六十四話 私のお願いはひとつです


「なんか、力が抜けたなぁ。今夜はあちこち筋肉痛になりそうだ」


「いつもと逆で、先生の方が緊張していましたもんね。教壇とどっちが緊張しました?」


「あれなら、教育委員会の偉いさんの前で研究授業を担当していた方がずっと気楽だ!」


 先生の叫びに思わず笑ってしまう。


 私が緊張していなかったと見られていたのなら、それは正確じゃない。


 でもね……。


「私も、新郎役が先生だったからやれたことですよ」


 私たちの『リハーサル』のつもりだったから、やれたことだと思うんだ。




 今日は予定どおり、ホテルの中にある鉄板焼のお店でコースの夕食にしていた私たち。


 あのあと、ホテルの中で何組かのゲストで参加されていた人たちから「模擬挙式とても素敵でした」と感想を言われてしまって。


 でも本当のことを話せないから、ただお礼を言いつつ笑うしかない。


「さっきは『これが原田結花の底力なんだ』って思い知らされたよ。ぶっつけ本番であんなに堂々とやれるんだ。学級委員なんか余裕だよな。三年だったら生徒会長もやれただろうに」


「ううん。私には務まりませんよ。人望がないんですから」


「俺は見てみたかったなぁ。原田生徒会長か……」


 でも、先生はすぐに首を大きく横に振った。


「でも、そんなことになったら、おまえは俺の手の届かない存在になっちまっただろうけどな」


「私もそれは嫌です。それが分かっていたら、絶対に辞退します」


「だろうな」



 美味しい食事を終えて、夜風に当たろうと二人並んで表に出る。



「先生。私ね、いっぱい勉強しました」


「そうか?」


 空には横須賀では見られないほど水平線までの数え切れない星たち。


 水族館の時と同じように、私の心をゆっくりと解していく。


「病気になって、学校を休んで、結果的に退学もしました。正直この先どうやって生きていけばいいんだろうって。すごく悩みましたし、お部屋で一人いっぱい泣きました」


 これは私の問題。誰にも迷惑かけちゃいけない。お父さんお母さんにも私が泣いてばかりでは安心させられない。


 だから、私が起こしたあの事件も家族内だけの秘密になっている。


「でも、みんなお見通しだったんですね。いろんな人に支えてもらって。学校のことなんか誰も言わなかった。菜都実さんたちも言ってくれました。いつか幸せになれるよって。あの日、先生に名前を呼ばれて、私……、もう願いが叶っちゃったって。あと一回でいいから、授業の時でもいいから、私のことを呼んでほしかった。それが最後のお願いだったんです」


「結花……、おまえまさか……」


 心配そうな先生を安心させるように首を振る。ううん、大丈夫。


「あの当時はです。毎月受けている定期検査でも再発の兆候はありません。それに、いっぱい名前で呼んでくれます。だから、今のお願いは別なものになっています」


「なんだ、結花の願いって……」


 先生の心配そうな顔に申し訳なくて、明るい声を出そうと頑張ってみる。


「先生の隣に、ずっといさせてもらうことです。図々しいですけど……。いつか……『小島結花』にしていただけたら……。そのためには私も今よりも頑張らなくちゃいけない。みんなから認めてもらえる存在になれるように……」


 私の唇が先生の人差し指でふさがれた。


 目の前に先生の顔がある。


「原田結花、おまえの願いを必ず叶えてやる。だから、約束してくれ」


「はい……」


「どこにも、もう俺の前から黙って姿を消さないでくれ。時間はかかるかも知れないが、必ず願いは叶えてやる」


「私もです。どこにも行かないでください」


 月明かりの庭で、私たちは指切りをして小さく頷いた。


 その夜、私は昼間の模擬結婚式と夜に先生にかけてもらった言葉を頭の中で何度も繰り返しながら、すぐに深い眠りに落ちていった。

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