彼女と別れて女を拾った結果。

夜が豚を食う。

彼女と別れて女を拾った結果。


昔々、といってもそれほど昔じゃない。数年ほど前の話だ。俺の話くらいにつまらなく、不幸な話はない。一文で事足りる物語だ。


俺はそれくらい身のない人間なのだ。小さいころから人と話すことが苦手で何事にも自信がない。だから夢に向かって一歩を踏み出したことはないし、仲間と一緒に素敵な時間を過ごしたことも全くない。


少々の期待を持ち大学に進学したものの淡い希望はすぐに打ち砕かれた。毎日キャンパスへ赴いて講義が終われば家に帰る。たまには講義をさぼって喫茶店で時間をつぶす。


だけれどもこんな人間に神様は何を間違えたのか浮ついた話を持ち掛けてきた。

一年の頃テニスサークルに入っていたのをすっかり忘れていた俺は講義中後ろから声をかけてきた彼女のことを認識できなかった。


「佐藤くんだよね。私テニサーで一緒の支倉なんだけどちょっとノート貸してくれない?」

支倉は別学部の二年で、かなり整った顔をしていて入学当初から人気だった、ということを後から知った。


「ああ、うん。いいよ」

しどろもどろに俺は答える。

「ありがとう」

支倉は笑みを返してノートを写していく。


それから何度か同じ講義で話すようになった。普段は自身のない俺だけどこの時ばかりは少し誇らしげな顔をしていたように思う。そのうち一緒にご飯を食べるような仲になって順調におれたちの距離は縮んでいった。


「付き合ってください」

それまでは思わなかったが、俺はどうやらロマンチックな人間らしい。クリスマスに彼女に告白すると、喜んでOKしてくれた。これから俺の人生は進み始めるんだという予感がした。


支倉は細身な身体に似合わず大食いでいつもデート代は笑えないくらいだったが、それも彼女のためだとバイトに時間を費やすのをためらわなかった。


また物欲の多い人でもあった。やれバッグが欲しい、ピアスが欲しい服が欲しいだと泣きつかれたことは数知れず。さすがに借金をするには至らなかったけれど一歩手前までは確実に足を突っ込んでいた。


そろそろ貯金も尽きたころ俺は言った。

「少し出費抑えないとな」

言い方がまずかったのかもしれない。言うタイミングが悪かったのかもしれない。とにかくその日から彼女から連絡は来なかった。


数日後支倉からラインが送られてきた。「別れて欲しい」と。彼女の気持ちが薄れてきていることは分かっていた。だけどこうも味気なく、一方的にフラれるのは嫌だったので「会って話がしたい」と送った。


お察しの通り俺が送った情けないメッセージは既読がついたまま彼女から返事が来ることは二度となかった。


一週間後風の噂聞いた話。

支倉は写真サークルの音坂君を一途に想っていて、この前ようやく結ばれたんだって。

支倉は浮気をしていたわけじゃない。ちゃんと俺と別れたあとで音坂君とやらと付き合ったのだ。


彼女は何も悪くないのだろうと思う。だけどこの違和感はなんだろう。胸が土で埋められてそのまま固まってしまったみたいでごわごわする。もやもやじゃない。それよりも邪悪な感情だ。


奇しくもその日はホワイトクリスマスだった。安っぽい三流少女漫画みたいで、ハリボテ感が笑えた。


バイトはわざわざ休みにしてもらっただけに入れますとは言いづらかった。今年のクリスマスはどうやって過ごそう。生まれてから二十年間家族も彼女もいないクリスマスがやけに寒いと感じてしまったのは思い過ごしではないだろう。


