Blue Bee

とまと

—— Apocalyptic Sounds ——

 男は急いで駅へと走っていた。


 脇に書類の詰まった鞄を抱え、その上からスーツのジャケットを被せている。ネクタイは緩め、シャツのボタンは上から二番目まで外していた。


 六月の始まり、暑くなるには早すぎる時期だが、まもるは額に汗をかいていた。自宅からの距離は歩いて三十分、走れば何とか半分の時間で着くだろう。荷物を抱えた状態で、四十代に突入した中年のペースとしては悪くないと考えながら走っている。


(たまには全力で走るのも良いなっ!)


 綺麗に敷き詰められたタイルブロックの上を走り、出勤する人や登校する学生の波を縫うように進む。街路樹のクスノキが朝の日差しを遮り、まもるの顔に涼しげな風を感じさせていた。


(それにしても、今日は朝からツイてない……)


 まもるは普段寝坊する様なことは無い。第一の砦に目覚まし時計、第二の砦にスマホのアラーム、そして第三に最恐の砦が待ち構えているからである。一か二までに目覚めない場合、様々な苦痛を伴う起こし方をされる。長い結婚生活の中、それだけは避けるように身体が出来上がっていた。自衛隊ヨロシク、目覚まし時計の音が鳴るとシャンと起き上がる習慣が身に付いていた。だが肝心の目覚まし時計は電池が切れ、スマホは鞄に入れたままリビングに放置。妻は朝のゴミ出しの際、井戸端会議に花を咲かせていたようで、旦那が起きていないことにも気付いていなかった。


(まぁここまでは、ツイてないってよりは自己責任の範囲だな)


 衛は走りながら、朝の記憶を辿る。


 普段より十五分程遅く起き上がり、リビングへと階段を降りる。しかしこの時点では然程さほど焦りは感じていなかった。いつものルーティーンを早めに済ませれば大差ない状況だったからだ。子供たち二人が食事をしたり学校へ行く準備をしながら、テレビから流れる朝の占いを見ていた。


「パパ最下位、思いがけないことがあっても冷静に。ラッキーメニューは淹れたての珈琲だって、ちゃんと飲んで行ってね!」


 娘はそう言うと、父親のオデコにキスをして学校へと出掛ける。テーブルには妻が用意した朝食があり、そのかたわらに少し冷えた緑茶があった。急げば間に合うなと思い、コーヒーメーカーの機械に電源を入れる。先に出社前の準備を一通り済ませ、玄関から聞こえる息子の『行ってきます』に、返事を返す。


 電車が出発するまで後十七分、もう徒歩では間に合わない。だがしかしまもるには秘密兵器があった、それは最近買った自転車である。運動不足解消の為にと買っただけで、玄関の外に置っぱなしになっている自転車だ。玄関で靴を履いていると妻が帰ってきた。


「あら、あなた時間大丈夫なの?」


「ちょっと寝坊したけど問題ないさ、僕には相棒の自転車があるからね!」


そう返事を返し、妻の頬にキスをする。


「自転車なら昨日盗まれましたよ、警察にも届けてあります。私言いませんでしたっけ?」


妻の言葉に驚いた表情の衛、急いで腕時計を確認すると発車時刻まで後十六分。急いで鞄を掴み家から飛び出した。


 朝の記憶から意識を現実へと引き戻し、反省する。


(まぁ、占い以外全部自己責任だな)


 衛は走る速度を更に上げ、ラストスパートをかける。角を曲がると目的の駅が五十メートル先に見えた。腕時計を見やり何とか間に合いそうだと思った瞬間、耳をつんざくような音が辺りに響き渡る。


 突如として鳴り始めたその音は、弦楽器を力任せに弾いた様な音と、様々な金管楽器と木管楽器を一度に吹き鳴らしたような音で、何かの心音の様に一定のリズムを奏でていた。その音は空気を伝い、無機質な建物を小刻みに揺らすほどの大音量だった。


 まもるは驚き、耳を手の平で塞ぐ。それでも音量は変わらずに聴こえ、不思議な音の出処をキョロキョロと目で探っていた。視界に映る人々も同様に、迷惑な犯人探しでもするかのように辺りを見回す。連れ合いに状況を確認する学生、耳からイヤホンを外し空を見上げる青年、スマホを取り出し撮影するOL、ナニかから隠れる様に街路樹の下に避難する老人等が見受けられた。遠くでは車が急ブレーキを踏む音も聴こえてくる。どうやらこの怪奇音は全員に聞こえているようだった。


 バラバラに降り注ぐ音は徐々にまとまり、幼い少女のような声になっていった。最初に響いた耳をつんざく程の音量はなくなっていたが、まるで直接脳内に響いてくるかのように、より一層鮮明に聴こえた。

 

『私の名前はイズライル。私の音は、地球にいる全ての人へ届けています。貴方の認識出来る音域で、理解出来る言語へと変換されます』


 抑揚のないその声は、淡々と語りかける。


『私の音を聴いた人は、例外なく全ての人に理解できます。全ての人に平等に与えられ、等しく享受することでしょう』


 悪戯のような状況なのに、無視することが出来ない。仕事のことなど頭から消え去っている、この声にはそういった作用が働いていた。


『人が他の生命体より優れている点、それは想像力です。私は驚いています。力でも知恵でも無く、想像する能力で進化を続ける貴方達に。増え続け、減らし続け、創り続ける貴方達に』


 衛は空を見上げていた。気付けば周りの人々も天を仰いでいた。まるでその音の姿が見えるかのように。


『私は貴方の想いえがく力に期待しています。想像して下さい、進むべき道を。創造して下さい、貴方が求める未来を。与えましょう、貴方が望む幸せを。取り除きましょう、貴方が抱える不安を。私は全ての人へと平等に与えます。受け取りなさい私からのGiveギヴを。ときは短く光が消えるまで。貴方が望む力を叶えましょう。さあ終わりの時です。知恵を絞り足掻きなさい、勇気を持って抗いなさい。貴方がこうべを垂れるなら、世界は又、振り向いてくれるでしょう』


 音の終わりと共に、眩い光が降り注ぐ。光が粘り気を帯び、地球全体を包み込んだ。


 衛は怖かった。足元は覚束おぼつかず、立っているのがやっとだった。全身を包む光に太陽のような暖かさは無く、夜の寒気を感じさせた。頭の中は冷気で埋め尽くされ、その他一切の考えを凍りつかせる。ただ一点、愛する家族のことだけを残し。


( 世の中は変わる、きっと悪意で溢れる世界になる……。護らなければ、妻と子供達を。全ての敵意から守る盾にならなければ。私の命に変えても、死んでも家族だけは……)



 光が消え、歓声や悲鳴がこだまするなか。

拳を強く握りしめ、衛は動きだす。


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