第89話 時を越えて

「今日が芽依と俺が恋人になって百日目の日だ。うれしいという気持ちを形として見せたかった」

「うれしいんですけど、あの……これは……大丈夫なんですか?!」

「大丈夫だ。近藤は免許を持っている」

「ええ……、それはそれでびっくりなんですけど、そういうレベルではなくて……!!」


 芽依は叫びながら航平の手を摑んだ。その手は温かくて大きくていつも通りなのだが、状況は全くいつも通りではない。

 事前に聞いていて、なんとなく心の準備をしてきたけど、きゃあああああ怖いんだけど!!

 二週間前に「朝から夜まであけておいてくれ。お祝いしたいんだ」と航平に言われていた。

 芽依は記念日が大好きだ。

 拓司と付き合いはじめた時も、同じように日数計算をするアプリを入れて記念日を楽しんでいた。

 最初の頃は拓司も「そうか」と一緒に出掛けてくれたが、四百日記念を伝えたら「もういいだろう、そんなの」と冷たく言われた。「そうね、ごめんない」と笑顔を作って謝ったがすごく悲しかった。冷たくされたことではない、一緒に祝いたいという気持ちが拓司の中から消えてしまった事実が悲しかった。

 だから航平に記念日を伝えるのは少しだけ怖かった。伝えても次はないかも知れない、また消えるかもしれない。

 でも……航平とはそうならない、なりたくない、その気持ちがあった。

 なにより、やっぱり記念日が好きなのだ。

 あまり自分の歴史がないからこそ、毎日を積み重ねたいと思ってしまう。

 一緒に祝えるならうれしい。そう思い、呼び出された学校に来たけれど、そこに待っていたのは、巨大なヘリコプターだった。


 菅原学園にはヘリポートがあるのは知っていた。学園から少し離れた専用の場所だが、使われているのを見た事はなかった。

 さっき起動? したんだけど、ものすごい爆音が響いて足が震えてしまう。

 それに何が驚いたって、運転席には近藤が見えるのだ。ヘリコプターの運転も出来るなんて、もう何者なの?!


 航平に手を繫がれてヘリコプターに向かうが、風が強すぎて目を開けていられない! 音がすごいからこれをすると良いと耳を密封するヘッドフォンを渡されてしたが、それでも身体全体が振動で揺れる。近づくと空気全体が振動しているのが分かる。

 それが身体中に伝わってきて視界も揺れる。

 思わず恐怖で航平の手を強く握って、聞こえているのか分からない大声を出す。


「乗ったことないです、大丈夫でしょうか、怖いです!!」

「近藤は今日に向けて何度も練習していた。それに免許取って十年以上のプロだから大丈夫だ。怖いなら俺がずっと手を繫いでやる」

「怖いです、怖いですーーー!」


 叫ぶと航平は「大丈夫だ。乗ってしまえばわりと楽しいぞ」と抱き寄せた。

 乗ってしまえばって……乗るまでが怖いのに! 怯えつつヘリコプターに乗ると身体全体がずっと震度2程度の国にいるようで震えてくる。

 色んな人たちが芽依のシートベルトをして、ヘッドフォンからヘルメットにしてくれた。横に座った航平の笑顔がまるで子どものようで、それを見ると少し安心した。

 この人と『はじめて』のことが出来るのが単純に嬉しい。


「動くぞ」

「!! はい」


 ドアが閉じられて、どんどんプロペラが高速回転しているのが中にいて分かる。いや、違うのかもしれない……とにかく何かがパワーを貯めているのが分かるのだ。もう芽依は何を言うこともできない。口をクッと結んで横を見ると、航平が「あはははは!」と声を上げて笑った。

 そして優しく頬に触れた。


「芽依のそんな表情はじめてみた。すごく可愛い。そんなに緊張しなくても大丈夫だ」

「すごい……パワーを感じます、爆発しそうです」

「飛ぶからな。こんなに小さな個体で空に飛ぶ立つパワーがあるから、ヘリコプターは好きなんだ」


 航平が目を細めた瞬間にグワッ……と世界が浮いた。

 それはビルの屋上に立っていて、突然足元が消えたような感覚。

 自分は何もしていないのに、足元だけが消えうせて大きな黒い丸の上に立ったような恐怖感。

 怖い! と思った時には一気に椅子に押し付けられた。思わず目を強く閉じて航平の温かい手を強く握る。

 やがて椅子に腰から強制的に押し付けられていたような感覚は消えて、大きなブランコに揺られているように空に投げされた。

 ブランコの頂点でふわりと浮くような感覚に唇を嚙む。やがて時計の針のように定期的なタイミングで椅子が揺れはじめた。

 恐る恐る目を開くと……そこは青空の真ん中だった。

 浮いてる……本当にすぐ隣、一メートルの所に空があるのだ。飛行機のような近さではないのだ、すぐ隣、横が空。


「!! 航平さん、すごい!!」

「芽依は可愛いな。ずっと見てたけど、目を閉じてるのに百面相で、可愛くてしかたない」

「航平さん、空です!!」

「空だな。もう怖くないか」

「空です!!」

「空だな」


 芽依はもう「空です」しか言えない。そういうたびに航平がお腹を抱えて笑っているけど、だって本当に空なのだ。

 目の前にも空が見えるし、すぐ横にも空なのだ。空の真ん中に身体ひとつで浮いているような感覚。

 いつも遠くて触れることがない『空』が身近で、ドアのすぐ横に広がっているという状況に簡単に慣れることは出来なかった。

 航平は興奮している芽依を見て頬を撫でたり、手を繫いだりして笑っていた。そりゃいつも乗ってる人は慣れてるかもしれないけど、はじめての芽依にはたまらない体験だった。

 何分乗っていたのか分からないが、慣れた頃には目的地に着いた。 

 着陸はすごく揺れるバスが無理矢理停止するような感覚に近く、これが浮いている乗り物だと思い知らされた。船には乗ったことがないが、大きく揺れる船もこんな感じなのだと航平は慣れた表情で言ったが……少し気持ち悪くなってしまった。

 でもヘリコプターから降りて地上に両足を付けると、その気持ち悪さはすぐに消えた。

 それより目の前に広がる景色が!


「航平さん、すごい、すっごく山の上です」

「ここは菅原本家の山だ。俺が子どもの頃、ずっと居た場所。変わってないな」

「!! そうなんですか」


 航平が子どものころ過ごしていた場所。

 小清水から「山の中で好き勝手に暮らしていた」とは聞いていたけどここなんだ。

 ここに沢山の子どもの頃の航平がいると思うとワクワクして、ひんやりとした空気を思いっきり吸い込んだ。



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