DAWN(ドーン)

ボーン

「旅にはたった一つしかない。自分自身の中へ行くこと」

              

                   ライナー・マリア・リルケ



16.目覚め



 日の光で僕は目覚めた。


 温かい。綺麗な緑と青が広がっているのが見える。

心地よい風を感じる。


 ここはどこだ。


 はっきりとした緑の葉と青空が見えた。青空の下。背の高い木々に囲まれている。

僕は森の中で横になっていた。ゆっくりと体を起こす。ふかふかして温かい土の上だった。どれくらいこうしていたのか。


 季節は夏、よく晴れた日の午後一時。そんな感じ。日中の最も気温の高い時間帯。自分の服装に目をやる。黒いパーカーに薄汚れたジーンズ、白いスニーカー。

 近くから虫や鳥の鳴き声がするのが聞こえた。周りを見渡すが、生き物の姿は確認できない。


 ふと、そばに落ちている四角くて黒いものを見つけた。ノートだった。表紙には何も書かれていない。手にとって黒い表紙をめくる。開いて最初のページに急いだような字で題が記されていた。


「LIFE」


 これに目を落とした途端、ズキッと頭に痛みが走った。

うっ。

 思わず頭を抱えてうずくまる。脳の奥をナイフで突かれたような激痛だった。だが、すぐに痛みはおさまった。

 僕は次のページをめくった。そこには、こう書いてあった。



「四月一日 月曜日

今日から書き始める。

本屋で立ち読みした本に、日記を書くことは自分を成長させることとあったため。つまらない毎日を記録に残すためにも試しに開始。まずは自己紹介でも。

工学部、機械工学科。大学2年。

サークルはサッカーをやっていたけど今はやめた。バイトは近くのレストランでキッチンをやってる。趣味は映画鑑賞と旅行。今日は今期初の授業を受けて帰宅。1年からの友達、リンとラーメンを食べた。」



 僕はその先のページをパラパラとめくった。同じような形式が続いている。


 これは、僕の?


 こんなもの書いた記憶は全くないし、自分の経験という感じもしない。そこで気づいた。

どうやってこの森へ来たのか、記憶が全くない。どこから来て、何をしていたか。いや、どこに住んで、自分が誰かも・・・

しかし、焦りはしなかった。不思議だ。酒を飲みすぎて記憶を飛ばした感じではない。妙に頭がすっきりとしている。記憶がなくて心配になるというより、これでいいんだというような、変な安心感が全身を満たしている。この日記は後で読むとしよう。先が気になるし、何かこの状況に対する手がかりが得られるかもしれない。


 僕はノートを片手に立ち上がった。

 自分が今、この森のどのあたりにいるかわからない。どこまで続いているのか。ここが山の中だったとしたら、今いるこの場所は標高何メートルか。今すべきことは、この木々に囲まれた空間から抜け出すことなのだろうか。そのためにも動かないと。この場にとどまっても日が暮れるだけだ。そう思い、僕はなんとなく下に向かいそうな方向に歩いた。明白な斜面があるわけではないから勘だ。


 歩いても歩いても、同じような風景が広がる。ぼんやりと歩き続けた。今、太陽は真上にある。しかし、こうやって森の中を移動していれば、あっという間に日は落ちる。なんとしても日没までには森から出ないといけない。


 どのくらいだろうか。しばらく歩くと、葉の色が緑から黄になってきた。どうやら季節は夏の終わりかけのようだ。そうなると、夜は相当冷えるだろう。

背後で、カサカサと草の擦れる音がして、僕は振り返った。だが、何も見えない。動物だろうか。こんなに広い自然の中、いないわけがない。暖かくて過ごしやすい季節なのは、動物にとっても同じはずだ。


 気のせいか、そう思った時、前方の茂みから黒い影が飛び出した。こちらに突進してくる。猪だ。僕は反射的に左に避けようとした。しかしそのあまりの速さに間に合わず、右半身に衝撃を受けた。