雪を踏む音だけが身体に響く。

もうどうなってもいいかな。


積み上げたものというのはいとも簡単に崩れ去り、霧散する。また積み上げることは叶わないのだ。


チューハイ飲みまくろうとコンビニに寄り、十本くらい買って店をでる。

アパートまではもう一直線だ。


しかし部屋で酒を飲むことは叶わなかった。

アパートの前で塀に寄りかかるようにして倒れている女がいた。同い年なのか年下なのか、年上なのかわからない。とりあえず同年代。


髪はけっこうさらさらしてそうで、長さは肩のあたりまで。黒いスキニーに白いパーカーを着ている。その上にトレンチコートを羽織っている。顔はまあまあ整っているかもしれない。


どうしても支倉と比べてしまう。


普段人助けなんかしたことのない俺だったけど、目障りだったし一人で寂しく晩酌しようってときに家の前で死人が出たらせっかくの酒もまずくなる。


だからスマホで119番にかけた。救急車が来ればどうにかなるだろう。

「お願い。やめて」

女は俺の手を掴んでそういった。彼女の震えがこっちにまで伝わってくる。


「あの。救急車呼んだ方がいいんじゃ」

「やめて」

女はそう言い残して気絶した。


うわ。なにこれ。面倒くさいやつじゃん。訳アリってやつじゃん。関わり合いになりたくないわぁ。

心の中でぶつくさとぼやけながらも人間の良心はよくできたもので、酒を放り出して彼女を自室に運んで介抱するのだった。


幸い軽い風邪で済んだらしく一晩介抱してやったらだいぶ楽になったようだ。

「助けてくださってありがとうございます」

「ああ。いえ別に」


独りで時間を過ごすのは寂しかったのであんなふうでも時間を潰せてよかった。早いところ出ていってくれないかなと思っていたところ女の方から提案された。


「何でもするのでここに住まわしてもらえませんか?」

分かりやすく空気に三点リーダーがくっつく。


「どういうこと?」

「だから、何でもするのでここに住まわしてください」

仮に住まわせたとして、通報されるオチなのだろうな。いくら傷心中だからといって見知らぬ女を部屋に置いておくわけにはいかないだろう。


「残念だけどそれは色々問題が」

「なんでもするっていうのは比喩じゃなくて本当ですよ」

この子は何を言っているんだ。


「試しに何か願い事ってありますか?」

やけに真剣に言われるものだから無下にすることもできずバカ正直に答えてみる。

「じゃあ氷結が欲しい」


次の瞬間手のひらには頭で思ったアルミニウム缶が握られていたのだった。

「願い事叶えられるんです、私」

女は笑顔を浮かべて言った。


「これでも置いておく価値はないですか?」

棚から牡丹餅。怪我の功名。蜘蛛の糸。なんでもいいがコミックのような超展開。それまで考えていたデメリットを差し引いてもお釣りがくるような提案だ。


これを断る馬鹿はきっとどこにもいないだろう。

「じゃあ数日の間なら」とよくわからない保険をかけて彼女と俺は一緒に住むことになった。


「名前は何とお呼びすればいいですか?」

「佐藤で。そっちは?」

と俺が尋ねると数秒間をおいて

「鶴子って呼んでください」

と答えた。


「一応聞くけどそれ本名?」

「偽名です」

「にしてもなんでそんな古風な名前を…」

「鶴の恩返し的な?」


よく分からない人だと思った。

「じゃあ鶴子さん」

「偽名なのにさん付けなんですか?」

みみっちいと自分でも思う。が、いきなり呼び捨ては気が引けるのだ。

「願い事っていくつまで叶えられるの?」

「さあ?」

と鶴子は言う。


「え、無制限なの?」

「私にもよく分からないんですよね」


こんなのなんでもありじゃないか。

王様になりたいとか、大金持ちになりたいとか、スーパーパワーが欲しいとか。


俺の考えを遮るように鶴子が言う。

「でもひとつだけルールみたいなものがあって」


「ルール?」

俺は聞き返す。

「願い事を一つ叶えると、願い事の大きさに比例して誰かに同じ大きさの不幸が訪れるんですよ」


身体じゅうの毛が逆立つ。

もしさっきの中のひとつでも口に出してたらあるいは…。


「そんな大事に考えなくても大丈夫ですよ。この世界に人間は70億人もいるんです。だから佐藤さんに不幸が訪れることはきっとないですよ」

