深い眠りへ

梨々葉

第1話


「僕はもう疲れたんだ」


 強い風にあおられながら、男は平坦な言葉を眼下に落とす。

 人が行き交い、車がせわしなく走り回る。そんな喧騒も届かない、遥か高く、ビルの屋上から見下ろすその視線には、恐怖はなく、歓喜もなく、絶望もなく、希望もなく、何の感情もこもってはいなかった。

 男はおもむろに両手を広げ、柵の外側にあるその体を風にさらし、ゆらゆらと今にも落ちそうな様子である。


「夢はもう懲り懲りなんだよ」


 くすんだ鏡のような瞳に、僅かな疲弊と落胆の色が映る。男は手を下ろすと、背後の柵に腰を当て、誰にともなく、何をともなく、語り始めた。


「僕はさ、期待してたんだ」


「早くしまいたい」


「いつ起きるのかな」


「なんで上手くいかないんだろう」


「夢を見なければいい」


「僕の心はもう死んでるんだ」


「起きなくてもいいかな」


「おやすみ、おやすみ」



「おやすみ」









 二人の男が言葉を交わしている。


「だから人間は嫌いなんだ」

「この酒はうまいな」

「そうだろう。俺が一番嫌いなやつだ」

「なんでここに来たんだっけ」

「人がいないところがいいに決まってるだろう」

「人間ってなんだろう」

「人はなんであんなに気持ち悪いんだ」

「何かしないといけないことがあった気がする」

「糞、やってられるか」

「僕は人間、嫌いじゃないけどな……」




「何?」




 交わらない言葉は、交わらないはずだったというのに、鋭い凶器となって空気を裂いた。


「馬鹿を言うな、人なんてろくなモノじゃない」

「でも、いい人もいるだろう」

「それは何万分の一だ?それに、完璧な善人なんて存在しない」

「完璧な悪人だっていないだろう」

「完璧でなくとも悪人は悪人だ」

「じゃあ善人も完璧でなくていい」

「うるさいうるさいうるさい!この世界には悪人しか存在しないのだ」

「ならば僕らも悪人だ」

「当たり前だろう」

「そうか、当たり前か」

「そうだ、当たり前だ」


 二人は酒を呷る。

 先程までの苛立ちをどこへ捨てたのか、人嫌いの男は静かである。


「僕はもう疲れたんだ」

「俺は眠い」

「夢はもう懲り懲りなんだよ」

「深く眠ればあっという間だ」

「人に会いたくない」

「レム睡眠だかノンレム睡眠だか」

「眠いけど、眠れば夢を見てしまう」

「深い眠りは夢を映さない」

「ああ、夢は嫌だ嫌だ嫌だ!」

「夢さえ見なければ目覚めまではそうかからない」


「僕はもう疲れたんだ」


現実ゆめはもう懲り懲りなんだよ」


「人に会いたくない」


「眠いけど、眠れば未来ゆめを見てしまう」


「ああ、現実ゆめは嫌だ嫌だ嫌だ!」


「俺は眠い」


「深くあっという間だ」


レムすいみんだか、ノンレムすいみんだか」


現実ゆめを映さない」


生きていなければゆめさえみなければまではそうかからない」


 歪み、うねり、二つの同じ姿形の影は一つに混ざり、何も変わらぬ男が一人。




「おやすみ」




 嗤っていた。

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深い眠りへ 梨々葉 @pearpear

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