第2話 憧れの先輩

 まっすぐに連れてこられたのは、保健室ではなく学食だった。

 清水がカウンターに並べてあるパンのところに一直線に向かったところで、チャイムが鳴る。


「まさかお前、焼きそばパンを買うために授業を抜け出したのか!?

 あと2分待てば良かっただろ!」


「それじゃ駄目だ。その2分が命取りになる。だいたい不公平だと思わないか?

 学食が遠いクラスに振り分けられた生徒は、学校の福利厚生とでも言うべき美味しい学食の一番美味しい人気メニューにありつけないなんて。

 等しく学費を払っている以上、焼きそばパンを買う権利も等しくあるべきだ」


 清水はいたって真面目な顔で言うと、数分で売り切れるほどの学食の超人気メニュー、からしマヨが効いた学食のおばちゃん特製焼きそばパンを2つほど手に取った。


 こういう奴なのだ。清水は。

 仮病を疑うのも無理ないだろ?


「君も食べるだろ、村上文太君」

「まあ……食べるけど」


 俺は渋々片方の焼きそばパンを受け取った。


 高校入学時に同じクラスになり、もうすぐ1年の付き合いになる清水は、なぜかよく俺に絡んでくる。

 といっても、親しくなったのは夏以降だ。

 それまではこんなにも変な人間だということは知らなかった。

 器用に隠すものだなと思う。

 もっとも、なぜクラスメイトの前では猫を被り、俺の前ではその変人ぶりを遺憾なく発揮してくるのか、それもまた謎である。


 好意的に解釈するならば、こいつなりの友情の示し方なのだろうか。

 学食の向かいの椅子に腰かけた清水は、焼きそばパンをかじりながら口を開いた。


「それでだ。今日は、朝からなにをそわそわとしているのかな?」


 お見通しだと言わんばかりに、清水が目を輝かせる。


「なんか面白いこと隠してるなら、話したまえよ」


 残念ながら面白いことではない。全然、これっぽっちも。

 だが、聞いてもらうのも良いかもしれない。

 こいつは変人だけど性格が悪いわけじゃない。相談できる相手だ。


 それになにより、清水は妙に頭がいい。

 今までも、学食の次の新メニューだとか、クラスメイトの失くしものの在処だとかを、わずかな情報から推理し言い当ててきた。

 初めてこいつの推理を聞いた時、まるでシャーロック・ホームズだと思った覚えがある。


 俺はこいつに今朝の出来事とメモの内容を話して、背負った重荷を半分押しつけることにした。

 人を強制的に授業から連れ出した報いを受けると良い。

 しかし俺のこの期待は、あっけなく砕け散ることになる。

 清水にメモを手渡したは良いものの、清水はまったく、微塵も動揺を見せなかった。


「なんだ、こんなメモひとつでこの世の終わりみたいな顔してたのか。

 相変わらず剣道部みたいなガタイの良さにそぐわぬ繊細ぶりだな」


 清水は、こともなげにそう言い放った。


「誰もが見た目通りとは限らないだろ。偏見だ。それに不謹慎だぞ、清水」

「そうか? 誰かが死んだわけじゃないのに」

「誰かが死ぬかもしれないだろ」


 清水は右手で焼きそばパンを持ったまま、左手で俺が渡したメモを読み上げた。


「『3月1日。私は、人を殺します。この学園内で殺します。静かな教室に呼び出して、とどめを刺します』」


 どう読んでも殺人予告だ。しかも、この実行予定地は、この校舎。


「今朝登校した時に、これが3階の窓から落ちてきた」

「へえ……。ただのいたずら書きとは言い難いな」

「やっぱそうだよな。いくらなんでも、ふざけてこんなこと書くわけ――」

「そうじゃない。ここに、なにか消した跡が残ってる」


 清水は俺の言葉を否定すると、紙片を窓から差し込む光に透かしてみた。

 確かに、細かなひっかき傷のようなものがあり、それは消しゴムで何かを消した跡のように見える。