そういう鶴子のことが少し怖いと感じてしまった。


こんな怖いことを言う鶴子は器用な子で家事全般はなんでもできた。特に料理は俺が作るよりも数倍上手い。


「流石女子だね」

「それ女性差別ですよ」

なんだか分からない子だなと改めて思った。


この家に住んでる以上仕事はしなければいけない。それは俺も同じだ。

なので家事は分担することにした。料理と洗濯は鶴子持ち。掃除系やその他は俺持ち。

居候とはいえなんでもかんでもやらせてしまうのは鶴子に悪い気がした。


「みみっちいですね」

役割決めのとき鶴子がそう言った。

「別に鶴子さんにとっても悪い話じゃないんだからいいじゃないか」


「居候なんかには押し付けとけばいいんですよ」

「いやいいよ。俺の家だし」

と俺は言った。

すると鶴子は「そうですか」と言って馬鹿にしたように笑うのだった。


鶴子を住まわせてからもう三か月ほど経った。

鶴子と過ごす時間は悪くはなかった。素直に言えば楽しかった。今年は感染症だか何だかで実家にも帰れない俺には鶴子の料理はとても温かかった。


一番驚いたことといえば、風呂場にゴキブリが出たときだった。

みみっちい俺はゴキブリを処理したことなんてないし、鶴子も同じような様子だった。


涙目になりながら「やっちゃってください」とわめく鶴子は可愛かったのだが、ゴキブリの気持ち悪さがそれを超えた。


「鶴子。頼むから離れてくれよ」

「むりむりむりむり」


鶴子が全く離れないままゴキブリと対峙することになった俺は一時間格闘した末ようやくゴキジェットで処理することに成功した。


「はー。やっと終わった」

俺の背中は冷や汗と鶴子の涙でびしょびしょだった。おおよそ9:1の割合で。

「時間かかりすぎ」


本気でキレる鶴子を見るのはこれが初めてだった。普段はそれがあまりにも可笑しくて何十分も俺たちは笑いあった。


普段少々生意気だけど、温厚といっていい性格の鶴子が叫び声を出したのは先にも後にも先にもこれ一回きりだった。


「これからGが出たらどんな状況にも関わらず即刻処理してください」

正月が終わればバイトも始まるし、冬休みもあと一週間ちょっとで終わるのにそれは無理だろう。


しかしその場で無理だという勇気もなくて「はいはい分かりました」と呟くように言った。


気づいたかもしれないけれど、この事件がきっかけでようやく俺たちは敬語を外して話すことができるようになった。その点で鶴子には悪いが記念すべき事件だ。彼女に言ったら怒られるんだろうけど。


一人で過ごすはずだった正月はあっという間に過ぎていった。時間というものは存外伸縮自在なのかもしれない。


気がつけばもう四日になっていた。喜ぶべきか喜ばざるべきか、明日は今年初バイトだ。

「正月の間はずっと俺がいたけど、明日から俺がいない時間はどうするつもり?」

と俺は言った。


「どうもこうもないよ。まだまだ寒いからこたつのなかでぬくぬくするだけー」

「やることやってくれるならそれでいいよ」


食卓の向こう側に座る鶴子をまじまじと見る。出会ったころに比べればだいぶ肉付きが良くなったかもしれない。健康的な身体だ。


拾った当初は邪な思いを抱いたこともあったが今ではそのような感情を抱く余地はどこにも見当たらなかった。


翌日

「いってきます」

「いってらっしゃい」

バイト先である映画館に向かった俺は家を後にした。張りつめた空気が目を覚ましてくれるがそれも気休めにすぎぬほど酔っていた。何に? 人肌の温かさに。


「やけにたるんだ顔をしているけれど新年早々なにかいいことでもあったのか?」

と店長が言った。

「別に何もないですよ」

と言いながらこめかみを指でぐいと押す。こうすると火照りが多少収まるからだ。


顔に出ていただろうか。気を引き締めなければまた馬鹿にされそうだ。

「あけましておめでとう」

と為季が言った。

彼は同じ学科の一人だ。


「なになに?いいことがあったんだって?」

きっと店長との会話を聞かれたのだろう。しつこく迫ってくる。彼のここが短所となってあまり友達がいないのだろうと思う。もちろん同じことは言えないし、余計なお世話だと分かっているのだが。


