暖かいそれを抱きしめて

九里 睦

短編:本文

 12月終盤の帰り道。冷たい空気が吹いている。


 視線の傍では、街灯の光や街路樹に巻きついた小粒のような光たちが、ベンチに座る恋人たちの瞳をキラキラと装飾している。


 ベンチの彼らは身体をしきりに合わせ、好意を交換していた。

 とても暖かそうだな……。


 寒くなってくると、春が遠くなる感じがして、無性に寂しくなる時がある。暦の上では近付いているのにだ。


 それに、家にはもう長くなる彼女がいる。

 それこそ、学生時代も入れてしまえば六年になるほどだ。


 関係が上手くいってないわけではないし、もちろん、僕は彼女が好きだ。愛している。

 彼女と出会って、ハッキリわかるほど人生が変わったと思うことも、一度や二度じゃない。僕は、これからも彼女と居たいと考えている。


 だけど。


 僕は足を止める。


 彼女は――ハルはどうなんだろう。


 僕はハルと上手く「恋愛」ができているのかな。


 時々、そんなことが無性に、知りたくなる。




 ――ハルとの出会いは今でも覚えている。というか忘れられない……。

 それは高二の夏、水曜日恒例の七限目の国語が終わって下校していた時だった。


「あのっ、水本くん! 好きです!」


 当時なんの接点もなかった彼女に、いきなり告白されたのだ。


 本当になんの接点もなく、え? 僕居るけどいいの? なんて思ってついキョロキョロしてしまったほどだ。


「君以外いないんだけどね」と冗談めかして言われた時は、周りの夕焼けが冷たくなったように感じた。夏なのに。


 その時の僕の返事は、YESでもNOでもなく、「罰ゲームなら、口裏合わせしますから大丈夫ですよ」だった。


 だってそうだろう。高校で、イケてる転校生という属性があれば、スクールカーストは自ずと上位で確定される。

 そんな彼女に対して僕は休み時間には読書しかしない最下位組だったんだから。


 そこで本物の告白だなんて受け取るほど自惚れてはなかった。……というより、なにかのネタにされて底辺を更新させられるのが怖かった。


 だから、僕が彼女の想いを本物と受け取るまで、一年半かかった。


 一年目はLINEだけを交換して、彼女が好きだ好きだと言ってくる以外は当たり障りの無い会話をした。変なことを言えばスクリーンショットで瞬く間に拡散されるので、言葉は慎重に選んだ。


 それでも三年に進級した辺りで、僕の志望校を伝え、「勉強したいから邪魔しないで」と言うと「わかった」という返信以降、パタリとLINEは来なくなった。

 その時はもうゲームに飽きたんだと思って心底安心したのを覚えている。


 だけどその翌年の春、僕と同じ大学の合格通知と一緒に再度告白してきた彼女を見て、本物だったとようやく気付けた。


 ……時々ケンカにこのことが出てきて頭が上がらなくなる。ハルの強すぎる切り札になっているのだ。


 ともあれ、僕とハルが合格した大学は国立、それも県外で、高校からは二人しか出ていないようだった。ハルの地頭がいいのもあると思うけど、並大抵の努力では合格できない難関だ。


