いとしの次郎丸様

翔鵜

プロローグ うつけ者

 父が蒸発した。

 私と母は取立て屋が来て初めて闇金に借り入れがある事を知った。母の百枝はYシャツにアイロンをかけていて、「びっくりして焦がしちゃったわ」と笑っていたがその翌日、『父さんを捜しに行く』と書かれたメモと、なけなしのお金と期限切れのクレジットカードの入ったがま口を残していなくなった。


 一度お金を借りたら彼氏は離れて行った。私は塾をやめてテレフォンアポインターのアルバイトを始めた。

「名古屋大学の鈴木と申します。家庭教師の無料体験中ですが、いかがですか?」

 生まれて初めての仕事は有名大学の学生のふりをして約束を取り付けるという際どいものだったが、高校生がすぐに働ける先は他に無かったし、訪問した大学生が教材を売り付けることに成功すると自分にも手当がついた。


 夕方から4時間、土日は時間の許す限り働いた。独りが怖くて友達には相談出来なかった。

 夜になると寂しくて、紛らわす為に床の間の古い甲冑と向き合って食事した。甲冑に顔は無かったが、じっと私の愚痴を聞いてくれた。

「母さんまで、どうしたんかな」

 両親からの連絡は無かった。洗濯物は外に干さず、時々ママチャリの位置を変えたりもしたが、毎夜彼らの寝室の明かりを灯すのは虚しかった。



「あんた、労いの言葉のひとつも言わんのか?」

 そのうち段々と物を言わない甲冑が憎くなって、罵ったり叩いたりしてみたが、孤独感は埋まらなかった。

 家事とアルバイト、それだけの事が温室育ちには難儀だった。ブラジャーを洗濯ネットに入れないと絡まって面倒なことや、ゴミは早めに出さないと集積所に立ち込める臭いでくらくらする事を、私は知らなかった。


「バイバイ。今度は歴史マニアに買うてもらいな」

 私はついに甲冑を質屋に売り飛ばした。髪を下ろして厚化粧すると百枝のパスポート写真に似ていたから、疑われなかった。少し気分が晴れて、その後も桐だんすの引き出しの貴金属を売ってやった。

「飛び降りたら痛いかなぁ」

 一丁前に鬱っぽくなっていた。アルバイトの帰り道、いっそ何処かにいる両親に届けば良いとビル越しの夜空を見上げると、知らない男の声がした。


『馬鹿者、死んではならん』

「……え?」

『死に急ぐのはうつけ者じゃ』

「……誰?」

 周囲を警戒するが、人影はない。時折向こうの大通りを車のヘッドライトが行き交うのみである。

 鼓動が速くなる。ついこの間、友人がストーカー被害にあったばかりである。その子は美人でグラマラスだったけれど、中には痩躯好みの物好きもいるかも知れない。

 私は、街灯まで全速力で走った。


 脚には自信があった。ところが三つ先の街灯にたどり着いても尚、男の声は纏わりついた。

『人間は生まれたときから一人じゃ。そなたには堪えうる力がある』

「誰?」

 感覚を研ぎ澄ますが、電球に集まる虫の羽音しか認識できない。

『辛くても、生き抜くのじゃ』

「いやっ」

 私は両耳をふさいでその場にしゃがみこんだ。


 どれ位そうしていただろう。ぽつぽつと降り出した雨に気づくと、キーンという耳鳴り以外もう聴こえなかった。鞄をまさぐったが傘は持っていなかった。唯一闘えそうなアルトリコーダーを握りしめて、足早に家路を急いだ。


 帰宅するとTシャツがぐっしょりと濡れて体に張り付いていた。気味が悪くて風呂を沸かし、全身をゴシゴシと洗った。

「まさか……借金取り?」

 姿は見えなかったけれど、それなら可能性が無いこともない。任侠映画みたい風俗に売り飛ばす算段だから、死なれて困るのかも知れない。

 湯船に潜って20秒数える。嫌なことはいつもこうやって忘れてきた。潜水は得意である。


『死んではならん!』

 だがまた男の声がした。

「ひゃっ」

 ごぼごぼとむせながら、小窓の隙間から外を伺うが、雨音で良くわからない。

「何なん、もう……」

 とにかく丸腰では危険すぎる。窓の鍵を閉めて、浴室を出ようと立ち上がった。

『慌てずともゆっくり浸かるが良い』

「えっ」

 声は確かに浴室内から聞こえた。

「……どこ?」

 幻聴にしては、話し方が変わっている。

「……透明人間……?」

 おかしな思考だけど他に思いつかなかった。慌てて浴室を出てバスタオルを身体にぐるりと巻きつけ、台所のフライパンを手に取って身構えた。


「お、襲ったら承知しないからね」

 空間に向かって叫ぶと、声の主はクスリと笑った。

『案ずるな、貧乳に興味はない』

「なっ……誰なの?」

『某は次郎丸と申す』

 その失礼な声は次郎丸と名乗り、私の名を呼んだ。

『されど乳もまだ成長途中じゃ、人生を諦めるでないぞ、ひいらぎ








 
















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