第6話 ティグリスとユーフラテスの流れに
奈穂は何度も目をぱちぱちと瞬きさせる。眼下に広がる広大な風景―――それはシミュレータが作った仮想の世界であったが、彼女はその世界に介入する権限を与えられた、そう、知恵のいう『アリストテレスシステム』によって。このシステムができることはすなわち史実の世界史に介入して、その歴史を望む方向に改編することである。その権限はほぼ神と等しいものから、単なる市井の一市民ができることなど状況設定によって変えることができることを知恵から説明された。4世代AIによってその指示は、リアルタイムの音声による指示と、場合によっては液晶コンソールを通じて行われる。今回のシナリオは「文明の興亡」世界史のオリエント=メソポタミア文明に介入して、奈穂の望む方向に歴史を動かす。チュートリアルということもあり、与えられた権限はほぼ無制限=神の権力を付加されていた。
奈穂はコンソールの上に手を置きながら、難しい顔する。無制限の介入力。それはまた、彼女がどのような文明の発展を望んでいるかということに直結する問題であった。
(別に......どうでもいいんだけどな......)
望まない入学、望まない同室の同級生。奈穂は知恵のほうを向く。ニコッと笑う知恵だがその表情には有無を言わせない強い圧力が感じられた。
(やるしかないのかな......今後のこの子との関係のためにも)
ルームメイトの変更が聞くかどうかもわからない状態である以上、彼女の機嫌を損ねるのはあまりいいことではない。しかもこのシミュレータが学校の成績に大きく影響するとなれば、なおのことである。奈穂は覚悟を決める。大丈夫、歴史は嫌いだけど知識は十分にあるはずだ、と自分を落ち着かせながら。
目の前には寒々しい風景。明らかに現代とは気候を異としていた。
「氷河期が終わらないと、農耕がはじまりませんね。理由は?」
挑発的に尋ねる知恵。明らかに奈穂を試している雰囲気だ。
「ええと(習ったなそれは)大型の食料になるマンモスがまだいたから?」
へえ、と知恵は感心する。
「普通だったら暖かくなったから、農耕が始まったとか考えそうですが。やりますね。そうです。温暖化によりマンモスなどの大型動物がえさを獲得しにくくなり、減少していく。結果それを狩って食料を得ていた人間もほかの方法を考える必要が出てきた、という説ですね」
(なんか......こいつうざいな......)
率直な感想を奈穂は頭の中に浮かべながら、コンソールを操作する。農業がおこなわれるようになるためにはそれに適した植物が必要である。『シナリオ上の環境設定』から適当な植物の進化を促すコマンドを入力する。このシステムは初めてであったが、学校教育で使われているインターフェースは共通化されていた。中学時代、誰が見ても優等生であった奈穂はその点は全くよどみがない。
悠々と流れる大河の周辺にぽつぽつと集落が見られるようになる。そして密集した青い点々も。人間が作り出した最初の食料。畑である。しかしその地域は分散しており、ある時を境に増加はストップしてしまう。当然文明と呼べるものは登場しない。
くすっ、と知恵は意地の悪い声を漏らす。これだけでは文明が成立しないことを彼女は知っていた。
無言で奈穂はコンソールを操作する。大河のエネルギーをより上げ、そして大河周辺の気候を乾燥化する。一見逆効果に見える介入であるが、それは意を得ていた。水利の便の良いことから、大河周辺への人口の集中。その一方で乾燥する気候は人間の自然への働きかけを促す。灌漑による農地の拡大―――結果、それまで孤立していた人間集団は巨大化し、それがさらに巨大化を促すといった循環を導いていった。大河のエネルギーが高まっていることにより不定期的に氾濫も起きる。その氾濫を抑えるためにより高度な人間集団を形成する必要性が高まっていく。
「ここまでは......教科書通りなんだけど......」
感想を漏らす、奈穂。問題はないはずだった。しかし彼女に一抹の疑問が浮かび上がる。先ほど知恵は言った。
「この文明をどのように育てるか」と。
介入はこまめに行っていたとはいえ、それは史実の現象を加速させるだけの働きであった。多分、史実よりも鉄器が登場するのは早くなるだろう。
しかし
それは自分が望んだ結果なのだろうか。確かにあまり興味のない歴史のシミュレーションであったが、なにか引っかかるものがある。
奈穂の中に初めての気持ちが沸き上がる。この時彼女の歴史改変者としての一歩が始まることとなる。
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