沈みゆく唇を
遊月奈喩多
第1話 歌うように、祈るように、寄り添って
「あぁ――――」
気持ち悪い、
気持ちいい、狂おしい。
私は今、唾棄すべき行いに溺れている。
私は今、この世の幸せの絶頂に至った。
何故なら、大切なあなたが泣いているから。
あなたが私の傍で、静かに泣いているから。
他ならぬ私の傍で、独りで泣いているから。
私の目の前で涙に暮れるあなた。ねぇ、あなた、ねぇ、あなた。私の愛しい人。私の可愛い人。ねぇ、ねぇ、ねぇ、ねぇ、ねぇ。
いつも取り繕っている明るい
ずっと、ずっと、ずっと見ていたの。
幼い頃から、誰よりも傍で、何よりも近くで、ずっと、ずっとあなたを見ていたの。ねぇ、あなた。ねぇ、ねぇ。
だから、知っている。
あなたがどんな目に遭ったのか、それを誰にも相談できずにどれほど苦しんできたのか、そしてその苦しみがまだ続いていることも。誰にも、私にも言ってくれないなんてあんまりだとあなたのことを呪ってしまいたくなったけど、きっとそれも仕方ないことなのだ、だって私はずっとあなたを知っていたのだから。
その涙を舐めればきっと甘いのだろうか、あなたが傷つけられたときに流したものを、どうして1番に舐められなかったのだろう? あなたが傷を負うのだとしたら、それは私だけがよかった、私があなたを傷つけて、その仕返しにあなたも私を傷つけて……そんな関係だと信じていたのに。
「ねぇ、
今なら、きっと届くだろうか?
私は囁きかける。
聞いて、安奈。
あなたが傷つくのなら、私がその傷を塞いであげる。
あなたひとりがそんな風にその愛らしい身体を恐怖に震えながら抱きかかえる必要なんてないの。ねぇ、安奈、ねぇ、聞いて。安奈は汚れてなんかいないの。汚れているのは安奈を傷つけたあの男。
ねぇ、安奈、安奈。
「安奈、私の声が聞こえる、ねぇ、安奈?」
「え、えっ?」
どうしてそんなに戸惑ったような顔をするの?
よっぽど怖い思いをしたということなのかも知れない――だって私の声にすらも、こんなに拒絶反応じみた顔をしてしまうなんて……可哀想、こんな可哀想なことがあっていいの、ねぇ、安奈……?
胸が苦しくなってしまう、どうしてこの子がこんな苦しみを?
ゆっくり、そっと、壊さないように、私は泣きじゃくりながら震え続けている安奈を抱き締めて、耳元で囁きかける。
「安奈、あなたは何も悪くないの。いいえ、あなたにももちろん不注意なところはあった。前から私たちは知っていたものね、外は危ないことだらけで、外の大人たちは私とあなたを引き離そうとする。それに、外にはあなたの知らないような薄汚い欲望がたくさんさまよっているんだもの、そんな中を歩き続けていたら、いつか足を引っ張られてしまうって……前のあなたならわかったはずでしょう?」
「………………、」
「でもいいの、泣かないで、安奈! 無神経なやつらはきっとあなたを、あなただけを責めるはず、あんなやつに付いていったあなたが悪い、あなたが嘘をついてて本当は合意の上だったんじゃないか、必死の抵抗をしたとは思えない、そんなことをまくし立てながら、きっとあなたを見つめてくるの。穢らわしい欲望に曝されて、傷付いているのはあなたなのに、どうしてそんなことをできるのか、私にはわからない、わからないけど、あなたの生きる世界はそういうものでしょう?
