第29話 誰だって腹は減る

 緩やかな坂道が続いている。

 行先だという鉱山は、恐らく遥か遠くに見える山脈地帯なのだろう。森の一部を切り拓いて作られたと思しき街道は、想像以上に整地されて馬車の揺れも少ない。


 王都の周辺は人の出入りも多いし、人が活用しやすいように環境を整えるのが当然だろう。

 故郷と言える森から出て一月あまり。もう幾度目になるのかわからない感心に頷きながら、シルヴァは周囲を見渡した。


「……オックスボア、か」


 視界にはなにも映らない。

 だが、シルヴァの鋭敏な嗅覚は遥か風上にいるイノシシの魔物の臭いを察知していた。このまま進めば、近く鉢合わせすることになるだろう。


「ゼクス」

「なにかしら」


 頭上、馬車の屋根に座っている白い少女に声をかける。

 返事はすぐに返ってきた。


「この先にオックスボアがいるようだ。先行して仕留めようと思う。しばらく御者を頼めないだろうか」

「オックス――ああ、イノシシの魔物ね。別に構わないのだけれど、仕留める必要はあるかしら」

「魔物の気配を察知すると馬が怯える。それに、今日の食料になるだろう」

「一理あるわね。いいわ、いってきなさいな」


 言うが早いか、ゼクスはしなやかな身のこなしでひらりと屋根から飛び降りると、シルヴァの隣に腰を下ろした。

 手綱を渡す。


 普通の少女であれば、いきなり御者をやれと言われてもどだい無理な話だろう。シルヴァが比較的早く御者の真似事ができるようになったのは、身体に半分流れている獣人の血が成せる業だ。

 しかし、彼女は違う。必要とあればどんなことでも平然とこなすだろうし、興が乗らなければどれだけ能力があっても動かない。そんなタイプだ。


「ありがとう。ではいってくる」

「いってらっしゃい」


 御者台から飛び降りると、脚を一歩、強く踏み出した。

 途端、全身に力が駆け巡り、シルヴァの巨体から重みを奪ったかのような運動を可能とする。


 レオンやパーシーに話を聞くまでは知らなかったが、どうやらシルヴァ自身が無意識に魔力を行使しているらしい。身体強化と保護、というものなのだそうだ。

 確かに自分は人より頑丈だという自覚はあったが、それは魔族と獣人の血を引いた、バケモノなのだからだと思っていた。


 魔法そのものに魔力を行使する魔術師はともかく、戦士の類であれば多かれ少なかれ扱えるものらしい。種が割れてしまえばあっけないものだ。

 もっとも、訓練もなしに無自覚で使えることや、保有している魔力量は天賦のものだと言われたのは少し誇らしい。前者は獣人の、後者は魔族の血によるところが大きいようだ。


 バケモノだと言ってしまうとノゾミに怒られるので最近はあまり言わなくなったが、なるほど。バケモノだと思っていた自分の血も、役に立つことはあるらしい。


「む」


 ――とらえた。


 キノコかイモでも食べているのだろう。地面を掘り起こして頭を突っ込んでいる。

 明確に敵対しているわけでもないものを一方的に狩ることに思うところがないわけではないが、弱肉強食は人も魔物も、バケモノだろうと同じことだ。


 それに、そう。ノゾミの料理は、美味い。

 今回のオックスボアも、シルヴァには到底真似できない技量で血を抜き、皮を剥ぎ、肉だけを綺麗に削ぎ落として美味な料理に変えてくれるだろう。


 オックスボアなら、そう、この間作ってくれたあれは美味かった。焼いた白パンを刻んで、肉にまぶした上でたっぷりの油で加熱した料理。アゲモノ、とかトンカツ、とかいっていた覚えがある。


 なにしろ美味いものをたくさん食べているであろうトーマ王が絶賛していたほどだ。こんなものが食べられるとは思わなかった、とどこか遠い目をしていたので、よほど気に入ったのだろう。


 改めて思い出してしまえば、目の前のオックスボアはただの食料にしか見えなくなった。あれを仕留めて、ノゾミにトンカツを作ってもらえないか頼んでみよう。特別な材料が必要なのかもしれないが、作ってくれるだろうか。