 僕は勢いよく後方に突き飛ばされた。腰に激痛が走る。僕は柔らかい土の上に身を投げ出され、ゴロゴロと力なく転がった。


うう・・・


 突進を食らった右腰から痛みがじわじわ広がる。僕は、腰を抑えながらあたりを見渡して猪の姿を探した。腰をかばいながらゆっくりと立ち上がる。立つというよりは中腰の状態だ。近くに身を隠せそうな茂みを見つけ、そこに向かおうとする。


 その茂みから猪が現れた。思わず体が硬直する。まずい。


 正面からまともに体当たりされたら、おしまいだろう。内臓は破裂し、骨が粉々に砕ける。こんな山奥では助かるわけがない。しかし、体が言うことをきかない。足を地面から離そうとしてもびくともしないのだ。焦る。どうして言うことをきかない。

猪が動きを止めてこちらを眺めている。まるで、これが最後だとでも言っているかのようだ。


 頼むから動いてくれ。僕は自分に叫ぼうとした。しかし声も出ない。靴底を数センチ浮かせるだけでいい。少し左右に動くだけでいいんだ。しかし足は全く動かない。額から背中にかけて、汗が吹き出てきた。頭が熱くなってくる。


 頼む!


 猪が僕めがけて走り出した。大した距離はない。数メートル。体は固まってしまっていた。二秒もしないうちに勢いをつけた大きな獣は目の前に来た。


もうだめだ。


そう思ったとき、猪が一瞬で姿を消した。頭上で葉の擦れる音がしてパッと見上げる。縄が複数絡まって猪が宙に浮いていた。僕は、体中の力が抜けて、地面に倒れこんだ。


 一瞬、何が起きたのかわからなかった。バクバクという心臓の音だけが頭の中に響いた。助かった。深呼吸して呼吸を整えようとする。すぐに呼吸は落ち着いたが、今度は後ろから別の音が聞こえた。草の中を移動する何かの音だ。僕はパッと後ろを見た。


 人間だった。五人、いや六人いる。その姿に僕は驚いた。全員、裸に近い。腰から膝下までを布で覆っているが、それ以外は肌がむき出しなのだ。近くに住む民族だろうか。


 僕はゆっくりと後ずさった。といっても立ち上がれないので、体を彼らに向けたまま両腕で後ろに下がる形だ。


 草木に隠れていた者たちが次々と姿を現した。狩りをしていた最中だったのだろうか。気づけば、二十人ほどになっている。皆男だ。ほとんど同じ格好をしている。装備が違うだけだ。木製の槍を持った者や、綱を体に巻き付けて持っている者もいる。


 僕は下がるのをやめた。後ろの大木に当たったのと、この人数からは逃れられないと悟ったためだ。


 先頭の、僕に一番近い者が拳をつくって頭上に掲げた。恐らくこの集団のリーダーなのだろう。身長は二メートルほど。色黒で胸板が厚く、肩から腕、そして足にかけてがっしりと筋肉がついている。金属製の短剣と綱を持ち、首から橙色の石をひもに結び付けてぶら下げている。また、左胸に赤い塗料のようなもので印をつけている。円と直線で描かれた、不思議なものだ。この印と橙色の石を身に着けているのは、この大男だけだ。


 体の熱が下がり、頭が働くようになってきた。

この男の頭上の塊がゆさゆさと揺れた。猪がうめき声を上げて暴れているのが見える。

「ありがとう」


 僕は目の前の大男に言った。

リーダーはそれには答えなかった。彼は後ろについている仲間たちを見回すと、再び僕の方に向き直った。胸の上の石が橙色にキラリと輝いて揺れた。彼は右手を差し出した。挨拶だろうか。


「エモクリュー、オレハ」


僕がなんて答えようか悩んでいると、リーダーがじっと僕の顔を眺めた。そして、しばらくしてから言った。


「エモーク」


どういう意味かわからずただその場でじっとしていると、彼らは後ろを向いて来た道を戻り始めた。僕のことを救ってくれたようだった。とりあえず一件落着。ため息がもれた。


 数人が猪のところへ集まっている。猪は落ち着き、それを見た男たちが縄を解こうとしていた。それをぼーっと見ていると、先ほどのリーダーが戻ってきた。そして、無言で手を伸ばしてきた。黒いノートを握っている。僕は、ありがとう、というとそれを受け取った。急な襲撃に焦って落としものをしてしまったらしい。それから彼は手を振って、こっちへこい、という仕草をした。