 そんな大学に、彼女は僕を追いかけるためだけに来たんだと言う。それはもう、本物だと信じるしかなかった。


 それから、僕の彼女を見る目は180度変わった。遊んでいるチャラチャラしていそうな子から、一途で、努力家な子へ。


 そんな好転間と申し訳なさから一緒にいる時間が増え、付き合うまでにはそれほど(と言っても既に一年半が経過している。本当に申し訳ない)かからなかった。


 それでも、付き合ってからも、僕の所為でトントン拍子とはいかず、手を繋ぐのにも三月ほど必要だった。

 手汗が〜とか、繋ぎ方はどうだ〜とか、そんな初々しい理由からではない。もっと別の理由だ。


 簡単に言うと、僕は洗脳されていたのだ。小学校の頃から。


 小学校の頃、僕はいじめに遭っていた。よくある「なんとか菌」ってやつだ。

 僕に誰かが触れると、「菌」が付いた状態となり、そこから「菌」の付け合いが始まる、鬼ごっこのようなゲーム。

 そんなゲームが毎日のように行われていた。

 落とし物を拾っただけで、女子に泣かれたこともあった。


 それだけではない。

 小学校にはもちろん給食がある。それに出てくるあのネバネバした豆(僕はこれが嫌いだ)。それが登場した小学三年のある日、クラスの女子が素朴な疑問を呈した。


「納豆って、なんでこんなにネバネバしとん?」


 それに答えたのが、いじわるなクラスの男子。


「なんでって、水本のヨダレが入っとるけんやで!」


 ……その日、担任の先生とクラスの大食漢くんは納豆をどんぶり一杯分くらい食べた。


 他には……もういいか。

 そんなこんなで、僕は段階的に洗脳されていった。

 僕は菌を持っている。

 僕はネバネバの素を持っている。

 僕が落し物を拾ったら怒られる。

 僕が女子と手を繋いだら泣かれる。

 僕が女子を泣かしたと先生に怒られる。

 ――そして、僕は汚い、となった。


 幼い頃に植え付けられたそういう記憶は恐ろしいもので、多分、今でも完全には抜け切っていない。


 当然、そんな僕は大学時代、ハルに触れるのを避けていた。それが手を繋ぐのに三月掛かった理由だ。


 もちろんそんな状態で恋人関係がギクシャクしないわけもなく、ある日ハルはこう言った。


「タクちゃん、そろそろ手とか繋いでくれないと寂しいんですけどっ」


 有名な商店街に赴き、喫茶店や雑貨店を巡る、いわゆるデートというのをしている時だった。


 二つ分のミルクを入れ、もうカフェオレとしか言えないコーヒーを両手で包みながら、ハルはじとっとした上目遣いで僕を見ていた。

 その口は窄められていて、本気でないにしろ、ある程度は怒っていることが伝わってきた。

 そんなハルに、僕は本気でこう聞き返した。


「え? 触れてもいいの? 僕が?」


 その日、僕は心理学をかじっているハルにカウンセリングのようなものを受けた。幼い頃の話をすると、彼女はそれに「洗脳」と名前を付けて、今では僕もその言葉を使っている。


