や、ゆるやかに村を吹き抜ける風にひげを揺らしているコメモロコシ畑、でっぷりとしたドデカボチャ畑の広がるのどかな村だ。
ラクニバにやってきたアルドは、色鮮やかな天幕で造られた独特の家々の立ち並ぶ土くれの道を歩きながら、きょろきょろと周囲を見回していた。
「たしかこの辺だったよな……」
以前、野菜売りを手伝った若者の八百屋がこの辺りにあったはずだ。
天幕の張られた露店を探しながら歩いていると、通りに面した一軒の露店に差しかかったところで、店先でお客さんの呼び込みをしていた若者が片手を上げた。
「あ、君! もしかして、あのとき野菜売りを手伝ってくれた青年じゃないか?」
「え?」
アルドが足を止めてそちらに目を向けると、たしかに以前、野菜売りを手伝った八百屋の若者がにっこりと笑って片手を振っていた。
探し人が見つかった、とアルドは表情をゆるめて青年に歩み寄る。
「ああ、久しぶりだな。あれから体調はどうだ? 変わりないか?」
「もちろん、ばっちりだよ! すっかり体調もよくなったし、これからも妹のためにも頑張らないとね。ところで今日はどうしたんだい? 野菜がご入用とか?」
若者が茶目っ気たっぷりに片目をつむってみせて、お察しのとおり、とアルドも笑って後ろ頭を掻いた。
「じつはそうなんだ。オレの知り合いで、急きょドデカボチャが必要だって人がいてさ。今日は、あんたの育てたドデカボチャを買わせてもらえないかと思って来たんだ」
青年は、遠慮深く言ったアルドの肩を軽くたたいた。
「なんだ、そんなことなら、俺の作った一番できのいいドデカボチャを持っていってくれないか。色艶も大きさも他のドデカボチャよりも立派なんだ。きっと食べたらおいしいに違いないよ」
若者は気前よくそう言うと、店先に並んでいた一番大きなドデカボチャを持ってきてくれた。それをアルドの前にずいっと突き出す。
アルドは、差し出されたドデカボチャと青年の顔を交互に見つめた。
「いや、さすがにもらうわけにはいかないって! ちゃんと代金を支払わせてもらうよ。500Gitだったか?」
以前野菜売りの手伝いをしたときに、お客さんに売った売値を思いだして言う。
いま青年が渡そうとしているドデカボチャは、あのとき自分が売ったものよりも立派だから、もう少し高値だろうか。
おろおろとしているアルドに、若者は気持ちよく快活に笑った。
「ははは、遠慮しないでくれ! あのとき、野菜ならたくさんあるからいつでも食べにきてくれって伝えたじゃないか。あのときのお礼と言ってはなんだけど、俺の渾身の出来のこのドデカボチャ、もらってくれると嬉しいよ」
気の良い若者から、心からそう言ってくれているのが伝わってくる。
(これ以上断ったら、逆に失礼になるかもしれないな)
そう思ったアルドは、若者の差し出しているドデカボチャに腕を伸ばしながら、お礼を言う。
「ありがとう。それじゃ、お言葉に甘えて、このドデカボチャいただいてくよ。こんなに立派なかぼちゃを渡したら、オレの知り合いも喜ぶと思う」
それを聞いて、若者は、ぱっと顔を輝かせた。
「俺の作った野菜で喜んでもらえるなら、八百屋の冥利に尽きるっていうものだよ。ありがとう、ぜひまた遊びにきてくれよな」
アルドはドデカボチャを皮のベルトで背中に括りつけて、若者に手を振って歩き出す。
(なんというか、良い行いをすると、自分に返ってくるものなんだなあ)
人に優しくすることは、自分も人に優しくしてもらえるということなのかもしれない。
そんなことを思いながら、アルドは弾む足どりでラクニバを後にした。
「……さて、お次はっと」
いったんドデカボチャを次元の狭間にある酒場――時の忘れ物亭のマスターに預けたアルドは、次に古代にある火の村ラトルにやってきていた。
ラトルは乾燥した砂漠地帯にある村で、熱さを逃がすための石造りの家々が立ち並び、ヤシの木が村のいたるところに生えている異国情緒あふれる場所だ。
そんな南国の街並みを歩きながら、アルドは悶々と考え事をしていた。
(はちみつか……。誰に聞いてみようか)
ひとまず、手あたり次第に聞いてみるしかなさそうだろう。
アルドは足を止めて、近くにいる村びとに話しかけようとした――そのときだった。
「……どうしよう、母ちゃんが、母ちゃんがっ……」
村の片隅で、つんつんとした茶髪に、緑色に白の刺繍の入った上着に黄色のサッシュを巻いて、黒の半ズボンに茶色のサンダルを履いたラトル特有の服装をした少年が、ぽろぽろと落ちる涙を必死に手で拭っていたのだ。
