三話 もう、疲れたよ…。


「お母さん……」


 世間が浮き足立っていくゴールデンウイークの夜。私は仕事から帰ってきたお母さんを玄関で呼びとめた。


「結花、どうしたの?」


 弁護士事務所に勤めていて忙しいお母さんだったけれど、嫌な顔ひとつせずに私の部屋に入ってきてくれた。


「お母さん……、ごめんね……。私……、もう負けてもいいよね……」


「そうね……、長い結花の人生の中には負けたっていい時もあるのよ」


 お母さんは私の手を握ってくれて頷いてくれる。


「頑張ったね、結花は……」


 わかってくれていた。私が独りで耐えていたこと。


 そして、いつかこういう時が来てしまっても不思議ではない状況だったという事も。


「ごめんなさい……」


「結花が元気になってくれれば、それでいいわ」


 お母さんは、泣きじゃくる私の頭を膝の上で撫でてくれて、それ以上は何も言わなかった。




 しばらくしてお父さんが帰ってきた声がして、お母さんが部屋から出ていったとき、私は部屋の窓を開けて外を見ていた。


 私の部屋から正面は横須賀の海岸が見えている。少し左側に視線をずらすと横須賀の港の灯。さらに奥の方を見ると横浜の灯も見える。


 今日は春霞がかかりやすいこの時期にしては星がよく見える。


 あの星空の光の点に比べたら、こんな私の気持ちなんか砂粒より小さなものに違いない。


 もう……、疲れたよ……。


 小さい頃にこの窓枠で遊んでいて、あわやという事件があったのを微かに思い出す。


 あの頃は私もまだお転婆だったもんね……。


 

 十数年ぶりに、その窓枠に足をかける。


 あの当時はよじ登る感じだったのに、今では少し高い段差を一段登るように簡単なことになっていた。


 視点が上がると、たったそれだけで目に入る光の点が増えたように思える。


 それらが少しずつ滲んでいって、全体がぼやけてきた。


「やだ……。私、泣いてるの? もう……、いいじゃない? これ以上、私がいても、みんなに迷惑をかけるだけだもん……」


 お母さんには謝った……。お父さんにはできないけれど……。愚かな娘でごめんなさい……。


 階段を上がってくる音がした。


 いつまでもここで足踏みをしている訳にはいかない。


 窓枠から、いつもお布団を干すときに使っている手すりの上に足を乗せた。


 二階からだから、無理かな……。


「結花‼ 何をやってるの‼ やめなさい‼」


 下を覗き込んでいる瞬間、ドアが開いて後ろから悲鳴のようなお母さんの声が聞こえた。


「お母さん、来ないで! もう……いいよ……。こんな私がいても、役に立つことなんてないもん……」


「結花! やめて‼ 結花っ‼」


 私の足が手すりの上から空に一歩を踏み出したのと、お母さんが私の左手を捕まえたのはほぼ同時だった。


 ガクンと左肩に痛みを感じる。それはお母さんも同じで、手すりにお腹を打ち付けた。でも私の手を離すことはしなかった。


「お母さん離して!」


「絶対離したりなんかしない! 結花が怪我するなら私も一緒よ!」


 でも、片手だけで高校生の私の体重を持ち上げるのはお母さんでも厳しいことは分かっている。どのみち下に落ちるのは時間の問題。


「お母さんが怪我しちゃう。離してよ……。もういいんだよ……」


「いいわけないでしょ! 学校なんて何よ! そんなことで早まったりしないで!」


 私の左手を両手で掴み直しているから、振りほどくのは無理。でも、あの柵とお母さんのお腹に二人分の体重がかかっている……。


「佳織、もう手を離してもいいぞ」


 この押し問答騒ぎの間に、お父さんが窓の真下に梯子を持って上ってきていて、すでにその両腕が私の腰を抱えていた。


「結花、動くなよ。いいな?」


 上からは片手を掴まれたままで、下からは腰に手を回されている。


 私が暴れてお父さんにまで怪我をさせる訳にはいかない。


 それにこの高さで梯子が倒れても、私が望んでいたような結果にはならないから……。


 観念したようにお父さんに右腕を預けたのを確認してからお母さんが手を放す。


 お父さんは梯子をゆっくりと降りて、両腕でガッチリ抱きかかえたままリビングに連れてきた。


「結花……、怪我してない?」


「う……ん……」


「結花。もういい。よくここまで頑張った」


 あれだけの大騒ぎを起こしたにも関わらず、二人とも泣きじゃくる私のことを咎めることはしなかった。


 その代わり、私の体調とメンタルを取り戻すことを優先にしようとその場で一人ずつと指切りをさせられた。


 同時に私が落ち着くまで、その夜から両親と一緒に寝ることになって、私の部屋の窓には全開に開かないように翌日にはストッパーが付けられた。


 それだけじゃない。連休の間に両親二人は私の状況を親戚にもきちんと説明して、「高校中退は禁句」を全員に約束させたの。

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