「いいや。何もないですよ」

同学年にも敬語を使ってしまうのだから笑ってしまう。

「そっかー。支倉さんと何かあったのかと思ったわ」


その言葉はクるものがあるのだが、あえてポーカーフェイスを貫く。まだ為季のところには報せが来ていないらしい。


「じゃあ。今日もいっちょ頑張りますか」

為季はかませ犬のようなセリフを残し仕事にとりかかる。


俺もさぼっているわけにはいかないので売店へ向かったのだった。


シフトが終わるのが午前4時である以上家につくと鶴子が寝ているのは当然であった。

彼女はベッドで安らかに眠っており、時計の音がスタッカートを刻むように鳴っていた。


帰り道コンビニで買ってきたおにぎりを貪る。


そういえば、と思い出す。鶴子は願い事が叶えられる不思議な力があったな。

このおにぎりも彼女に願えばその分のお金が浮く。


もっと手っ取り早くお金が欲しいなんて願えば、バイトなんかする必要ないのだ。天才にしてくれと頼めば勉強なんてする必要もない。


まるでアラジンに出てくる魔法のランプだ。もう何もする必要はないのかもしれない。鶴子の力に頼れば、学校にいくことも働くことも外へ出かけることも無意味なのだ。


「なんで力を使わないんだろうな」

と俺は言った。


彼女が自分の価値を示す最初の願い事以降俺は一度も願ったことはなかった。

不幸になる人間がいたとしても俺には全く関係ない。良心は痛むだろうが。


それに俺は人があまり好きではない。

それなのになぜこれほどに欲が出ないのだろう。


理由は簡単だ。俺がつまらない人間だから。これに尽きる。想像力のない夢もない中身のない人間だから。


コミックのキャラクターはいつだって何かに向かって歩いている。進んでいる。自らの物語を動かしている。


もし彼らが鶴子のような力を手に入れたのならどうするだろうかと思い描く。

何も思い浮かばなかった。


やっぱり俺は無味乾燥、無味無臭のちっぽけな人間なのだ。


一か月後

鶴子はいつまでここにいるのだろう。数日といったはずだが悠に

数日の範疇を超えていた。


そんなことを考えていると現実に呼び戻された。


「ごはんー。現実に帰ってきなさーい」


今晩はロールキャベツ。いつも通りうまい。


そろそろいい頃合いだと考えていた。

「あのさ、鶴子」

「どうしたの?」

「何があったんだ?」

「なにもないよ?」


「そうじゃなくて。鶴子のこと」

と俺は言う。

なぜ彼女はクリスマスの日。家の前なんかに倒れ込んでいたのだろう。

鶴子は同い年で、

料理をすることが好きで、

漫画が好きで、

写真を撮ることが好きで、

動物が好きな女の子だ。


どこにでも居そうな普通の女の子。それがいいのか悪いのかは分からないけれど。

少なくとも何かを背負っているようには全然見えない。