アルドは驚いて、その少年に駆け寄る。
「おい、どうしたんだ? どこか痛いのか?」
少年の顔を覗き込みながら聞くと、少年はふるふると首を振った。
「ち、違うんだ……。おいら、母ちゃんが病気で……。村の人が言うには、『黄金のはちみつ』っていう特別なはちみつを食べさせれば、たくさん栄養が含まれてるから病気が治るかもって言われたんだ。でも、そのはちみつはゾル平原の魔物が持ってて……。おいら、母ちゃんのために採りに行きたいんだけど、どうしても魔物が怖くて勇気が出ないんだっ。そんな弱い自分が情けなくて……。おいら、どうしたらいいのかわからなくてっ……」
ううっ、と少年は嗚咽を漏らして、鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにしている。
アルドは地面に膝をついて少年の背丈まで屈むと、少年の頭にぽんと手を乗せた。
「もう泣かなくていいぞ。自分の母親を治すために、魔物に立ち向かおうとする勇気は立派だよ。全然情けなくなんかないぞ」
「……そうかなあ?」
自信なさげに上目遣いで見てくる少年の両肩を叩いて、アルドは立ち上がった。
「それで、その『黄金のはちみつ』っていうのはどういうものなんだ? 普通のはちみつと同じなのか?」
もしかしたら、エミリーのお菓子作りにも使えるものなのだろうか。
ふとその考えがよぎって問いかけると、少年は大きくうなずいた。
「うん。普通のはちみつと変わらないんだけど、ただ、普通のはちみつよりちょっと色が茶色くてネバネバしてるんだ。ゾル平原にあるお花から、ホーネットっていう蜂の魔物が集めてきた蜜でできてるからなんだって」
「なるほど。じゃあその『黄金のはちみつ』は、ホーネットの巣から採ってこないといけないのか。だからさっき、魔物が怖くて採りにいけないって言ってたんだな」
アルドがまとめると、少年は、うん、としょんぼりとうなずく。
『黄金のはちみつ』があれば、エミリーの役に立てるかもしれない。
それに、この子の母親の病気を治すには『黄金のはちみつ』が必要なのだから、エミリーのことは抜きにしても、この少年の力になってやりたい。
アルドは腰の長剣の柄に手を乗せる。
「あのさ、よかったら、オレにその『黄金のはちみつ』を採りにいくのを手伝わせてもらえないか……?」
「え?」
きょとんとする少年に、アルドは後ろ頭を掻きながら笑いかける。
「じつは、オレもその『黄金のはちみつ』が必要なんだ。もちろん、おまえの母さんの分を優先してもらって、もし余ったら、その分をオレに分けてもらえれば十分なんだ。それで、もし余らなかったらまた自分で採りにいくから、そのあたりは気にしないでくれ」
「う、うん、でも、本当に手伝ってもらっていいの?」
おずおずと問いかける少年に、アルドは満面の笑顔を向けた。
「ああ。母親のためにひとりで魔物に立ち向かおうとするおまえの勇気は立派だけど、それでもしもおまえが怪我でもしたら、母親を悲しませることになっちゃうだろ? 母親を悲しませることは、できればやっちゃいけないことだとオレは思うんだ。だから、兄ちゃんにおまえの手伝いをさせてもらえないか?」
諭すようにアルドは言う。
少年は、アルドの言葉に、目を潤ませながら、うん、と深くうなずいた。
「ありがとう、兄ちゃん……! おいら、母さんを助けられるように頑張るよ! だからどうか、おいらに力を貸してくださいっ」
がばっと、少年はアルドに大きく頭を下げる。
アルドは二つ返事で首を縦に振った。
「オレこそ、はちみつを探してたからおまえに会えてよかったよ。道案内、よろしく頼むな!」
アルドが笑いかけると、頼ってもらえたのが嬉しかったのか、少年は弾むようにうなずいた。
そうして「こっちだよ」と手招きしながら駆け出す少年のあとを追って、アルドも走り出した。
ゾル平原は、紫色や青色をした巨大なキノコや、橙色をした人食い花が群生し、大きなヤシの木や岩山が点在している熱帯地帯の平原だ。
からからに乾いた地面には短い草が生えそろっていて、それをさくりと踏みしめながら、アルドは傍らにいる少年を見やった。
「ホーネットを探せばいいんだったよな。どの辺にいるかわかるか?」
少年は、勇ましく周囲を見渡しながら言う。
「うーん、たくさんいるから、結構すぐ見つかるはずなんだけど……あ、いた!」