「文太、シャーペン」


 医療ドラマの『メス』を思わせる鮮やかさで、清水が俺の前に掌を差し出した。


「持ってきてるわけないだろ! 保健室に行くつもりだったんだぞ、俺は」

「まったく備えが悪いな。僕はこんな時のためにポケットに筆記具を携帯しているというのに」

「じゃあはなからそれを使え」


 なぜ俺に言った。


「神経質になってる文太君を和ませるための、ちょっとしたジョークだ」


 おちょくってんのかこいつは。

 清水は折り皺のついたメモをテーブルに広げ、その上を無造作にシャープペンシルで塗りつぶしにかかった。

 消した跡、筆圧でへこんだ部分だけが白く残される。

 そして……浮かび上がってきた文字に、俺たちは目を見開いた。


「おお、なかなか過激だな」

「なんなんだよ、これ……」


 そこに至るまでの文章は、まるで勢いで書いたように乱雑な筆跡だったのに、新しく浮かび上がった文章は、とても丁寧で綺麗な文字で書いてあった。

 まるで我に返ったかのようなのに、文面は狂気じみている。


『だめ。だめ。全然だめ。どうしてうまくいかないの。全部消えればいいのに。

 煩わしい、面倒くさい、放っておいて。消えろ、消えろ、消えろ。誰も私のことなんて分かってくれない』


 追い詰められたような言葉の羅列に、ぞくりとする。

 丁寧な文字とのギャップが、いっそう切実なほどの心の叫びを表しているような気がした。


「驚くことはないよ。思春期の日記によくありそうな内容じゃないか」

「お前はこんなに闇が深い日記を書いているのか?」


 清水は俺のツッコミを無視した。やめろ。なんか怖くなるだろ。


「これを書いた人は、随分追い詰められてたみたいだな」


 確かにそう言われてみれば、文字が少し震えているようにも見える。

 このメモの持ち主の、追い詰められた心情を表しているのかもしれない。


 じっと新しく浮かび上がった文字を観察しているうちに、ふとなにか既視感のようなものを感じた。

 なんだ? これは。


「一体誰がこんなもの――」


 言いかけたその時、同じ部活の先輩が学食に入ってきたことに気づき、俺は思わず口をつぐんだ。

 先輩のふわりとなびく黒いロングヘアーに視線を奪われる。

 そして目が合い……ふっくらとした桃色の唇が、微笑む。


 まるで時間が止まってしまったように、俺は先輩がゆっくりとこちらに歩み寄るのを待つことしかできなかった。

 心臓の鼓動が勝手に速くなり、テーブルの上に置いた手に無意識のうちに力がこもる。

 清水は俺の視線をたどると、何かを察したようにいやな笑みを浮かべた。


「文太君はあの先輩のことが好きなのか」


 慌てて清水の頭をはたいて黙らせている間に、先輩がテーブルの側に来る。


「こんにちは、村上君。それから、お友達も」

「どうも」


 鮮やかなまでの外ヅラで対応する清水。

 対する俺は、顔が熱くなっていくのを感じていた。


「せ、先輩……。こんにちは」

「最近文芸部はどう? 私はもうあまり顔を出せていないけれど」

「特に変わりありません。みんな思い思いに書いてますよ」


 鈴が転がるような声に、少し緊張しながら答える。


「もう先輩の書いた文章が読めなくなると思うと、残念です」


 言葉にすると、改めてしんみりとしてしまう。先輩は文芸部きってのエースだ。


「ええ。私も、みんなとお別れだと思うと寂しいわ。卒業式までには部室に遊びに行くから、みんなにもよろしく伝えておいてね」

「はい」


 空いているテーブルへと向かう先輩を見送ることなく、水が入ったコップに口をつける。

 冷たい水が食道を通り胃に入って、やっと得体の知れない熱が治まった。


「あの先輩って、誰だっけ?」


 清水がまだにやにや笑いをおさめないままに聞く。