 気配を感じたか、オックスボアが地面から顔を上げる。

 同時、シルヴァは拳に力を込めて駆け出した。


 オックスボアの体躯と突進、そして牙は確かに驚異的ではあるが、それは攻撃する態勢が整っていればこそだ。

 最高速度はあちらが上であるとしても、敏捷性はこちらが上。なにより、ヤツの鼻が機能する前に捕捉できる嗅覚がこちらにある。


 故に、迎撃態勢が整う前の一撃必殺。過剰な力は必要ない。毛皮を貫く鋭さだけあればいい。


 走る。狙うは首元。振り向いた頭の、右顎の下を抉るように。

 跳ぶ。ほんの一刹那、視線が交わる。ヤツは頭を下げ、牙をこちらへ向けた。


 突進――ではない、今更それは間に合わない。頭を下げるということは、次は振り上げるということ。即ち、屹立した牙が槍のごとく襲い来ることを意味する。


 ああ、それは見た。

 何度も見てきた。お前ではないお前の同朋たちが、何度も自分に振るった動きだ。


 知っている。只人であれば致命の一撃でも、シルヴァの命には程遠い、そんな攻撃だ。

 っている。受けてしまえば否が応でも吹き飛ばされてしまうことを。それはこの瞬間までのアドバンテージをゼロにする下策でしかない。

 そして、っている。これにどう対処すればいいのかを。


「むんっ!」


 シルヴァはを叩いた。


 虚空を薙ぐはずだった腕は確かに何かを叩いた反動を感じ取り、同時に空中にいたシルヴァの方向転換を可能とする。

 自身の斜め上の中空を叩いたシルヴァの体躯は、反動によって地面へ吸い寄せられ、強制的に着地する。


 眼前を巨大な質量が通り抜けて行った。

 空振りしたオックスボアの頭が生み出した大気の流れがシルヴァを殴りつける。風圧に怯むこともなく、シルヴァの目は明確に狙うべき場所を捉えていた。


「はあっ!」


 上がりきったオックスボアの顎。その先にある喉元。その一点を。


「――――!!」


 断末魔の悲鳴を上げる間もなく、オックスボアの目が見開かれる。

 ややあって、ごふり、と。その口元から大量の血が溢れ出した。


 魔力を込めて貫いた手刀、血染めの右腕を引き抜くと、ぐらりと巨体が揺れ、血に倒れ伏した。

 広がっていく血だまり。びくびくと二、三度痙攣をした後は、ピクリとも動かない。

 完全に仕留めたことを注意深く確認し、シルヴァは大きく息を吐いた。


「ふう。少し手こずってしまったか」


 それに返り血で汚れてしまった。

 森に暮らしていた頃はあまり気にしたことがなかったが、王都に出てからは身体の汚れというものにも気を付けるようにしている。


 ノゾミが声をかけてくれるのもある。同時に、清潔にしていると街で会う人たちも心なしか柔らかく対応してくれる気がするのだ。

 特に毛づやがいいと、何故だか女性や子供の受けがいいように思える。


 今回の移動はシルヴァ以外全員が女性なので、身体の汚れにはなるだけ気を付けようと思った矢先にこれだ。


「ノゾミには迷惑ばかりかけてしまうな」


 身体の洗浄はノゾミがやってくれるだろう。

 しかし、食料を調達すると勝手に飛び出してまた迷惑をかけるのは如何いかがなものか。


 そもそもシルヴァの生活は、ノゾミと出会ってから劇的に変化したのだ。おそらく、とてもいい方向に。

 これだけ色々と世話になっているのに、恩を返せないままにまた恩が溜まっていくというのは落ち着かない。

 仮にノゾミがあまり気にしていなかったのだとしても、これはシルヴァの気持ちの問題だ。


「……運んでしまうか」


 とはいえ、今すぐどうにかなるものでもないし、自分にできることをやるしかないのだ。

 汚れてしまった件はノゾミに謝ることにして、シルヴァはオックスボアの死体を持ち上げ


「そこの獣人!」

「む?」


 背後から声をかけられた。

 本能的な警戒が、脳裏に響き渡る。


 何故か? 理由は簡単だ。シルヴァが気配を感じ取れなかったからだ。