少年が指をさす先、黄色と黒色の肢体に、薄い羽をばたばたと震わせた蜂の魔物が三匹ほど徘徊していた。
まだ魔物まではそこそこ距離があるのに、ぶんぶんという羽音がここまで聞こえてくる。
(……あれがホーネットか。結構手強そうだな)
アルドと少年は、身を低くして草むらに潜む。
三匹のホーネットの後方にある太い樹木には、マーブル模様のような縞のある巣が下がっていて、ホーネットたちはそれを守っているようだった。
「……まず、見張りのホーネットたちを巣から離さないといけないな」
『黄金のはちみつ』は巣の中にある蜜を採取しなければならないから、まずは巣に近づけるようにしなければならない。
アルドが草陰からホーネットたちを見据えながら言うと、少年もうなずいた。
「そうだね。……兄ちゃん、ひとつ提案があるんだけど」
「なんだ?」
「あのさ、おいらがおとりになって見張りのホーネットたちを引きつけるから、兄ちゃんは、そのあいだに巣の一部を剣で切り取ってきてほしいんだ」
巣の一部があれば十分なはちみつが採れるから、と少年は意気込んで言う。
アルドは首を横に振った。
「いやいや、おとりなんてそんな危険なこと、まだ子どものおまえにはさせられないよ。万が一怪我でもしたらどうするんだ!?」
「大丈夫だよ。おいら、これでもホーネットの扱いには慣れてるし、足の速さには自信があるんだ。それに――」
「それに?」
アルドが先を促すと、少年はアルドを見つめて、照れくさそうに鼻の下をこすった。
「おいら、いくら母ちゃんのためだって思っても、最初は魔物が怖くて、勇気が出なかったんだ。でも、兄ちゃんがおいらに力を貸してくれるって言ってくれて、それで、ここまで来ることができたんだよ。だから、おいら、ここが一番の頑張りどころだと思って、やってみたいんだ。おいらのことを信じてくれる、兄ちゃん?」
少年は、決意の感じられる、光のともった瞳でアルドを見つめる。
アルドは一瞬迷ったけれども――すぐに、わかった、とうなずいた。
自分の母親を助けたいという少年の勇気を信じることも、きっと大切なことだ。
万が一少年に危険が迫るようなことがあれば、自分が駆けつけて守ってやればいい。
アルドは、少年に向けって、目を細めてほほ笑んだ。
「わかった。おまえのことを信じるよ。ただ、危ないと思ったらすぐに逃げるって約束してくれ。くれぐれも無茶だけはしないようにな」
ぱああ、と少年は目を輝かせる。
「兄ちゃん、おいらのこと、信じてくれてありがとう! おいら、頑張るよ!」
少年とアルドは、目を合わせて、にっと、男同士で笑い合う。
そうして目配せをすると――まずは少年が、元気よく地を蹴って、電光石火の勢いでホーネットの前に飛び出した。
巣を脅かす敵が現れたと警戒したホーネットたちは、羽を揺らして羽音をぶんぶんとうならせて威嚇しながら、彼らのお尻についている太く尖った針を少年に向ける。
「やーいやーい、こっちだよーっ!」
少年は、お尻ぺんぺんでもするふうに、その場でぴょんぴょんと飛び跳ねると、ホーネットに背を向けて一目散に駆け出した。
突然逃げ始めた少年に刺激されて、興奮したホーネットたちは、逃げ回る少年の背中を追って飛び去っていく。
その場に残されたアルドは、草陰に隠れた自分の目の前を通過していくホーネットたちの気配が完全に消えたことを確認してから、ごそっと草むらから顔を出した。
「……よし、今のうちにはちみつを採らないと」
アルドは、見張りの働き蜂たちが去って、すっからかんになっているホーネットの巣に、忍び足で近づく。そうしてマーブル模様の縞のある蜂の巣を、腰の剣を鞘に入れた状態で構えて、つんつんとつついてみた。
途端、ぶーんっという羽音を立てて、三匹のホーネットが巣から飛び出してくる。
巣の中にも何匹か働き蜂が残っていたのかもしれない。
アルドは後ろに飛びずさって、すぐさま腰の長剣を抜き払う。
「すまない、少しだけはちみつを分けてもらうぞ……!」
お尻の針をむき出しにして、ホーネットたちはアルドを取り囲んで襲いかかる。
アルドは剣をひるがえして、三匹のホーネットの針を切り落とし、次に羽を落として彼らの自由を奪う。羽を切り取られたホーネットたちは、無力化されて地に落下した。
「……ふう、なんとか片付いたか?」
アルドが一息ついたのもつかの間に、アルドの背中側からまた羽音が聞こえ、振り向くとさらに三匹のホーネットが姿を現した。