私たちを引き離すときもそうだった。ねぇ、安奈は私のこと覚えてた? 周りから忘れるようにと言われ続けるうちに、私のこと、忘れちゃってなかった?」
気まずそうに顔を背ける安奈。もちろん胸は痛んだけど、あぁ、安奈、それはあなたのせいじゃない、あなたにあれこれと強制してきた周囲のせい。
あなたの痛みも、苦しみも、恐怖も、屈辱も、心細さも、後悔も、孤独も、絶望も、何もわからないくせに今のあなたを責める『外』と同じ――私を否定したあの頃から、あなたを取り巻く『外』は何も変わってはいない。
あなたの中から私を消して、あなたに強制して、あなたを矯正しようとするくせに、理解しようとしなかった、自分勝手な解釈で私たちを引き離したやつらが、まだあなたを苦しめている。
部屋のドアが叩かれる。
えぇ、そう、きっとあなたの母親。新しい夫との蜜月に夢中だったくせに、問題が起きたらこうしてあなたを案じる、自分勝手な母親!
『安奈! ねぇ、ここ開けて、お母さんに顔見せてよ、ねぇ、ねぇ!! 話を聞きたいの、あなたの口からちゃんと聞いて、どれだけ安奈が、』
「うるさいなぁ! あっち行っててよ!!」
苛つく……安奈にとってあの日のことを思い出すことすら苦痛だってわからないの? あんな目に遭って、泣きながら帰ってきたその日、どんな浅ましい顔してたか、自分でわかってないんだ! そうだ、私や安奈が忌避する行為をあんなに嬉々としてできる人に、私たちの気持ちがわかるわけない! ねぇ、そうでしょう?
だって現にあなたの母親は、私が怒鳴り付けた声に『安奈……』と絶望したような声を上げている、おかしいね、私は私、安奈じゃないのにね。ねぇ安奈、安奈、そういうことなの。
やっぱりあなたを1番わかってあげられるのは私、誰よりも傍にいて、何よりも近くにいた、私だったでしょ?
「安奈、泣かないで」
母親の去った静寂のなか、泣き続ける安奈の涙を
「――――、」
「安奈、安奈。聞いて、落ち着いて、よく聞いて。私はあなたのことを愛している。世界中の誰よりも、宇宙に何かがいるのなら、その何かよりも、ずっと、ずっと深く」
「…………そんなの、」
「信じられなくてもいい、きっと今のあなたには愛なんて言葉は棘でしかない、恐怖を呼び起こすものでしかないもの、わかってる、それでもね……伝えなきゃって思ったの。
だって、私は本気で、心の底から、あなたのことを想っているから――あなたから引き離されても、あなたに忘れられてしまっても、あなたが他の誰かを想っていた間も、ずっと、ずっと想っていたから」
「……ごめんね、今まで、ずっと……、」
「いいの、謝らないで? 私も心の底ではわかってたから、私がいると安奈が後々苦しいことになるかも、って。だから、安奈が外へ出ていくのも、受け入れたの。ひとりで歩いていくあなたを、見守っていたいと思っていたの」
でも、それは間違いだった。
やはり私は、安奈から離れてはいけなかった――だって、私は……私たちは。
「だから、今度は離さない」
「うん……わかってる、わたしも、あなたのことが本当に大切だから。だから、泣かないで?」
「うん、うん……」
いつの間にか、安奈が私の涙を拭ってくれている――あんな目に遭ってもここまで優しく他人に微笑める安奈が、やはりたまらなく愛おしかった。
だから……だから。
そんなあなたとなら、きっと、どこまでも。
「行こうか」
「えぇ、行きましょう安奈!」
「ずっとありがとね、アンナ」
やっと、名前で呼んでくれた……。その笑顔があれば、きっと何が起きても私たちは!!
一歩、私たちは前に踏み出した。
――――――――。
* * * * * * *
12月某日、深夜。
安奈は死の数日前からアルバイト先を無断で欠勤しており、自室に籠ったまま家族とも顔を合わせることがなかったという。その間、彼女の部屋からは安奈自身による会話めいた声がずっと聞こえていたという。
無断欠勤を始めたのと同じ時期から彼女に関する不名誉な噂が飛び交っていたこと、また養父による虐待を疑う近所住民の証言などから詳しい経緯が調べられているが、発見されたときに彼女の足元に落ちていた割れた手鏡については、ついぞ誰も気に留めることなどなかったという。
沈みゆく唇を 遊月奈喩多 @vAN1-SHing
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