第3話 ニュートンのリンゴの木のように
シンプルな部屋。調光は決して明るいとは言えない。全体的にモノトーンであまり女子高生の寮の部屋とは思えない。がっしりとした黒光りする机が二つ。それぞれに大きな引き出しのある箪笥が据えつけられている。ベットは二段ではなく、きちんと二つ、部屋の両面に寄せらる形で置かれていた。結構広いのが意外だった。
荷物を奈穂は床に置く。着替えと、身の回り用品、勉強道具、そしてノート情報端末。その程度の荷物ではあったが。くるくると部屋の中を見回す。誰もいない。当然か、と思う。先ほど登録されたばかりの部屋の生態認証はロックされた状態だった。入口のペーパー液晶の表示も同室者の不在を告げていた。それにしても―――と、部屋をもう一度見まわして奈穂は思う。同室者の荷物の少なさに。机の上に置かれた本と筆記用具がわずかにこの部屋の先達の存在をうかがわせた。決してまだ越してきていないというわけではなさそうだ。相手はいったいどんな、生徒なのだろうか。
『Chie F.BERNARDI』
入口の表示。Chieは順当に考えると『ちえ』だが、もしかしたら中国の名前かもしれない。どんな人かな、真面目な人かな、優しい人だといいな。いろいろな想像をその場で奈穂はめぐらした。
その矢先。後ろのドアが乱暴に開けられる。
両手に山のように本を抱えている、人物。背が低いせいか顔は見えない。ポニーテールにした後ろ姿。髪の色はかなり薄い。やはりハーフのこの部屋の先輩だろうか。
「あ......初めまして。勝手に入っててごめんね。この部屋で一緒になる......」
そこまで言いかけたところで、奈穂は言葉を区切る。
少女の顔。メガネをかけ、その眼は興味なさそうに奈穂を一瞥した後、背けられる。髪と同じく目の色も日本人離れした薄い青色だった。きれいか可愛いかと言われたら、たぶん3:7くらいで可愛いのほうが優勢であろう。しかしそんな評価とは裏腹に少女の反応はあまり芳しいものではなかった。
「知恵......」
「えっ?」
「知恵=ベルナルディといいます。見ての通りハーフです。ああ、日本にずっと住んでいるので言葉も生活も心配されることはありません。よろしく」
握手も出してはこない、背をそむけたままの自己紹介。さすがに奈穂もむっとはするが、自己紹介を返す。
「宍戸菜穂です。県外から来ました。ええと、同じ部屋よろしくね」
反応はない。どうしたもんかなーと奈穂は眉を顰める。どうも難しいタイプの子だったらしい。机の上に積みあがる本。すべてタイトルが横文字だ。
「すごいですね~入学前からもう、勉強ですか」
「勉強という言葉は使わないで欲しいんだけど。これは研究だから」
「研究?」
「そう、研究。勉強は小学生のするもの。仮にも高等教育でしょ。ここは」
んー、っと奈穂は返答に迷う。結構コミュ力には自信のあった彼女も次の一手をどうしたらよいかわからず、とりあえずベットの上に腰掛ける。ふと見るとベットの下に一冊の本があることに気づく。知恵のものらしい。手に取って表紙を見る。やはり横文字の本。タイトルは。
「『Der Deutsche Zollverein』......へえ、英語だけじゃなくてドイツ語の本も研究してるんだ。すごいね、ご両親ドイツ系なんですか?」
何気なく奈穂は返す。その発音に知恵はびくっと反応する。それまで全くこちらを見てくれなかった知恵が奈穂のほうを向き直り、人差し指を立てる。
「もう一回」
「へ?」
何のことかわからない、奈穂。しかし知恵の視線からその質問は手に持っている本に向けられていることがわかる。
「ああ、この本のタイトル、『Der Deutsche Zollverein』......だよね。ええとドイツのツオルは......なんだったかな税金?同盟?」
「ドイツ語できるの?」
「え?まあ、独学だけど」
女子高生とは言えないようなことを二重の意味で奈穂は答える。英語は奈穂はほとんど完ぺきにこなせていた。余った時間を将来の大学入試の第二外国語選択のためにドイツ語やフランス語の学習に当てていたのだ。当然、文法のみで何か外国文学に魅力を感じたというわけではない。漫画とか小説とか役に立たないもの(少なくとも奈穂はそう考えていた)を積極的に読むのは時間の無駄だと考えていたからだ。
「ちょっと来てくれる」
部屋に就いたばかりの奈穂の手を取り、強い力で引っ張る。
「え?え?え?」
正直何が起こったかわからない奈穂。着替えもせずに部屋の外、さらには寮の外に連れ出される。
二人の出会い―――それがすべての始まりだった。
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