おそらく、さきほどのホーネットが警戒ホルモンを出して、仲間たちを呼び寄せたのかもしれない。
「……仕方ない。応戦させてもらうぞ!」
さらにアルドが三匹のホーネットを剣で追い払うと、ついに羽音は聞こえなくなった。
巣からも働き蜂が出てくる気配はない。
巣には、もうホーネットの幼虫しか残っていないのかもしれない。
アルドは剣の刃先で、巣の端の部分をサクリと切り落とす。
「ごめんな。少しだけもらっていくぞ」
この巣を一生懸命作ったであろう働き蜂たちに一言断ってから、アルドは切り取った巣を皮袋に入れて早々に巣の近くから立ち去った。
無事に巣を採り終わったところで、アルドは周囲を見渡す。
(よし、上手くいったぞ。あとは、あの少年を探さないとな)
アルドは口に手を当てて、ゾル平原に響き渡るように声を張る。
「おーい、巣を採り終わったぞー!」
すると、アルドのすぐ脇にあった草むらがおもむろにがさがさと揺れた。
ひっ、とアルドが驚いて肩を跳ね上げると、その草むらから、ぴょっこりと少年のつんつんした髪が覗いて、続いて少年が泥んこの顔を出した。
「やったね、兄ちゃん! こっちも無事にホーネットたちから逃げられたよ! あの魔物は真下が見えないから、背を低くして逃げれば見つからないんだ。それに、あいつらが嫌うハーブの匂いを体につければ寄ってこなくなるしね」
少年は、にしし、と得意げに笑いながら、そのホーネットの嫌う匂いを放つというハーブの束を取り出してみせる。
「へえ、そんなハーブがあるのか。やっぱりおまえはホーネットのことをよく知ってるんだなあ」
草むらから出てきた少年に歩み寄って、アルドは少年の持っているハーブに鼻を近づける。緑色のぎざぎざとした小さな葉を持つハーブからは、すーっと鼻の抜けるような清涼感のある香りがした。
「ふうん、オレにはずいぶん良い匂いに思えるけど……。ホーネットはこの匂いが苦手なのか?」
アルドが難しい顔をして腕を組むと、少年が大きくうなずく。
「うん。詳しいことはおいらにはわからないけど、ホーネットが苦手な成分が入ってるらしいよ。――それより兄ちゃん、蜂の巣、綺麗に採ってくれてありがとう。ちょっとおいらに貸してくれる?」
「あ、ああ」
少年に蜂の巣を手渡すと、少年は腰に吊り下げていた短剣を取り出して、巣についている蜜蓋を丁寧に削り取っていく。
すると、蜂の巣を形成している無数の六角形の穴にはびっしりと黄金の蜜が詰まっていて、まるではちみつゼリーのように見えた。
「おお、こりゃすごいな!」
アルドが驚いて口をぽかんと開けると、少年もうんうんと嬉しそうにうなずいた。
「うん、こんなに蜜が詰まってる巣、おいら初めて見たよ! こんなにたくさんのはちみつが採れたら、きっと母ちゃん、元気になると思う。ありがとね、兄ちゃん」
蜂の巣を大事に両手で持って、少年は目を潤ませて喜んでいる。
アルドは背を屈めると、そんな少年の頭にそっと手を乗せた。
「ああ、おまえの役に立ててよかったよ。もしはちみつの量が足りなければ、オレの分もおまえの母さんにあげていいからな」
自分はまた集めればいいのだから、今は、この子のお母さんの分を優先するべきだろう。
本心からそう言うと、少年はいよいよ涙をこぼしながら、泣き笑いの顔を浮かべた。
「ありがとう、兄ちゃんは本当に優しいんだね。おいら、兄ちゃんに会えてよかった。兄ちゃんがいてくれたから、おいら、頑張れたんだよ」
少年はそう言うと、手を伸ばしてアルドの手をぎゅっとつかむ。
「兄ちゃん、それじゃあ一緒においらの家に行こう! おいらの母ちゃんに会ってほしいんだ! 兄ちゃんのこと、母ちゃんに紹介したいからな」
「そうか、ありがとな。それじゃあ、お言葉に甘えてお邪魔させてもらおうかな。オレもおまえにお世話になったし、おまえのお母さんにご挨拶させてもらいたいから」
アルドは穏やかな表情で少年に笑いかける。
少年は、ホーネットから逃げ回ったからか砂と泥で汚れた顔をくしゃくしゃにして、嬉しそうに笑った。
「――母さん!」
火の村ラトルの一角にある平らな屋根をした石造りの家に、少年は飛び込んでいった。
アルドも少年に続いて室内に足を踏み入れると、床には大きな壺が並べられ、金の刺繍で幾何学模様を入れた臙脂色の丸い絨毯、そして小さな明かり取りの窓が壁に造られた、砂漠地帯のラトル特有の調度品でそろえられた部屋がアルドを出迎えた。