「エモーク!」


 僕はリーダーに連れられて、彼らとともに行動した。彼らの後を追えば、下山はあっという間だった。僕一人では確実に遭難していただろう。どういう民族で、僕のことをどう思っているかわからない。しかし、僕は彼らを信頼していた。というより、命を救ってくれたわけだ。疑えるわけがなかった。獣との死闘で痛めた腰も、気づけば回復していた。


 彼らの本拠地らしき場所へ到着した。あっという間に太陽は降りてきており、日が沈む間際だった。相当長い時間歩いていたのだろう。


 開けた平地だった。彼らが山のふもとを切り開いてこの村をつくったのだとわかった。そこに、ポツン、ポツンと茶色のものが複数立っている。彼らの家だ。民族の家と聞いて思い浮かべるような、シンプルな円形のものだ。木で骨組みをつくり、葉や土で屋根や周囲の補強がされている。


 僕は、そのうちの一つ、一番奥の家に案内された。扉はなく、上から垂れた、薄っぺらい布で入り口がふさがれている。僕はそれをくぐって中へ入った。室内は藁が地面に敷かれただけだった。端に木の実が乗った皿がいくつかおいてあるくらいである。


 室内に入った途端に、安心感に満たされた。前にきたわけはないはずなのに、なじみの場所のように落ち着く。ずっと、いつ襲われるかわからない森の中にいたからかもしれない。次いで、眠気が襲ってきた。


 室内はいたってシンプルで、質素。しかし、今の僕にはこれで十分だった。ただ、獣に襲われる心配のない寝床が欲しい。それだけだ。リーダーが部屋に入ってきて、何か言ってきたが、適当に頷いた。ただ横になりたい。リーダーも僕のぐったりとした様子を見て察したのか、静かにこの空間から出ていった。僕は倒れるように横になった。一瞬にして意識が遠のいていった。


 しばらくして、僕は起きた。少し気温が下がっているように感じる。ゆっくりと上体を起こした。横には、ガタイのいい大男が座っている。昨日のリーダーだった。

彼は、僕が起きたことに気づくと、片手を差し出してきた。その手には、黒いノートが握られていた。


「あ、ありがとう」


 すると、彼は自身を指さして言った。


「ジナミ」

「ジナミ?」


 どうやら彼の名前のようだ。僕はしばらく考えた。そして、ふとノートを開いて最初のページを開く。それから、最後のページに飛んだ。見ると、下の方に小さな字で『ウィル』と記されている。


「僕は、ウィル」


 気づけばそう言っていた。焦る一方で、心のどこかではスッと受け入れている。変な気分だった。僕は、ウィル。そうなのだ。しばらく、この名前でいこう。


 ジナミが立ち上がって手招きした。そして部屋を後にする。僕もそれに続こうと、ノートを部屋の片隅におくと、外に出た。


 外は昨日とは変わって肌寒かった。昨日の夕方からだから、丸一日以上眠っていたことになる。我ながら、よくこんなところでそんなにぐっすりと眠れたなと思った。

男たちが中央に集まっているのが見えた。ざっと二十人ほどだ。


 そこには、巨大なオブジェがある。赤く光っている。メラメラと揺れていることから、それが巨大な炎だと気づくのにそう時間はかからなかった。皆が輪をつくってそれを囲んでいる。昨日の彼らか。僕らもその一部になった。


 ジナミがその場を離れた。そして、すぐに戻ってきた。肉の塊を持っていた。


「エレヒ」


 そう言って二つに分けて片方を渡してきた。


「ありがとう」


 お礼を言うと、ガッとかぶりついた。熱を持った肉汁が口の中に広がる。生臭さは感じなかった。香ばしい。


「これは、猪?」


 当然だが、伝わらなかったのでジェスチャーを交えた。昨日の捕まえた時の様子を両手で再現したところで伝わった。ジナミが軽く頷いた。


「セイ」


 どうやらあっていたらしい。僕は、太い骨だけを残して綺麗に食べ終えた。


 僕らは、それからしばらくその場で暖をとった。言葉は少なかった。というか、ほぼなかった。周りの男たちは、僕を見てあまりいい顔をしなかった。それもそのはず。昨日、急に飛び入り参加したのだ。近づく異人種を真正面から歓迎する民族はそう多くはないだろう。まずは敵対意識を持つはずだ。その方が自然だと思う。