「……文芸部の、一条友香先輩だ」

「文芸部。そうだ、文太は文芸部の文太だった。はは、剣道部みたいな見た目のくせに」

「うるさい、俺のガタイの話はもう良いだろ!」

「で、好きなんだ」


 今更ごまかしても無駄だと、清水の色素の薄い瞳が語っている。頬が少し熱くなった。


「……ただの憧れだ。別に、付き合いたいとか、そういう気持ちじゃない」

「あっそー」

「あっそーって何だよ!」


 聞いたくせに特に興味もなさそうな返事をして、清水はまた手元のメモに視線を落とした。

 そうだ。今はこのメモをどうしようかという話だった。


「ともかく、これはそんなに気にすることじゃないんじゃないか?

 鬱屈した想いを紙に書きなぐるなんて、ありがちなことだよ。実行するとは思えない」

「どうしてそう言い切れるんだよ、清水」

「メモの持ち主を突き止めるまで納得できないか?」

「もちろん」


 3月1日といえば、先輩の卒業式だ。

 学校で何か妙な事件が起こりでもしたら、せっかくの門出が、先輩にとって良い思い出にならなくなってしまう。


 いつも姿勢よく、原稿と向き合っていた先輩を思い出す。

 先輩はどんな長文でも初稿は手書きで書くことを信条としていた。

 先輩の字は丁寧で綺麗で、まるで先輩のその百合の花のような姿を表しているかのように……。


 そこまで考えたところで、背筋になにか嫌な予感が走った。


 無意識に、これ以上考えてはいけないと思考にブレーキがかかりそうになる。

 けれどそんなささやかな努力も空しく、俺の記憶は2つの映像を重ねていく。


 先輩の字は――まるで、今目の前にある、このメモの字と同じじゃないか。


 最初から見えていた乱暴な字は先輩のものと似ても似つかないけれど、シャープペンシルで黒く塗られ、浮かび上がった文字は、その丁寧さは、先輩の字と被る。


 まさか。先輩が誰かを殺そうとしている?


 いや、そんなことあるわけない。それなら、先輩の創作の可能性は?

 ……いや、もし小説の一部だとしても、先輩のこんな作風は見たことがない。だいたい、こんなメモに本文を書くか?

 それも、まるで何かに追いつめられているかのように乱暴な文字で。


「気になるなら仕方ないな。それじゃ、さくっと調べて犯人を特定してみるか。

 良い暇つぶしになりそうだし。

 まずは文太がこれを拾った場所から、落ちてきた場所を推測して……」


「ま、待て! こういうのは、安易に触れて良いものじゃないだろ」


 とっさに飛び出た俺の言葉に、清水が怪訝な顔をする。


「真実を突き止めたいと言ったのは君だろう」

「もしかしたら、ただ日常の鬱憤を晴らすために書いたものかもしれないじゃないか。それを誰かに拾われてあまつさえ犯人呼ばわりされるなんて――」


 くそ、これじゃ言ってることがさっきと真逆だ。

 こう言うとき、自分の実直すぎる性格が嫌になる。

 けれど、暴くのは止めておきたい。

 だって、先輩がそんな物騒なことを実行するわけがないじゃないか。

 もし気になるようなら、俺がひとりでこっそり聞くべきだ。

 汗が滲みだそうになるのを感じながらうまい言い訳を探していると、意外にも清水は素直に頷いた。


「ふーん。分かった」


 良かった、気紛れな奴で。


「……そうか、騒がせて悪かったな。じゃあこのメモは俺が捨てとく」


俺がほっと胸をなで下ろしながら、メモをポケットに仕舞いこんだ瞬間――


「そうじゃなくて。だから、犯人が分かったって言ってるんだ」

「……は?」

「本人に事情を聴きに行くから、文太も付き合え」


 物分かりが悪い人間に言い聞かせるようにして、清水はにやりと口端を上げた。

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