第87話 覆面蘭上
莉恵子はグラスをクイと口に運んで冷酒を飲み干した。
うん……やっぱり酒田の麓井、大吟醸はすごく美味しい、まろやか。舌で蕩ける温度に冷やされた冷酒に、下仁田ネギと紅しょうがの天ぷら。
天ぷらにすることでネギの甘味が最大限に引き出されたところに、このピリリと辛い自家製紅しょうがが最高にマッチング。
そしてシメは鯖の棒ずし……最高に幸せ。
今日は仕事が早く終わったので実家近くの飲み屋で飲んでいる。
芽依にLINEしたら既読にならないので、まだ帰ってなさそう。最近は学長とお出かけしたりして家にいないことも増えた。
先日は「ほら、もうすぐ付き合って80日なの」と言ってアプリを見せてくれてっ……!!
莉恵子は付き合って何日とか興味がない。結婚したばかりだけど結婚記念日も覚えてない。
今日や明日が楽しければそれで良いと思う。
だけど記念日を大切にする心は素敵だと思う。
見せてくれたアプリの中の写真は、すごくファンシーなスタンプでデコられてた。あれは初めて彼氏や彼女ができた中高校が使うものだと思う。
付き合い始めた日にあのアプリを入れてカウントしてると思うと可愛くて仕方がない。
芽依は昔から「恋愛」というものをしてなかったように見える。毎日キチキチと生徒会の仕事とか、家の事とか、勉強ばかりしてて、誰が好きとか、なんなら芸能人の好きなタイプの話も聞いたことがない。そしてここに来てあの甘々ラブは……もう見ているだけで「うえ~ん、芽依良かったねえ」なのだ。
どうやら学長も初恋らしく、ふたりの話を聞くだけでツマミになるし、どれだけでも飲める。
「幸せにカンパーイって気持ち……」
「ああ~~ん、君のぉ~~~ことがああ~~~~好きなんだああ~~~」
「……店長。今私ものすごく幸せな気持ちになってるのに残念すぎる歌でテンション下がりまくりです」
「えー? そうかな、今のは良いと思ったんだけど。もうすぐ商店街チャリティーライブだからさ、莉恵子ちゃん来てよ。なんならチケット100枚買ってよ」
「いつですか? 100枚は無理でも行けるだけ連れて行きますよ」
莉恵子は渡されたチラシを見た。
スケジュールを確認すると夕方に一件打ち合わせが入っているだけで、なんとかなりそうだった。
お母さんが経営している居酒屋は商店街の中にあり、たまにこういったイベントをしている。
春は神社で桜祭りをして屋台を出し、夏はお祭り、秋になるとチャリティーライブをして、冬には正月の準備。
わりと大きな商店街で閉店するとすぐに次の店が入るような回転率を誇るお客さんが多い町だ。
活気もあるし、歩くたびに新しい店や発見があって莉恵子はこの商店街が大好きだ。だからここから離れられないのもある。
知り合いも多く、ここの店長も高校時代の先輩だ。
元々両親がこの場所で魚屋をしていたのだが、ご高齢になり店は閉店、その人脈を引き継いだ店長が飲み屋を続けている。
すごく面白い人で個人的には居やすい店だけど、とにかく歌が下手なのだ。
この歌を聞かされるのがイヤで店にこなくなった人もいる気がする。
友人的には楽しい、お客的には「黙れ」の店だ。
莉恵子はチラシを見て財布を取り出した。
「仕事がある日なんでスタッフ連れて行きますよ。10枚かなー」
「莉恵子さん、しょっぱいなあ~。会社のスタッフ全員連れてきてくださいよ」
財布を手にお金を数えていたら、後ろから話しかけられた。
ふり向くとそこに蘭上がいた。何の変装もしてない素の蘭上だ。服装は真っ黒なツナギで、背中に胸元に『蘭上』と書いてある。
お客さんはみんなそれに気が付いたが「ああ」という表情だ。
莉恵子はこの店に月に二度くらいしか来ていないが、ボトルを入れて飲んでいる人たちの反応……蘭上はこの店の常連らしい。
「蘭上さん、おはようございます。常連なんですね」
「違う違う。俺、チャリティーライブで曲作ってるの」
「?! 蘭上さんの名前で、ですか?!」
「ううん。鼻メガネ・モシャオって名前だよ」
「なんですかその変な名前。どうしてそんなのです? チャリティーなんですからお金が欲しいんです、蘭上さんのお名前でしたほうが良いですよ」
「そんなことしたらマックスボンバーが爆発しちゃうよ~~~」
マックスボンバーとはこの商店街にある小さなライブハウスだ。
この商店街にある唯一のライブハウスだが、まあ……ものすごく……驚くほどマニアックなバンドと漫才? で成り立っている。
この前届け物があって覗いたら、プリンを投げながらラップを歌うグループが踊り狂っていた。
意味わかんないし、掃除大変そう。
莉恵子も芸能の世界で飯を食べているので多くは言うまい。
そうか、チャリティーライブはマックスボンバーでやるのか。
「100人入ったら人が重なって死にますね」
「マックスボンバーいつもお客さん6人くらいしか居ないよ~~」
「そうですね、それくらいな気がします」
言いながら爆笑してしまった。その通りなのだ。
常連さんが来て、仲間が歌っているのを聞きながらお酒を飲む……むしろ出している料理のほうが美味しくて、それで成り立っている店だ。
完全防音の居酒屋といったほうが正しい気がする。
そしてハタと気が付き、震えながら顔を上げた。
「ちょっとまってください? まさか……歌うのは……」
「そう、この俺さま、店長さまだ!!」
「まっっじでやめたほうがいいですよ。まっっじで。まっっじで」
莉恵子はぶんぶんと手を振って止めた。
