*幕間話 隠れ家
2021年5月12日
成田空港の建設が開始された頃、この地域では大きな反対運動が繰り広げられた。運動は当初、周辺住民の反対運動として始まったが、そこに当時の学生運動の残渣が乗り掛かった格好で大規模化し、最終的には「闘争」と呼ばれる程度にまで激化した。そんな反対運動は反対派と国家警察の両方に相当な被害を出しつつ、結果的には90年代中盤まで続けられることになった。
その結果物として、多くの反対を押し切って建設された成田空港は、当初は日本と海外を繋ぐ空の玄関口という役割を期待されていた。ただ、立地的に都内から近いとは言えず、また、反対運動の結果として規模を縮小したことや、内陸部の空港にありがちな周辺住民からの騒音苦情に対する配慮などから、期待された通りの活躍を見せているとは言い難い。現に今では、規模を拡大し便利性で勝る羽田空港が国際便の発着数でじわじわと差を詰めている状況だ。
とはいえ、開発開始時から日本の新たな空の玄関口として期待され、今も精彩を欠きつつも、それでも国際便の取り扱いは日本で一番多い。そんな空港がある周辺には、特に開発が始まった70年代から80年代にかけて、海外向けの事業を夢見た中小貿易事業者が集まっていた。それらの中小事業者は2021年現在、殆どが世代交代を経て廃業や転業となっている。ただ、中にはしぶとく残った事業者もおり、今も細々と貿易業を営んでいる。
そんな中小事業者の一つが、中国共産党統合情報参謀本部第四部局(通称、統情四局)の日本に於ける活動拠点を
その「谷屋勝」改め「王永民」が運転する4tトラックが、成田空港近郊の自社倉庫に乗り着けたのは、この日の夕方を過ぎた時刻であった。
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倉庫の錆び付いた大扉を引き開け、トラックで中に乗り入れる。そこでエンジンを切り、トラックから降りると扉を固く閉じる。そして内側から厳重に鎖を巻き付けて施錠すると、倉庫内は外の夕暮れ時の薄明かりすら遮断されて真っ暗になった。
と、このタイミングで背後のトラックの方から、
「社長、明かりは着けない方がいいですね?」
という若い女の声。声の主はトラックに同乗していた
――他に使い道が無い――
と、私に押し付けてきた女になる。だが、
その結果、当時は判然としなかったが、どうもこの女の周辺は少し怪しいものがあった。何がどう「怪しい」のか判然としないが、長年の勘が
――この女は怪しい――
と告げていた。というのも、この牧田沙月という女、李が「使い道が無い」と評した割に優秀だった。前の接近工作の舞台となった傾奇町のキャバクラを辞めさせた後、私は「当面はここで働いて居ろ」と代わりに新宿のクラブを活動場所として宛がった。その結果、今年の2月になって牧田は有力な情報筋を捕まえて来たのだ。
情報筋は防衛省勤務のキャリア官僚。クラブの客として通う内に牧田と心(か身体か)を通じた(風な)間柄になった。それで、そのキャリア官僚から吸い出した情報というのが、年末年始にかけて発生した「小金井・府中事件」における自衛隊内部の非公式査問委員会の情報だった訳だ。当時の統情四局は以前からの命令に加えて、この「小金井・府中事件」における自衛隊や警察の動向について事後情報を収集し、命令系統や威力を分析するという任務が加わっていた。その任務の大部分を網羅する生情報を、牧田沙月はそのキャリア官僚から引き出す事に成功した訳だ。
思わず飛び付きたくなるような情報がタイムリーに手元に届く。これは、諜報活動の世界では要注意のサインだ。ということで、私は情報を李
情報の方は
ただ、私の対応は牧田を「二重スパイ」と断定した時点で一旦保留、それ以上の追求をすることなく留まった。この中途半端な状況には、幾つかの理由があった。まず、大きな理由としては、私自身を取り巻く環境の変化が挙げられる。
李が本国へ自衛隊内部情報を送った際、どの様に報告したか知らないが、恐らくその結果として、私は統情四局に属する在日工作員の指揮権を事実上、李に取り上げられる格好になった。3月末の出来事だ。
前々から、太子党を父に持つ李の影響力は強かったが、ここにきて本国の李中将(文字通り、李の父親)は、日本に於ける統情四局の指揮権を全て息子に移すことを決意したようだ。そんな李中将からは、
――長年の忠誠に報いることが出来ず心苦しいが、若輩の息子を頼む――
という、たった1文の見舞い文を得ている。
親子二代、約50年に渡って党に仕えてきた、しかも一時は日本という重要国家の諜報を一手に取り仕切ってきた私に対して、余りにも短く素っ気ない内容の決別だ。この言葉を聞いた時、私の党に対する忠誠心は大きく音を立てて崩れ去った。それと同時に、頭の中を駆け巡るのは同じ工作員だった父と母の姿。息子である私の栄達のみを願い、文字通り身を粉にして党のために働き死んでいった、その後ろ姿だった。そんな両親に対する申し訳なさと、長年の忠誠を踏みにじるような行為に、私は怒りよりも虚しさを強く感じたものだ。
こうして地位を失い呆然としていた私に、牧田沙月という「2重スパイ」を処罰する強い動機は残っていなかった。ただでさえ「2重スパイ」に与えられる制裁は
だから私は、この女に「2重スパイ」である事が露見していると伝え、安全な場所へ去るよう促すつもりだった。そんな事をしてやる義理は無いのだろうが、どういう訳か、そういう心持ちになっていた。この女の経歴を調べる内、余りにも悲惨な生い立ちに同情心が芽生えたのかもしれない。
しかし現実とは奇妙な動きを見せるもので、いざ、私がその事を伝えようと心を構えてこの女を呼び出すと、呼び出し先に現れた牧田は何を思ったのか、自分から「2重スパイ」である事を告白してきた。
そして、
――お願いします、どうか社長の力で妹を、
と、私の想像を超えるような話を始めたのだった。
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――パチッ
と倉庫の奥の事務所スペースで小さな照明が灯る。LEDの白っぽい明かりに浮かび上がったのは、牧田沙月ともう一人の男。そのうち牧田は買い物袋からテイクアウトの牛丼弁当を取り出して男に差し出している。それに男の方が無言で礼をするように頭を下げる。
「社長も、こっちで食べましょう」
今度は私の方に牧田の声がかかる。こんな状況だというのに、よく食欲があると呆れるものだが、「こんな時だからこそ、ちゃんと食べないと!」とのこと。一体25歳の女の何処からそんな台詞が出てくるのか? と呆れるが、まぁ、言っている事は正しいだろう。
「今行く」
私はそう答えると、埃が厚く積もった隠れ家の中を歩き、薄い照明に浮かび上がった事務所スペースを目指す。
牧田の願いを聞き入れた結果、「王永民」改め「谷屋勝」は現在、
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