ワケアリだと思い、何も聞かずにいたが時折見せる鶴子の顔がここではないどこかを見つめている誰かの顔をしていた。


表では絶対に見せないけれど、いつも重たい服を着ているような、苦しそうな顔をしていた。

まるで一国を担う英雄のようだった。


とくに目的があるわけではない。鶴子を救いたいとかそんなんじゃなかった。ただ知りたかったんだ。


「本当に聞いちゃう?」

と鶴子は言う。


これまでのような生活はできないのだと悟った。だから人は、人付き合いは嫌だ。どんなことでも少し力を入れれば崩れるから。


「聞くよ」

と俺は言った。


「覚えているかな。私のおかしな力のこと」

と鶴子は言った。


「物心ついたときからかな。両親がその力を頼るようになったの。

最初は二人の役に立てているんだと思えて嬉しかったよ。

だけどある時思ったんだ。私は代用品なんじゃないかなって。確かに彼らにとって私は唯一の存在だったよ。

でもそれは願いを叶えてくれるなら誰でもよくて、私じゃなくてもいい。唯一の存在ってやつじゃないのかなって。

でもそんなのは私だけじゃない。

気づいたの。誰でも誰かの代行者なんだって。

恋人という存在はたまたま近くにその人がいただけで運命の人なんか何人だっている。親だって血なんか繋がってなくてもいい。家族だって一緒に暮らしていればそれだけで家族。

なら私はいったい何者なんだろう」


頭痛が痛くなるような、よくわからない話だった。

「難しい話だよね。ごめん」

と鶴子が言った。


鶴子の顔はどんどん重くなっていく。

「それがきっかけで家を出たの。親が追いかけてきて、そのうち警察まで私のことを探すようになった。

逃げて逃げてどこまでも逃げた。

するとどんどん自分が分からなくなっていっちゃってさ。おとぎ話の登場人物みたいだね」


知恵者エルゼ。


「自分のことが分からなくなっていっちゃってつい願っちゃったの。

私の、

私による

私のだめの、誰かが助けてくれますようにって」


鶴子の目に涙が浮かぶ。

「そしたらあなたが現れたの」


鶴子の目にあふれる涙はなんの涙だろう。哀しみか。喜びか。

表情は髪で埋もれてよくわからない。


「佐藤くん」

言わないでくれ。


「あなたはね」

お願いだ。


「私によって造られた人間なの。あなたの記憶も人生もなにもかも私の力が都合よく世界を書き換えたものなの」


やっぱり。

だから虚しさで胸が込み上げてきたのか。造られた存在だから彼女を愛することしか存在理由がないから、その他が空っぽなんだ。


頭のもやが晴れたような気がする。すっきりした。せいせいした、というのだろうか。それまで人間だったやつが科学者たちにさらわれて怪人にされた感じ。憎い世界を破壊するための力を得て爽快感が溢れる。