その部屋の窓際に、赤い布で作られた固めの枕に、紺色の布でできた掛け布の敷かれた簡素な寝台が置かれていて――そこに、少年の母親と思われる女性がゆったりと横たわっていた。母親は、家に飛び込んできた少年とその後ろにいるアルドを目に入れるなり、慌てて上体を起こそうとする。
「あ、母ちゃん、起きちゃだめだ! おいら、母ちゃんのためにゾル平原で『黄金のはちみつ』を採ってきたんだ! これを食べれば、母ちゃん、治るよね……?」
少年は母親の寝台に駆け寄ると、蜂蜜の詰まった巣を必死に差し出す。
母親は、少年と、そしてアルドのほうに視線をやった。
「まあ……! もしかして、後ろいらっしゃるお客様と採ってきてくれたのかい?」
「そうだよ! 兄ちゃんが手伝ってくれたんだ!」
振り返って笑う少年に、母親はアルドに目を向けたままで頭を下げる。
「これはこれは、旅の方、ありがとうございます。この子のために、お力を貸してくださったのですね」
アルドは寝台に歩み寄ると、母親に首を左右に振ってみせる。
「いや、ちょうどオレもはちみつが必要だったから、むしろオレのほうがこの子に力を貸してもらったようなものなんだ。それで、はちみつはどのくらいあれば足りるんだ? もし今持ってきた量で足りなそうだったら、また採りに行ってくるけど」
母親はアルドの言葉にふるふると首を振った。
「いえいえ、あたしの病には、はちみつが一口でもあれば十分なんですよ。病というよりは、ちょっと働きすぎでバテて倒れちまっただけなんでねえ。『黄金のはちみつ』は栄養価がたっぷりだから、あまり取りすぎるのも腹を壊しちまって良くないんだ」
母親は、アルドに向かって、に、と快活に笑ってみせる。
ラトルの村びと特有の、少し日焼けしたこげ茶色の母親の顔立ちは、どこか精悍で力強さが感じられた。
きっと、『黄金のはちみつ』を食べたら元気を取り戻してくれるに違いない。
少年は、アルドと母親が話しているあいだに台所へと走ると、木製の小さなスプーンを持って戻ってきた。
それを使って巣からはちみつをすくい取ると、そっと母親にそれを差し出す。
「母ちゃん、さっそく食べてみてよ! はちみつは採れたてが新鮮でおいしいよ」
「ああ、ありがとねえ。まさか、あんたがこのはちみつを採って来れるほど勇敢な男に育つなんて、母さんはそれがなにより嬉しいよ」
母親は、息子が自分のためにはちみつを採ってきてくれたこと以上に、息子が魔物に臆しないほど立派な男に成長したことが嬉しいようだった。
母親が受け取ったスプーンの上には、とろとろとしたはちみつが、部屋の明かり取りの窓から差し込む陽射しを受けて、きらきらと黄金に光輝いている。
『黄金のはちみつ』――まさにその名にふさわしい美しいはちみつだった。
母親は、そのスプーン一杯分のはちみつを、そっと口に運ぶ。
それをごくりと喉を上下させて飲み下してから、堪えきれなくなったのか、感動で涙で目をにじませて、少年の頭の上に手を乗せた。
「……ああ、おいしいねえ。今まで食べたはちみつのなかで一番おいしいよ。あんたは、あたしの気づかないうちにどんどんと成長して、立派になっていたんだねえ。誰かのために必死になれる、勇気のある優しい子に育ってくれて、あたしゃ嬉しいよ」
手もとの『黄金のはちみつ』を見つめながら、母親が目じりに涙を浮かばせる。
そのはちみつは、少年が母親のために必死になって魔物に戦いを挑んだ、勇気と優しさの結晶だった。
そうして――
アルドは、村の出入り口まで送りに出てくれた少年に向き直った。
あれから母親は『黄金のはちみつ』を必要な分だけ壺に詰めて、残った分をアルドのために小さな壺にたっぷりと詰めてくれた。
アルドはその壺を大切に皮袋にしまって、少年に笑顔を向ける。
「今日は本当にありがとな! おまえのおかげで、こんなにもたくさんの『黄金のはちみつ』が手に入ったよ」
少年は得意げにその場で飛び跳ねる。
「兄ちゃんに喜んでもらえてよかった! おいらこそ、兄ちゃんがいてくれたから、魔物は怖かったけど、母ちゃんのために頑張ろうって思えたんだ。兄ちゃんがいてくれなかったら、きっと、ひとりではちみつを採りに行こうなんて思えなかったよ。兄ちゃん、本当にありがとね!」
へへ、と照れ臭そうに笑って、少年は鼻の下を掻く。
「兄ちゃん、これからの旅も頑張ってね。おいらは、その『黄金のはちみつ』を兄ちゃんに贈るくらいしかできないけど、兄ちゃんのこと、応援してるからね!」
