第49話 あいちゃんのご指導
「それじゃあ私、青八木先輩と話してきますね」
蘭童殿と仕切り直しの握手を終えると、彼女は再び教室の中へ入っていった。
僕へのお礼などついでだしな、蘭童殿には雨竜へのアプローチに奮闘してもらわないと。
「あ、あの、廣瀬先輩」
僕も教室へ戻ろうかなと思っていたところで、一緒にいたあいちゃんに声をかけられた。そういえばさっきの話にあまり参加してこなかったけど、別に僕に用事があったんだろうか。
「ご、ごめんなさい!」
「えっ、なんで謝ったの?」
「そ、その、これから1つ質問があって、別に廣瀬先輩を追い込む意図はないんですが、そういう風に感じちゃったら申し訳ないと思って先に……!」
「うーん、よく分からないから質問してもらっていい?」
そう返すと、あいちゃんは視線を右往左往させ、近くに誰もいないことを確認する。その上で、口元に手を当てて僕の耳に顔を寄せた。
「廣瀬先輩は、名取先輩に水をかけたんですか?」
言った後もびくびく小動物のように震えるあいちゃん。成る程、先に謝ったり周りを気にしていたりしたのはそういう理由か。
名取真宵は蘭童殿に謝りに来たと言っていた。蘭童殿とあいちゃんからすれば、急な心変わりに驚きを隠せなかったことだろう。そうなれば、その経緯が気になってしまうのも無理はない。ただ蒸し返すようなことでもないから、あいちゃんは先に謝ったのだろう。褒められたことでないにしろ、親友はそれで助かったのだから。
「かけてないよ。それとは別の、説教に近いことはしたかな」
少し考えてから、僕はあいちゃんを怖がらせないよう限りなく言葉のインパクトを薄めて説明した。
さすがに本当のことを伝えてあいちゃんまで変に罪悪感を抱えてもらう必要はない。あいちゃんには僕が名取真宵に喝を入れて改心させたのだと思ってもらおう。
「…………えっ?」
するとあいちゃんは、想定していない怪訝そうな表情を浮かべた。僕の返答をお気に召さなかったように見えるが、変なことを言っただろうか。
「どうかしたあいちゃん?」
「いえ、その、少しおかしいなって思って」
「おかしい?」
「先輩って、ハンムラビ法典の196条と197条をもとに動かれたんですよね?」
「えっ?」
あいちゃんから急に世界史の単語が出てきて、僕は不意を突かれたような声が漏れた。そういえば、あいちゃんにはそんなことを言ったような言わなかったような。
「あの後気になったので調べたんですが、ここで謳われているのは他人の目を損なったら目を失い、他人の骨を折ったら自分の骨も折られるという復讐法についてでした」
おお、僕が言ったことをあいちゃんは調べてくれたのか。気になったことをそのままにしないというのは優秀な証だ、あいちゃんは将来立派になるかもしれないな。
「――――でも復讐法って、あくまで被害と同等のものを加害者側へ返すという原則に則ってるはずなんですよね」
「……………………」
あいちゃんの勤勉さに感心していた僕は、突如放たれた復讐法の原則を聞き、身体を硬直させてしまう。
「ですからその、今回の場合復讐法に則るなら水をかけ返したのかと思いまして……勿論それで先輩を非難するつもりはこれっぽっちもないんですが!」
「……」
「ですが今聞いたら説教に近いことと言っていたので、ちゃんと同等なのかなと思ったといいますか……」
「……」
「まさかあれだけ堂々と言い放ってそこを考えてなかったってことはないと思うんですが」
「……」
「あっ、ごめんなさい! お節介でしたよね! 先輩が間違った知識を伝えるわけないですもんね、失礼しました!」
勤勉なあいちゃんの悪意のない攻撃が僕の心臓をえぐった。オーバーキルというのはこういうときに使うのだとひっそり思った。
僕がやったことが水かけと同等かどうか、やり口だけを考えればはるかに酷い内容だったと言えるが、実害自体は何も与えていない。つまりは高くもあって低くもあるという曖昧な形だと。
ただ、このことからはっきり言えるのは、絶対に同等ではないということ。
「……すいやせんっしたああああ!!」
「え、ええええ!? どうしたんですか急に!?」
僕は力強く荒々しくあいちゃんへ頭を下げた。恥ずかしい、僕は今とても恥ずかしい気分、穴があったら入って一生出てきたくない。
「あいちゃん先輩、僕、来世からやり直してきます!!」
「ちょちょちょ!! 待ってくださいどこへ行くんですか!?」
「あの空の向こう側です!!」
「ダメですよ!! そこには虚無しかありません!!」
その後朝礼のチャイムが鳴り響くまで、僕はずっと昇天する方法を考えていたのだった。
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