 しかし、ジナミだけは違った。彼は顔色一つ変えない。歓迎しているとも、距離を置いているとも言えない。ただ、さも当たり前とでもいうように、自然と受け入れてくれる。そこには、仕方ないというような面倒くささや形式ばった様子は感じられない。昔からの友人かのように、黙って接してくれる。僕にとってはありがたいことだった。これは、本来の優しさなのかもしれない。動物が持っている本能的なもの。言葉はなくても、分かり合える、互いのことを気遣いすぎず、離れすぎず。


 炎をじっと見ていると、心が落ち着いた。僕たちの先祖は、危険と隣り合わせで生きていた。自然と共存していた。狩猟をする一方で、家族を養って生活していた。当然、動物にいつ襲われるかわからない。そんな中、火をおこすことで動物たちを遠ざけ、身を守っていた。人間は今でもそれを本能で感じている。火の揺らめきは心を平静にする。


 ふと、自分の家族のことを思った。思い出せない家族。彼らは、僕のことを心配しているだろうか。探しているか。


 周囲を見て、男たちがぼちぼちと家に戻っていく様子を確認して、僕も家に戻ることにした。もう外は暗かった。ジナミに案内されたところへ戻ると、真っ暗な中、藁の上に腰を下ろした。後から、ジナミがろうそくを片手に入ってきた。室内がゆらゆらと赤く照らされる。僕は、隅に置いてあるノートを手に取った。二ページ目から開く。



「四月二日 火曜日

今日は授業が3コマ。それが終わると、速攻で帰宅。ドリームスで配信されていた新作映画『ザ・デイ』を鑑賞。妄想ばかりしていた普通の男性が、実際に旅をし、自身を振り返ることで、自信を取り戻していくというストーリー。面白かった。人生は冒険だって。けど、こんなにもすんなりと成功していくかな。見終えた後は、昼寝を続け、ぼーっとネットサーフィンして就寝。」



「4月三日 水曜日

今日は授業が午前中で終わったので、午後からバイト。レストラン。注文され、作り、ウェイターの待つカウンターに出す。この繰り返し。冷凍ハンバーグを3分チンして、40グラム測ったソースをかけて。ドリンクカップに氷を3つ入れて、蓋にストローをさして。6時間勤務。時間と疲労感をお金に換える作業。作業。作業。明日からまた学校か。憂鬱。これが、あと2年も続いて、就職だ。」



 ノートを閉じると、横になった。ジナミと目が合う。


「ピールス」


 僕は、おやすみ、と返すと、彼とは反対の壁を向いた。茶色い壁が赤く揺れる。彼がガサガサと何かの準備をした後、部屋から出ていった音が聞こえた。僕は、目をつぶった。


「もうそろそろ、家へ帰ろう」


 ふと、そう呟いた。



15.アンクス

 


 物音がした。目を開けた。真っ暗だった。ろうそくは消えたはず。


 もう朝か。


 目の前は黒い壁。え、黒い壁?僕は体を回転させて体勢を変えようとした。その時、視界に黒い影が入った。天井を向いたまま、体が固まった。動かなくなってしまった。目が合ったまま。いや、目はそこにはない。しかし、睨まれている。


 僕の頭上、横になった体の上に、黒くて背の高い影が立っていた。地面から、天井ギリギリまでのどっしりとした漆黒の体。その周りには、黒い霧のような煙のようなものが渦巻いている。そしてその上部には、包帯を何重にも巻いたような造形物。見覚えのある凹凸があることから、その内側には顔があることが想像できる。そして、それを上から覆う、フードのような形をした黒いもの。全体が黒い煙のようなものに包まれているため、体と空間の境目がわからない。ただ、白い包帯面の隙間から、目がのぞいていることだけははっきりとわかった。こちらからは見えないが、外界の様子をはっきりと感じている。


 そして、この化け物は僕を睨みつけていた。そのせいで、僕はいま身動きができない。首を少し曲げることさえ。ただ、目を見つめ返すことしかできないのだ。ジナミはどこへ行ったのか。