「ありがとな! オレも、母親のために危険を顧みずに戦える、勇気あるおまえのことを忘れないからな。母親と、いつまでも元気に暮らすんだぞ」
「うん……っ!」
少年に大きく手を振って、アルドはまた旅路へと戻る。
少年は、アルドの姿が見えなくなるまで、手を振り続けていた。
――AD1100年。
未来の時代にやってきたアルドは、この時代の学生たちが通う教育機関『IDAスクール』にやってきていた。
校内のキャンパスは、道を知らなければ迷ってしまうほど広くて、慣れないアルドは何回来てもなにがどこにあるのかわからなくなってしまうほどだった。
看板を何度も見ながら、そのIDAスクールの校舎のひとつ、H棟にやってきたアルドは、ショコラドロップの情報を知っているだろうと思われるイスカの姿を探していた。
イスカは、IDAスクールの学生で構成されている自治部隊『IDEA』の会長で、教職員からも学生からも全幅の信頼を寄せられている優秀な女性だ。
頭脳明晰で才色兼備、さらに素晴らしい刀使いで、アルドもイスカのことをとても頼りにしていた。
そんな彼女はおそらくH棟2階にあるIDEA作戦室にいるだろうと考えたアルドは、校舎2階の壁に隠されている作戦室の入り口の前までやってくると、何の変哲のない無機質な壁に片手を掲げた。
すると、壁がぐにゃりと歪んで、波打つ壁からその奥にある作戦室がうっすらと透けて見える。アルドがその壁に向けて一歩踏み出すと、歪んだ空間の中に彼の姿が取り込まれていった。
そうしてアルドが目を開けると、周囲の景色は一変していた。
ほの暗い室内に、巨大な電子モニターと、いくつもの機械が並んでいる。
その機会の前には、白い制服――IDEAの一員であることを示す通称『白制服』――を着た優秀そうな学生たちが、点々と待機していた。
ここが、かの有名なIDAスクールの自治部隊『IDEA』の秘密の作戦室だ。
その巨大モニターの前に、白に近いまっすぐな淡い金色の髪を腰まで伸ばし、髪の左側に黒い蝶の髪飾りをつけ、床まで届くほどの白制服のマントに、それとは対照的に太ももが出るほどの短い白制服のスカートを履いた美しい女性がたたずんでいた。
その女性が、作戦室にやってきたアルドの姿を目に入れるなり、黒色の長いブーツをカッカッと鳴らして歩み寄る。
「やあ、アルド。久しぶりだね。君がIDEAに来るなんて珍しいじゃないか。なにかあったのかい?」
笑顔で歓迎してくれる女性に、アルドは後ろ頭を掻く。
「ああ。イスカ――ちょっと聞きたいことがあるんだけど、ショコラドロップって聞いたことあるか?」
その淡い金色の髪の女性――イスカにアルドが問いかけると、イスカは髪をさらりとかき上げて艶やかにほほ笑んだ。
「もちろんあるとも。ショコラドロップというのは、わたしの知っている紅茶のお店があるんだけれど、そこで売っている製菓用のチョコレートのことだよ。なんだいアルド、もしかしてお菓子作りでもするのかい?」
ふふふ、とからかうように可愛らしく笑うイスカに、アルドは脱力してみせる。
「違う違う、というか、オレがお菓子作りをすると思うか……?」
「いや、しないだろうね。アルドの場合、妹さんが料理が得意だと聞いていたから、きっとアルドは食べるほう専門なんだろう」
「そのとおり。オレじゃなくて、オレの知り合いがお菓子作りのために必要としててさ。オレがその人の代わりに買うことになったんだよ」
アルドの答えに、イスカは、なるほど、とうなずく。
イスカが白制服のマントをふわりとひるがえした。
「それじゃあアルド、さっそくだけれど、これからふたりでそのお店に行こうか。ショコラドロップが必要なら、お店に出向いて買うのが一番早いからね」
イスカの提案に、アルドは少し驚いて目を見開く。
「いいのか? イスカは忙しいんじゃ……」
「そんなことはないさ。他ならぬキミの頼みだし、時間は惜しまないよ。それに、わたしもたまにはIDEAの会長のイスカではなく、ただのイスカとして余暇を楽しみたいのだよ。キミと一緒にいると、羽が伸ばせそうだからね」
ふふ、とイスカは茶目っ気たっぷりに笑う。
アルドは、ほっと肩の力を抜いた。
「そうか。イスカにそう言ってもらえると光栄だけど……。それじゃ、お言葉に甘えて店まで連れていってもらおうかな」
イスカがうなずき、彼女が歩き始めようとしたところで、その背中にアルドが声をかける。
「やっぱりイスカに聞いてよかったよ。イスカはなんでも知ってるもんな。頼りになるよ」
