六十六話 ここにいますから


 屋外プールの横をすり抜け、砂浜の海岸に降りると、彼女の姿はすぐに見つかった。


「こら、不良生徒。無断外出は禁止だぞ⁉」


「おはようございます」


 きっと、寝起きで着替えてきたのだろう。髪型の手入れなどもしていないようだ。


「さっき、水平線に月が沈みかけたので、急いで出てきてしまったんです。心配させてしまったようですね。ごめんなさい」


 立ち上がった少女は俺の胸に顔を沈める。


 今の彼女は俺の知っている……、あの二年二組の学級委員をしていた頃の原田結花に近い。


 本当は当時もこれをしたかったのだろう。


「ありがとうございます。心配してくれたんですよね」


 彼女の目が赤いことに気づいた。


 この子はまた一人でなにを思って泣いていたのだろうか。


「ごめん、強く言いすぎた。朝の散歩に行くって言ってたもんな」


「いいえ、大丈夫ですよ。先生のことではありません。当時の私が情けなかったなって、つい思い出してしまって……」


「そうか……」


 砂を払って立ち上がると、波打ち際まで歩いていく。


「先生はそこにいてください。濡れちゃいますよ」


 サンダルを脱ぎ裸足で海の中に入っていく。くるぶしのあたりまで足を進めて、くるりと全身で向きをこちら側に変えた。


 朝日が上がってきて、彼女を照らす。


 海からの風に髪とシャツを揺らし、足下にはさざ波を受けて、顔には朝日を浴びて目を閉じている。


 まるで絵か写真、現実のものではないように見えてしまう。


 両腕を何度かゆっくり広げて深呼吸をしているようだ。


「結花……」


 気がつけば、俺も彼女のところまで来ていた。


「どうしました? それに今は外ですよ? 先生と生徒がこんなところで抱き合ってちゃダメです」


「あのなぁ」


「もちろん、分かってます」


 さっきの涙はもうなかった。いつものように優しく微笑んでいる。


「結花が……、どっかに行ってしまいそうに見えた。あのまま翼を付けて空に飛んでいってしまいそうで……」


 もう置いていかれる経験はたくさんだ。


「陽人さん、私はここにいます。この旅行、幸せだらけで、夢なんじゃないかって。私がこんな気持ちになっていいのでしょうか」


 まだ、整えていない髪を撫でてやると、気持ちよさそうに目を閉じる。


「これから、いつでも幸せにしてやる。いつまでもだ。たまには喧嘩してしまうこともあるだろうが。そうやって絆は深まるもんだ」


「はい……。あんまり近くで見ないでくださいね。まだなんにも用意していないので」


 恥ずかしそうに顔を少し横にずらす。こんな仕草も以前より増えたように思える。


「もともとすっぴんだろうに?」


「メイクはしていませんが、日焼け止めを塗りますし、学生時代と変わらず化粧水くらいはつけてますよ? あとは薬用リップなので本当に最低限ですけど……」


 昨日のドレスのときにメイクを施してもらった顔も美人だったが、やはり結花は自然なままの方が似合う。それが彼女の一番の魅力だから。


 いつまでもそのままというわけにはいかないだろう。環境や状況に応じてメイクもしていかなければならないはずだ。化粧道具も持っているのも知っている。


 そういう類のものは男が口出しをするより、佐伯のような友達から教わる方がいいだろう。


「それじゃ化粧にもならんだろ。心配したら腹減ったぜ」


「そうですね。この格好で平気ですかね?」


 結花が自分で部屋着と言っているだけで、普通に考えれば十分に外に出られる服装だし、俺だって急いで飛び出したからTシャツにハーフパンツだ。


「ちゃんと、下着は着けてるんだろ?」


「ええ、もちろんです」


 一応、一昨日の夜のこともある。なぜそんなことをと不思議がる彼女に、ベッドの上に放置されていた洗濯物の話を耳打ちすると、今度こそ顔を真っ赤にして慌てた。


「恥ずかしいです! 急いで出ちゃったから……」


「気にするな。混んじゃうから先に食っていこう。ほら」


 洗面台に置いてあったヘアゴムとブラシを渡してやる。


「ありがとうございます。あの……」


 手早く後ろ髪をまとめると、小さな声で聞いてくる。


「どうした?」


「子どもっぽかったですよね……。私、サイズもまだまだ小さいし……、もう少しデザインも大人向きがお好みですか?」


「バカ、そんなの気にしていたのか?」


「だって、高校のとき彼氏持ちの子はもっと凄かったですよ? 私には無理だなぁって思うようなのを着けてる子もいましたし」


 俺は彼女の手を握ってやった。


「結花らしくて可愛いじゃないか。あれで十分だろ。それこそ下着姿を見せろと言ったらセクハラになっちまう。いつも言ってるだろ、結花はそのままでいいんだって」


「はい。それなら安心しちゃいました」


 こうして夏休み最後の日は始まった。

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