 血の臭いに満ちているとはいえ、誰かが近づけばシルヴァの嗅覚は正確にそれを補足する。それが出来なかった上で、背後を取られたのだ。

 森の匂いと一体化するほどに自然の気配が強いか、血の臭いと一体化するほどに殺戮の気配が強いか。


 あるいは――ゼクスほどに、圧倒的な格を持つか。


 いずれにせよ並大抵の相手ではあるまい。

 覚悟を決めて振り返る。 


「獣人、というのは俺のことだろうか」

「ええそうです。あなたの――おや、あなたは魔族なのですか?」

「いや……」


 振り返った先にいた相手は、存外小柄だった。


 ハニーブロンド、というのだろう。輝くような金色の髪。それを頭の上の方で二つに結わえている。

 見た目は少女である。よく知る比較対象がノゾミとなってしまうが、彼女に負けず劣らず目鼻立ちが整っているように思う。


 ノゾミよりは背が低い。今回同行しているルナよりも小柄だろう。

 その背丈に対し、胸元は随分とふくよかだ。動きにくくないのだろうか。


「俺は獣人と魔族、両方の血を引いている」

「そうなのですか。初めて聞きました! 珍しいこともあるのですね」

「ああ、そうなのだろう。それで、俺に何か用だろうか?」


 彼女から血の臭い、は、特にしない。

 最近なんとなくわかってきた魔力の感覚は、シルヴァより強いことだけわかる。

 今のところ明確に敵対の意思は感じないが、どう転ぶかわからない。


「おお、そうでしたそうでした。あなたの生まれを聞きたかったわけではないのです」


 それはそうだろう。

 こんな森の中で、シルヴァを獣人と見間違えている時点でシルヴァ自身に興味がないであろうことは明白だ。


「その獲物をわたしによこしなさい」


 要求は食料だった。


「……君は、山賊かなにかなのか?」


 想定外の追い剥ぎ発言に、思わず問いかけてしまった。


「誰が山賊ですか失礼な! 良いですか、あなたにはおそれ多くもこのわたしに供物を捧げる栄誉を与えると言っているのです!」

「…………?」


 ちょっと言っていることが理解できないが、ともかく彼女はこのオックスボアが欲しいのだろう。それだけは理解した。

 まあ、毛皮や牙は価値があるようだし、街に出て売ればある程度まとまった額にもなるはずだ。それくらいなら譲っても構わないだろう。


 さすがに肉を欲しているわけではないだろうが――


「毛皮や牙が欲しいのなら、今この場で渡そう。俺は毛皮を剥ぐのはあまり上手くないのだが、君が剥ぐ方がいいだろうか」

「わたしがいつ毛皮や牙が欲しいと言いましたか!? ともかくその獲物を置いていくのです、わたしは」


 ぐうううううううううううううううう


 森の静寂に、盛大な音が響いた。

 これはあれだ、いわゆる腹の虫の鳴き声だろう。


 この場にいるのはシルヴァと金髪の少女である。多少小腹は空いてきたものの、シルヴァの腹の虫は特に騒いでいない。

 となれば、誰の腹の虫の音かは察せようというものだ。




「お、お腹が空きました……」


 がっくりと肩を落とし、少女は地面にへたり込んだ。

 なるほど、元から腹を空かせていたところに大声をだしたことがとどめになったということか。


 よもや毛皮や牙ではなく肉そのものを欲していたとは思わなかったが、肉はシルヴァとしてもあまり譲りたくないものである。

 かといって正面から戦闘して勝てる保証もないし、さすがに巨大な肉の塊を抱えて逃げ切れるとも思えない。さらに、どういう存在なのかはわからないが腹を空かせた少女を放っておくのも気分が良くない。


 あまり得意とは言えないが、シルヴァはなけなしの交渉術を行使することにした。

 ノゾミにまた一つ恩が増えてしまうな、などと思いながら。


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