それを聞いて、イスカは足を止めると、少しだけ振り返って笑んだ。
「それはわたしを買い被りすぎだよ、アルド。……それに、わたしにとってはキミこそ誰よりも頼りになるんだけれどね」
イスカは、最後のつぶやきはアルドに聞こえないように言う。
「うん……? 今なんて言ったんだ、イスカ?」
アルドが首をかしげると、イスカは人差し指を立てながら可愛らしく片目をつむった。
「ふふふ、秘密だよ」
イスカが案内してくれた紅茶のお店――ティールームというらしい――は、木々の生い茂る閑静な場所に造られた、一軒家のお店だった。
イスカに「こっちだよ」と手招きされて、なにもわからないままにアルドがついていくと、まず黒い門をくぐり、その先に真っ白な壁をした二階建ての建物が現れた。
建物は、貴族のお屋敷を思わせる造りで、一階には白いテラスがあり、二階にはバルコニーがあるようだった。
入り口の観音開きの扉の上には、ティールームと書かれた濃い緑色の軒先テントが下がっている。
上品な造りのお店を前に、アルドが圧倒されて言葉を失っていると、前を歩いていたイスカが弾む足取りで振り返った。
「アルド、ここがわたしのおすすめのお店だよ。綺麗なところだろう?」
「あ、ああ。なんだかユニガンの貴族の館みたいで、圧倒されてるよ。一軒丸々お店になってるんだな」
アルドが正直な感想を述べると、イスカは嬉しそうにくすくすと笑った。
「八百年前の貴族のお屋敷に例えてもらえるなんて、キミらしい感想だね。ありがとう、嬉しいよ」
そうしてお店の中に入ると――館内は、幾何学模様の入った赤い絨毯が一面に敷かれていて、花柄のテーブルクロスの掛けられた丸テーブルが点々と一定の間隔を空けて置かれている、天井の高い広々とした造りだった。
壁の一角は、中庭を臨む形で天井から床まで窓になっており、さんさんとした太陽の光を取り込んでいる。
その窓からは、丁寧に手入れされた生垣のある庭を一望できるようになっていた。
「……ははあ、これはまた、すごいな。本当にユニガンの貴族の邸宅みたいだ」
店内を見渡してアルドが唖然としていると、イスカがその隣に並んで顎に手を当てた。
「ああ、アルドの言うとおり、このお店はキミたちの時代――八百年前の貴族のお屋敷を模して造られているのかもしれないね。さあ、さっそくだけれどお茶でもしていこうか」
「え、ええっ!?」
イスカの突然の申し出に、アルドはびっくりして口をぽかんと開ける。
「いや、オレはショコラドロップだけ手に入ればいいから、お茶とかは……その、申しわけないというか……」
「なにを遠慮しているんだい。キミとわたしの仲じゃないか。それに、わたしもたまには日々の業務を忘れて、のんびりしてみたいのさ。わたしのわがままに付き合ってくれないかい、アルド?」
「う、うーん、イスカがそう言うなら……。でも、オレ、お茶の作法とかわからないぞ」
気にしているのか自信なさげに言うアルドに、イスカは一瞬きょとんとしたあと、あはは、と楽しげに声を立てて笑った。
「アルド、そんなことを気にしていたのかい。キミらしいというか、わたしに恥をかかせないように気を利かせてくれているんだろう? ――大丈夫、お茶……アフタヌーンティーというのだけれど、それは一緒にお茶をする人と楽しむことが一番の作法なのだよ」
イスカは、ころころと可愛らしく笑う。
(……なるほど、楽しくお茶を飲めばいいわけか)
それならオレにもできそうだな。
腹をくくったアルドは、イスカの言葉にうなずく。
「そうか。それなら、他でもないイスカと一緒にお茶をするんだから、オレにとっては楽しいことだよ。イスカと楽しくお茶ができるんだから、作法はばっちりだな」
さらっとアルドが笑顔で言って、イスカはちょっとだけ気恥しそうに笑んだ。
「……まったく、キミ、天然の人たらしと言われないかい? そういうことをさらっと言えるところは、どうにもかなわないね」
「……え? なんのことだ?」
全然気づいていない様子で首をかしげる鈍感なアルドに、イスカは「なんでもないよ」とだけ答えて笑った。
そのうちに店員がやってきて、「こちらのお席へどうぞ」と窓際の席を案内される。
中庭が一望できる日当たりのよい席で、壁一面の窓からは、白や赤、黄色の小さな花が咲き乱れる花壇が見てとれた。
その花々の間を蝶が優雅に飛び回っていて、羽をはばたかせながら舞う蝶は、まるで蝶の髪飾りを揺らして颯爽と戦うイスカのようだと、アルドは思った。