 それからハルは、「タクちゃんの常識は、その……やられちゃってることもあるから、何かで困ったりしたらすぐ相談してね」と言ってくれた。


 ――それから僕らは少しずつ、本当に少しずつ歩み寄り、今に至る。


 ……相談、か。

 僕は、今日のような奇妙な寂しさに襲われる度、何も言わずにハルを強く抱きしめていた。


 その時間は、外の冷気にあてられた僕の心を、湯たんぽのような丁度いい暖かさで暖められているような幸福感が伴う。


 僕は毎回毎回、それを心に刻むようにして味わっている。


 そして僕が落ち着いた頃に、「何かあったの?」と促してくれるのだ。


 去年は確か、二月頃だったか。


 ぼんやりとそれを思い出していると、物凄くハルに会いたくなった。早く帰ろう。


 僕は再び帰路につく。

 今日はまた、相談に乗って貰うのもいいかもしれない。



           *



「ただいま」

「あ、おかえり〜! 遅かったね」


 玄関の戸を開ければ、中からペタペタと音を立てて、ハルが味噌汁の香りとともにやって来た。いつもならここで抱きついていたけど、今日はぐっと我慢した。


 ハルの格好は、ピンクのセーターにベージュのロングスカートと、その上にエプロン。足だけ裸足で寒くないのか、少し不安になる。


「うん。ちょっと、考え事してて」

「なに? 考え事って。悩み事ですかい?」


 ハルがキッチンに戻りながらそう言った。

 やっぱり、一緒に住んで長いと、すぐにわかるものなのかも知れない。少しおどけた感じがありがたかった。


「うん。ちょっとね」

「言ってみ、なんでも聞いてやるぞっ」


 オタマを手に、こちらを振り向き、ニッと笑うハルが愛しい。


「えっと、まずは……」

「まずはときたか。待って、火止める。……んっ、いいよ!」


 ハルはダイニング兼リビングの机に着いた。

 こんな僕の話を、そうやって真っ直ぐに受け止めてくれるハルとは、やっぱり一緒になりたい。

 そう思いながら、ハルと向かい合わせに座った。


「ハルって、なんで僕を好きになったの?」

「んー? 質問じゃん」


 ハルはそう言うけど、嫌な顔はしていない。


「うん。知りたいから」

「う〜ん。恥ずかしいけど、真剣な顔してるから、答えてあげる。……私はね、その顔が好きになったんだよ」

「えっ?」


 め、面食い? しかも僕の? 僕は別にイケメンとかじゃないのに?


「あ、今面食いかと思ったでしょ?」


 素直に頷く。


「違う違う。違わないかもだけど、多分違う。まぁ聞いてよ」


 よくわからないけど、頷く。


「そうだね〜。今から八年前かな。高校二年になるね。梅雨前、転校したての頃、実は私、彼氏居たんだ」

「えっ?」


 それは初耳だ。それが今回の話に何か関係が……?


「そんな顔しないの。梅雨の間に振られちゃってから、なんもないから」

「……梅雨って、転校してすぐだよね?」


 梅雨の「つ」の前に一息ついたのは……バレてるか。


「うん。相手の子が、すぐに新しい子見つけちゃって」

「そっか」


「人」じゃなくて「子」と言うのがなんともハルらしい。これは昔のことなんだよっていう気遣いに溢れていて、あまり重い空気にはならなかった。


「それでね、チャラチャラした人はもうダメだ! って思ったんだよね。次からはもっと紳士な人? にするって」

「僕って紳士なの?」

「わかんない」

「……否定できないからなぁ」


 家に帰るなり、いきなり抱きつくことがある男が紳士とは、流石に言えないよなぁ。


「「あっ」」


 はっとして、話がずれてしまったことに気付く。


「話、戻すね。タクちゃんは掃除もちゃんとするし、どんな授業でも寝たりしないし、私、この人いいかも……なんて思ってたんだ」

「それは……当たり前じゃない?」

「そうでもないよ。ほら、私の髪って茶髪でしょ?」


 ハルは自分の髪を一房、手のひらですくった。


「綺麗な栗色だね」

「ありがと。でね、この色だと、周りにチャラチャラしてる人しかよってこなかったわけ」

「あ、わかる」


 僕がハルをチャラチャラした子だと思った理由と、罰ゲームだと思った理由だ。


「それに、この髪の所為でチャラ子だと思われたのか、好きな人が私の告白を罰ゲームだなんて勘違いしたしで、いいことなかったもんな〜」

「ご、ごめん」

「ふふっ、冗談だよ。で、当たり前でもないってわかったでしょ?」

「はい」

「よろしい」


 ハルは満足げに頷いた。


「それで、タクちゃんのことが気になってて、国語の授業中も見てたの」

「あっ、もしかしてあの日?」


 あの日というのはもちろん、ハルが僕に最初の告白をした日のことだ。


「うん、そうだよ。そしたらね、タクちゃん、凄い真剣な顔で黒板見てたの。二年の国語の先生、めっちゃ緩くて楽な先生だったのにだよ? その時、あっこの人だって思ったんだよね」

