閑話 落日に舞う蝶 2


 何年もかけて積み重ねてきたものが、たった一度の失敗で帳消しにされる。

『金糸蝶』の現状が、まさにそれであった。


「くそう! 一回ミスっただけじゃねえかよ!」


 ぐっとルークが酒をあおる。

 真っ昼間の団長室で。


 ガイリアから王都への輸送依頼。

 べつに難しくもなんともない仕事だった。少なくとも『金糸蝶』にとっては。

 団員数五十名を超えるクランである。盗賊団に襲われる心配もない。

 普通に街道を使って、王都まで軍需物資を届けるはずだった。


 ところが、途中で大雨に降られて足止めされる。

 あげくその雨の影響で街道の一部が崩れ、荷馬車の通行が困難になってしまった。


 結局、少し戻って迂回路を使うという方法しか選択できず、王都に到着したのは期日を三日も過ぎてからだった。


 最悪である。

 よりにもよって、王家からの依頼を失敗してしまったのだ。


 出迎えた軍司令官の、まるでゴミでも見るような目をルークは忘れられない。

 それはかつて、孤児院で育った幼少の頃、街の大人たちから向けられたものとおなじだったから。


「くそ! くそ! くそ!」


 あいつらを見返してやるためにずっと走り続けてきた。

 なのに、期日にたった三日遅れただけで、王家御用達の看板まで取り上げられるという。


 あの無能な司令官のせいだ。

 物資が三日くらい遅れたって勝てるように作戦を立てるのが指揮官ってものだろう。

 あいつは反乱軍との小競り合いの敗北を『金糸蝶』のせいにしているだけだ。


 アルコールが脳を焼き、ルークの思考を他罰に染め上げていく。

 なにをどう言い訳したって、遅れた方が悪いに決まっているのに。



 そもそも、七日かかると想定されている行程なのに、七日前に出発している時点でどうかしているのである。

 有能な指揮官だったら、最低でも三、四日のバッファを取って出発していただろう。


 もしそうしていたら、大雨に見舞われるのは目的地に到着してからの話だった。

 もちろん結果論であるが。


「大丈夫よルーク。運が悪かっただけよ」


 荒れる恋人の背をフィーナが優しく撫でる。

 まったく建設的でなく、しかも意味のない慰めだ。


 彼らが今考えるべきは運の善し悪しのことでもない。軍司令官の無能を論うことでもない。

 そんなことをしても、事態の解決には少しも寄与しないのだから。


「フィーナ……」


 しかしルークは逃避した。


 恋人の豊かな胸に顔を埋める。

 まるで、そうしている間に誰かがなんとかしてくれる、とでも思っているかのように。







「団長は?」

「副長といちゃついてる」

「ダメじゃねえか」


 返ってきたニコルの言葉に、ジョシュアは大きく息を吐いた。

 こんなときに何をやっているのか。


 依頼の失敗は仕方がない。否、本来は仕方がないで済む問題ではないのだが、こぼれたミルクを嘆いてもグラスに戻るわけではない。


 王家からの依頼でやらかした。王家御用達の看板も取り上げられる。多額の賠償金を課せられた。

 これらは凄まじい逆境である。


 しかし、つらい苦しいと嘆いていたって始まらない。

 善後策を講じるべきなのだ。


「とにかく今は謝罪しかねえ。ネル副団だったら、失敗の翌日には依頼者のところに行って、謝り倒しただろうにな」


 頭を地面こすりつけるなり、手土産を持参するなり、それこそなんでもやって、せめて王家御用達の看板だけでも残してもらうように頼み込んだだろう。

 彼は、クランのために自分を押し殺すことができる人だった。


「なのに、何やってんだよあの女は」


 失敗から一ヶ月あまり、ただ団長室で傷をなめ合ってるだけ。

 バカなのか?

 甘やかすだけが愛情だと思ってるのか?


「怒るなジョシュア。冒険者クランの経営なんか、なんにも判らないで副長になったんだ。気の利いた働きなんてできるわけがない。あの女に」


 フィーナという名前すら、もう彼らは口にしなくなっていた。


 あの女。

 結局、あの女が来てから『金糸蝶』はおかしくなってしまった。

 ルークがたぶらかされ、ライオネルが追放され。とんだ毒婦ではないか。


「だったらせめて、自分の身体でも使って軍の司令官をたらし込めや」

「ジョシュア。それだけは言っちゃダメだ」

「……すまん」


 激昂した頭に冷水を浴びせられたように、ジョシュアは短く謝罪した。


 冒険者は聖人君子の集団ではない。汚いことをすることだってあるし、ときには御法に触れることもやる。

 しかし、仲間の女性を権力者に差し出して自らの安寧を買うような真似だけは、絶対にしない。

 仲間を売ることだけは、してはいけない。


「謝るようなことじゃないさ。口にしないだけで俺だって思いは同じだ。クランを出て行くのはネル副団じゃなくてあの女だったってな」


 ニコルの声には静かな怒りが含まれていた。

 それは表に出さない分、より深くより激しかったかもしれない。

 静かな流れをたたえた清流の、その川底には強いうねりが生まれているように。


「団長はもうダメだ。完全に牙を抜かれてしまった。あの人はもう冒険者じゃない」


 自ら腕と才覚のみを頼りとし、裸一貫から成り上がってきたルークの姿はすでにない。

 現実から逃げ、責任から逃げ、ただ快楽をむさぼるだけのくだらない男だ。


「俺は団をやめるぞ。ジョシュア」

「ニコル。まじか」

「幸いなことに、こんな俺でも『葬儀屋フューネラル』が高く買ってくれるそうだ」

「あいつらか……」


 別の冒険者クランだ。

 実力でいえば、『金糸蝶』より一ランクか二ランクは落ちるだろう。団員数も二十人前後のはずである。


「お前もこないか? ジョシュア。待遇は間違いなく下がるだろうが、それでも」


 そこでニコルは言葉を切った。

 飲み込んだ部分は、ジョシュアにも判るだろうと思ったから。

 ネル副団のいない『金糸蝶』に、はたして身を尽くす価値はあるのか、と。


「……そう、だな」


 ジョシュアが挿入した沈黙は、深かったが長くはなかった。


「俺も抜けさせてもらおう。ここにはもう、兄貴たちはいないんだから」


 ライオネルは物理的に姿を消し、ルークは精神的に死んでしまった。

 もう未練はない。

 旅立とう。新天地へ。


「これからもよろしくな。ニコル」

「俺たちは、ああならないようにしようぜ。ジョシュア」


 握手を交わす。


 これが、ガイリア有数の名門クラン『金糸蝶』崩壊の瞬間であった。


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