蘭上の歌も曲も、すばらしいことはよーーーーく知っている。
それなのにどうしてそんなぶち壊すようなことをするのか。
店長は莉恵子のグラスになみなみとお酒をついで、酒瓶を抱えて口元を釣り上げた。
「莉恵子ちゃん分かってないなあ~! 蘭上くんが歌ったらすぐにバレるっしょ?! のんのん、商店街で楽しく暮らしてる蘭上くんの生活が脅かされちゃう。僕たち友達だから、そこ大切にしていきたいんだよ」
「あのですね、ひとつひとつツッコミますね。まずこの商店街に蘭上さんがいるのは周知の事実です。見てください、この蘭上さんを見慣れた常連さんの顔を!! もうここに居る事はバレてるんです。それでもみんな優しい気持ちでスルーです。都民基本的にロケとかに慣れてて、スルーするんですよ! あとどう考えても店長が歌いたいだけですよね?! 友達全然関係なくないですか?!」
「大丈夫。ベースは今井さん、ドラムは金子さん、ギターは蘭上くんが引き受けてくれたから、素晴らしいバンドになるよ」
「店長以外全員ガチプロですよね? どうして歌う人だけ素人でしかも平均下回ってるんですか?」
「チャリティーライブだからプロがお金儲けしたらダメなんだよなあ~~~」
「プロが協力してるチャリティーライブなんて山ほどありますよ!」
ギャーギャー叫んでいると、店内にポロン……と静かなギターの音が響いた。
横に座っていた蘭上がアコギを鳴らしたのだ。
そしてさっき店長が歌っていた曲……いや、こうなるともう全然別の曲だ……それを静かに歌い始めた。
さっきまでザワザワとうるさかった店内がシンと静まり返る。みんながキュッと蘭上に注目したのが空気で分かる。
声が店内に広がった瞬間に、少年が大人になりかけているような甘い、それでも意思を持った男の子。その子が制服を着て学校の前に立っている景色が見えた。
ネクタイをくっと上げて新しい教室に入っていく。そこで席にすわり、横に座った女の子に目が引き寄せられた。
春の日差しが丸く差し込む小さな教室。真っ白なカーテンが揺れて蘭上がほほ笑む……はずが店長が教師で「どうもオツでーーーす!」と叫んだ。
蘭上の歌声に店長が相乗りしてきたのだ。
「ちょっと!!!!!」
莉恵子だけじゃない、店内にいた数人が一気に突っ込んでメチャクチャ面白かった。
蘭上は歌うのをやめて、アコギを抱えたままビールを飲んだ。
「俺はさあ、もう簡単に世界を作れるけど、そこには俺が考えた人しかいないんだ」
「私、すごく良い気持ちで蘭上さんの世界に浸ってましたね。さすがです」
「でもそれじゃ、俺は歌の中でもひとりだから」
「……なるほど。クソ教師がいる学校も、面白いって話ですね」
「そう。俺さあ、自分の世界に店長さんがいるの、面白いと思う。歌の中にも色んな人がいても良いと思うんだ」
「よく考えたら、音楽ってそういうものですね」
「そうだよ~~~~莉恵子ちゃん、やっと分かった?! さあ、聞いて聞いて~! はい、蘭上くん弾いて!」
その言葉に調子にのった店長がお玉片手に厨房の真ん中に立った。
蘭上は静かにアコギを弾き、店長は楽しそうに歌いはじめた。
……ひどい……この学校に行きたくない……。
いやほんとうに、どう考えても蘭上が歌ったほうが良い曲なんだけど、ウザすぎる教師(たぶん毎日紺のジャージを着ている)と一緒にいる美少年蘭上は楽しそうだし、そのうち店にきたオジサンたちも一緒に歌い始めて(仕事あがりのラーメン屋の親父なので、教室で勝手にカップラーメン食べているイメージ)騒がしい曲になっていった。
きれいじゃない、全然売れない、それでも蘭上はものすごく楽しそうだった。
後日ライブの日。莉恵子はいつもの会社メンバーを連れてマックスボンバーに行った。
舞台の上には鼻メガネをつけて、モサモサのアフロの被り物をしたメンバー(全員かなり有名なプロだ)が演奏して、ビジュアル系バンドのような服装をした店長が気持ち良さそうに歌っている。
なぜか顔を白塗りにして、背中に羽を付けている。どうして? もうツッコんだら負けだ。
お客さんはチャリティーライブということもあり、いつもよりは多い30人ほど。
葛西は「なんですかこのクソライブは。もうお腹を満たします」と食事を満喫。小野寺はクソライブに慣れているらしく最前列でエンジョイしている。
店長の歌でノリノリになれるなんて……今度お店に連れて行ってあげよう。きっと食事代が無料になる。ツケも消えるかもしれない。
沼田は静かに莉恵子の横に来た。
「これあれだろ、作曲蘭上だろ」
「さすが沼田さん。よく分かりましたね」
「コード進行が同じだからな。歌詞もそれっぽい。しかしまあ、本当に歌が酷いな。頭が痛くなる。耳栓持ってきて良かった」
「最高の曲に、最高のメンバーでひどい歌なんですけど、それがしたかったみたいですよ、蘭上さんは」
「高度な遊びだな」
「本当にそうなんですよ」
莉恵子はビールを飲んで笑った。
舞台の上では鼻メガネをした蘭上が楽しそうにギターを弾いて跳ねまわっている。
服装はピンクのツナギで背中には『鼻メガネ・モシャオ』と刺繍が入っている。
ださい、すごください、なにあれ酷い……。
でも楽しそうで見ていて笑ってしまう。それに誰も蘭上だと気が付いていない。
今まさに青春中。歌の中で通う高校に莉恵子は思いを馳せた。
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