「……それって、なんだかあっけなくない?」


 僕がそう言うと、ハルはくすりと笑った。


「うん。恋愛の始まりって、そんなものだと思うよ。あっけなく始まって、そこから風船を膨らませるみたいに、想いとかいろんなのが膨らんでいくんだと思うな」

「でも、風船だと割れない?」

「膨らみすぎたらね。だから付き合ってすぐにベタベタするようなカップルは、すぐ膨らんで割れちゃうんだと思うな」

「なるほどね」


 言えてると思った。ふいに、ベンチのカップルを思い出したけど、まぁいっか。


「大事に、大事に膨らませて……でもたまには離れたりして、ガスを抜いて、ね?」


 ハルは僕との過去を振り返るように宙を見ながら、呟くように言った。

 決してずっと幸せな想い出だけじゃない、焦ったかったり、もやもやしたり、悩みの付き纏う想い出になっているだろうに、そうやって愛おしいものを見るような目をしているハル。じんわりと、僕の胸に暖かさが感じられた。


「で、一つめは答えたよ?」

「あぁ、そうだね。じゃあ次、今もそれは変わらない?」

「変わらないよ。チューしたくなる」


 ハルはすぐに答えてくれた。唇を「んー」なんて突き出して。ちょっとくすぐったい気持ちになった。


「……ありがとう。じゃあ次は――」

「まだあるの?」

「ゴメン、まだある」

「ん、いいよ」

「恋と愛って一緒だと思う?」

「んー。違うと思うな。恋と愛とは、違う風船があると思うよ。膨らみ方も違うし、膨らませるものも違うと思う。夫婦って、新婚でイチャイチャしててもなかなか別れないでしょ?」

「あ〜、確かに」


 僕はウンウンと頷く。


「それで、次は?」

「うん。じゃあ、ハルは、僕を愛してる?」

「愛してる」

「……そっか、ありがとう。僕も愛してる」

「うん。終わった?」

「待って、最後」

「なんだい?」

「時々、ハルが家に居るってわかってるのに、無性に寂しくなる時があるんだ。どうしたらいい?」


「うーん」


 ハルは少し考えた。眉間にシワがよっていて、真剣に考えてくれているのが伝わってくる。だけど可愛い。


「多分だけど、タクちゃんは人の温もりが足りてないんだと思うな」

「……それはないよ。ハルがいるから」

「いや、そうでもないかもしれないよ。だって、タクちゃんって小中高と人との関わりががっぽり抜けてるんじゃない?」


 ずいぶんダイレクトな言い方だと思ったけど、否定はできない。

 僕は控えめに頷く。


「だからね、温もりの累計値が不足してるんだよ、きっと。だから、たまーに抱きついてくる時とかあるでしょ?」


 なるほど。そこに繋がるのか。ハルにそれを言われたとき、すとんと何かが落ちた気がした。なるほど。

 僕は二回、頷く。


「今日も抱っこしよっか?」

「……うん」


 ハルの身体は、湯たんぽのようにあったかくて、心地よかった。

 胸の中に、その暖かさが染み入ってくるようで、落ち着く。好きな人と密着するドキドキもあるのに、こうも落ち着く……どう表現したらいいのかわからない、安心感に包まれる。


 これはハルと一緒でしか感じられない、温もりだ。月並みだけど、そう、名前を付けよう。


「私は、タクちゃんと居れて幸せだよ」

「ありがとう。僕も、ハルと居れてよかった」


 僕たちはしばらく、そのまま温もりを感じていた。



 ハルはペタペタとフローリングを歩いて行き、カチカチカチとコンロを鳴らせる。

 手を繋いだままの僕はその隣だ。


「タクちゃん、料理しにくい」

「僕も片手分手伝うから」

「じゃあ味噌汁混ぜて」

「うん」


 ハルの言う通り、僕はきっと温もりが足りてないんだろう。


 だけどその分、ハルの温もりがたくさん入る。


 恋と愛は別々。だから「恋愛」なんて上手くやれっこない。

 ゆっくり、一つずつで精一杯だ。


 でも、鍋の中でぐるぐると回る味噌の香りとハルのあったかい手には、心底安心させられた。


 これでいいんだっていってるから。




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