そんな俺とは違い、鶴子はいつまでも泣いている。当然と言えば当然だろうか。

自分の造った愛しいバケモノに、「あなたはバケモノなのよ」ときっぱりと告げたのだから。


自分で作った砂の城が自壊してしまう前に自ら壊すことを選択したのだ。


「そりゃ苦しかったよな。こんなバケモノと一緒に暮らしていたんだからさ」

と俺は言った。


しかし鶴子は「ちがう!」と叫ぶ。

「私はこんなに幸せになっていいのかな。

あなたを生み出すために一体どれほどの人間が不幸になったかはわからない。

そんな不幸の上に成り立っている幸せなんか捨てたほうがいいんじゃないのかな?」

と鶴子は叫ぶ。


そんなわけない、とは言い切れない自分がいた。バケモノにも人間の良心があったらしい。


言葉に詰まる俺を見て、鶴子は家から出ていってしまう。

真冬の夜の冷たさは彼女が一番知っているはずなのに。


家に残された俺はただ茫然と立ち尽くしていた。

こんな奴になにができるのだろう。泣きながら走って、夜に逃げる女の子を追っていけないやつに何ができるだろう。何を言えるだろう。


時計を見ると十二時を過ぎていた。一秒進むごとに喉を締め上げられていくようだった。


空っぽなのだ。結局。

己が何者か理解したとしても、俺の中には何もない。


はずだった。

気がついたら刃物のような寒さの中に身を投げ出していた。


俺は嘘をついていたんじゃないか。

自分は空っぽなんだと言い聞かせて何もできないと免罪符を打っていたんじゃないか。

何もできないことを、弱いことを良しとしていたんじゃないか。


弱いことは罪ではけれど、強くあろうとしないことは罪だ。

空っぽなことは悪ではないけれど、空っぽを許すことは悪だ。


鶴子が何処に行ったかなんて知らない。それでもただ探すだけだ。


月光がよく通る澄んだ夜だった。

走って、走って、走りまくった。


俺が鶴子につくられらのなら彼女のために生きよう。彼女が俺を見るたびに心が痛いと痛いというのなら消えよう。


鶴子との生活は賑やかで、面白く、面倒くさく、それでいて幸せなものだった。俺が何者であってもそれは変らない。


「ここに居たんだ」

と俺は言った。


鶴子は家から一キロ離れた公園にいた。

見つけることができたのは奇跡といっていいだろう。


「なんで追いかけてきたの」

「鶴子が泣いていたから」


ブランコと滑り台くらいしかない寂しい公園で鶴子は泣いていた。

「あなたを見ていると苦しい。

やっぱり私のしたことは良くないことで、どこかの誰かは泣いているかもしれない

それなのに私は何をしているんだろうって」

と鶴子は言った。


「それなら早く俺を消せばいいじゃないか。鶴子にならすぐできるだろう?」

と俺は言う。


「本気で言ってるの?」

と鶴子は尋ねる。


「ああ。本気」

と俺は言った。


「なんか、ずるいね」

鶴子は言った。


「かもね」


「ここで佐藤くんを消せなかったら、私は人の不幸で喜ぶ外道じゃない。両親とまるで一緒」

俺は鶴子に言う。


「悪いけどそんなもんじゃないの」

鶴子は目を丸くした。

「人ってそんなもんだよ。みんな誰かの不幸の上に生きている。

よくある話だけど世界じゃ何秒かに一人は死んでいるんだよ。それなのに俺たちはのうのうと生きている

誰かをフッて、好きになったやつと付き合う人だっている。

これじゃフラれたやつはあんまりだ」


俺の話を聞いている鶴子はよくわからなくなっているみたいだ。

「要するにさ、不幸になった人の分まで幸せになったらいいと思うよ」


「不幸になった人の分まで幸せになる、か」

その夜二人で見た月は以前よりほんの少し明るく見えたのは気のせいだろうか。


そしてこの晩が鶴子と話した最後となった。



人間の身体は不思議なもので、音よりも光に敏感らしい。

春の暖かい日差しで俺は目を覚ました。スマホのアラームが鳴る前に起きることができた。

今日は調子がいい日かもしれない。


あの夜からどのくらい経っただろう。

多分四、五年とか、六、七年とかそのくらいだ。一年以上十年未満。


鳥のさえずりで起きるなんてコミックの導入部分みたいだ。

大学を卒業し一般企業に就職した俺は、毎日そこそこ頑張って働いている。

いつも頑張ってたら疲れる。


Tシャツではなく、スーツに着替える。鏡で自分を見てみるとネクタイが少し曲がっていた。


寝室を出て、リビングでお湯を沸かしコーヒーを作る。

最近ようやくコーヒーが飲めたというかすかな成長を噛みしめながらコクを味わう。


朝はコーヒーに限るな。

なんて思いながら昨晩の残りものをチンして食べる。

もっとおしゃれにトーストとか食べたいんだけどな。しかし給料が少ないため、わがままは言ってられない。


朝のニュースはゴシップを垂れ流している。

ほとんど毎朝こんなものを報道するなんて日本は平和ボケしているのかもしれないな。


今日もつまらない日常が始まる。

機械的に繰り返していく中身のない日常。


な? つまらない話だったろ?

俺は人間ではなく、バケモノでした。これで十分に伝わる話だったんだ。


でも欲を言えば、もう一文必要かもしれない。

それは、

「いってらっしゃい」

とキスをされる。

「いってきます。千鶴」

俺はすっかり満たされて、幸せになったってこと。

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