青空の広がる庭園を眺めながら、アルドは丸テーブルの席に着く。
「すごい店内だな……。なんだかオレの時代に帰ってきたみたいで、心なしか落ち着くよ」
アルドの向かいに腰かけたイスカは、アルドの言葉に嬉しそうに笑む。
「そうかい? それならよかった。――それで、注文は何にするかい? メニュー表にある、この紅茶がおすすめなんだけれど」
「そうか。オレは初めてでよくわからないから、よかったら、今回はイスカと同じものにしようかな。イスカがどんな紅茶が好きなのか、気になるし」
イスカの差し出してくれたメニュー表を見ながらアルドが笑いかけると、イスカは、なるほど、とうなずいた。
「それでは、僭越ながらわたしがアルドと自分の分を選ばせてもらおうかな。いまの季節は、この初摘み茶葉――ファーストフラッシュというのだけれど、この茶葉を使った紅茶がおすすめなんだ。とてもさっぱりした味をしていてね。果物みたいな甘い香りがするから、これはジャムを入れないでそのまま飲むのとおいしいんだ」
よほど紅茶が好きなのか、イスカは楽しそうに饒舌にしゃべる。
アルドは、感心したようにそんなイスカを見つめた。
「へえ、イスカは紅茶にも詳しいんだな。なんだか、そうやってはしゃいでるところを見ると、女の子らしいというか、イスカのまた違った面を見られた気がするよ」
「え……」
アルドが何気なく言った言葉に、イスカは驚きから少しだけ目を見開いて、すぐに声を立てて楽しそうに笑った。
「ふふふ、そういうことを何気なく言ってくれるあたりが、アルドがみんなに好かれる理由なのだろうね。ありがとう、褒め言葉として受け取っておくよ」
イスカの楽しそうな様子にアルドがほっとしていると、店員がやってきて、イスカが慣れた様子でふたり分の注文を店員に伝える。
そうして少し待つと――店員が銀製のトレイを持ってやってきて、さきほどイスカが注文した紅茶がアルドたちのテーブルの上に運ばれた。
目の前に置かれた紅茶の入ったカップを、アルドは物珍しそうに上からしげしげと見つめてみる。
カップの中では、透き通るような黄金色の紅茶が、窓から差し込む陽射しを受けてきらきらと輝きながら水面を揺らしていた。
「へえ、おいしそうだな」
アルドが言うと、カップを口に運ぼうとしていたイスカがふっと笑う。
「そうだろう? ここの紅茶はわたしの一番のおすすめなんだ。ほら、こちらのクッキーもサクッとしていておいしいよ」
イスカが目で示す先に、さきほどの店員が紅茶と一緒に出してくれた二枚のクッキーが可愛らしいお皿の上に置かれていた。
一口サイズのお菓子は、紅茶を頼んだお客さんにサービスでつけてくれているようだ。
そうしてアルドとイスカは、他愛のないおしゃべりしながらアフタヌーンティーを楽しんだあと――お店の出入り口で、イスカが店内の一角に設けられている製菓コーナーに足を向けた。
「アルド、これがショコラドロップだよ。一袋あれば足りるかい?」
アルドがイスカの隣に並んで製菓コーナーを見つめると、紅茶やジャムの他に、お菓子を手作りするためのチョコレートやナッツ類といったものが所狭しと置かれていた。
そのひとつ――小さなチョコレートの粒がたくさん入った袋を手に取って、イスカがアルドに笑いかける。
アルドは、イスカが差し出した袋を受け取って、珍しいものを見るように見つめた。
「へえ、これがショコラドロップか。製菓用のチョコレートのことだったんだな」
「ああ。ここのものは高品質だから、きっとおいしいお菓子ができあがると思うよ。アルドのお役に立てるといいのだけれど」
イスカからショコラドロップを受け取りながら、アルドは満面の笑顔を浮かべた。
「イスカのおかげで助かったよ。ありがとな、イスカ!」
「これくらい、お安い御用さ。またなにかあったら、いつでも声をかけておくれよ。アルドのためだったら、どこへだって駆けつけさせてもらうからね」
「ははは、ありがとな! じゃあイスカ、また今度!」
アルドはショコラドロップを皮袋にしまってから、イスカに手を振って去っていく。
イスカはどんどんと小さくなっていくアルドの背を見送って、その姿が完全に見えなくなったあと、いままでのプライベートだった表情を引き締める。
そうして、白制服をひるがえしていつものIDEAのイスカ会長の顔に戻った。
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