 しばらくして、体中が痺れ始めた。全身の感覚が薄れてくる。そして、同じように恐怖感も小さくなってきた。意識が遠くなる。周囲の音が遠ざかる。


 死ぬ。


 そう思った。僕は無力だった。何もできない。


 僕の世界は終わる。


 目の前には黒い化け物。黒い煙が浮かんでは消える。ゆらゆらと揺れる。心が穏やかになってくる。


 視界が一瞬青白い光に包まれた。黒い影が消えた。包帯面が消えた。そして、瞬時にあらゆる感覚が戻ってきた。周囲が騒がしくなる。


 眩しい。


 思わず目をつぶり、そして開けた次の瞬間。強烈な激痛とともに、僕は吹き飛ばされた。


「うっ」


 どこが痛いのかもわからず呻く。右も左もわからない。体が宙に浮いた感覚。直後、重力を感じた。やがて引っ張られる。そして、地面に強く叩きつけられた。全身の神経が悲鳴をあげる。痛い。骨がきしむ音がする。青い閃光を受け、視界が歪んだ。


 外は明るかった。土埃が舞う。


 僕は、家の外に放り出されていた。ドスドスという大勢の足音が聞こえる。


 何が起きた。


 背中と両腕に打ちつけたような痛みを感じる。痛むところをかばうように起き上がろうとする。僕は、なんとか仰向けの体を横にした。


 目の前で爆発音がした。同時にその空間が青白く光る。吹き飛ばされた土や枝木が体の周りに降ってきた。目をつぶり、そして再び開けた。


 ここの村の男たちが走り回っていた。顔には険しい表情が浮かんでいる。いろんな方向に散らばるようにして走る。外部からの奇襲のようだ。何者か。逃げているのか。先に見た黒い化け物はどこに行ったのか。


 よく見ると、男たちの中に紛れて、別の者たちがいた。黒い服に黒いズボンを身に着けている。大勢いた。気づけばあっという間に増えている。山の方の茂み、木々の間から次々とこちらに走ってくる黒い服。彼らがこの村の男らを追いかけている。 


 黒い服の一人がこちらへ向かってきた。走ってくる。全力だ。決して速いとはいえない。しかし、狂ったように手足をバタバタさせて僕の方へ向かってくる。妙な違和感を感じた。そして、すぐにその違和感の正体に気づいてしまった。


 顔がない。


 その者には目、鼻、といったヒトにあるはずのパーツがなかった。その表面は、肌色のつるっとした曲面となっている。口からは鋭い牙。村を走る他の黒い服の者たちも皆そうだった。皆、顔がない。肌色で塗り固められ、表情がない。


 こいつは誰だ。


 そいつは僕のすぐ手前まで来た。上下に黒い作業着を着ている。土で汚れた両手を伸ばして飛びかかってきた。


 僕はなんとか体を反応させ、横に回転して回避した。すぐに次の攻撃が迫る。慌てて避ける。そこで、足がもつれて僕は倒れてしまった。


 距離を取ろうと、地を這って移動する。パッと振り返ると、やつはこちらに向き直ったところだった。つるんとした皮膚がこちらへ向く。視力はないはずなのに。僕を認識しているのか。冷や汗が背中をつたった。気づかぬうちに息が上がっていた。 


 やつとの距離は三メートルもない。僕は起き上がろうと、地面についた腕に体重をかけた。そこで、目の前が青白い光に包まれた。巻き起こされた突風が体にぶつかった。


 必死に顔を腕で覆って砂が目に入らないようにした。しばらくして目を開けると、目の前に奴の姿は消えていた。


 その代わりに、別の者がいた。


 宙に舞う土埃のせいでうっすらとシルエットが見えるだけだ。しかし、すらっと立つその者は黒い服をまとったやつらとは違った。その両手には青く光るものが見える。その光で、全身が影になっている。僕は思わずその場で固まった。その者は土埃でできた煙幕を越えて、バッとこちらにやってきた。


 顔を隠すように深く被った、くたびれた茶色のカウボーイハット。鼻下から顎にかけて短く整った白髭。首に巻いた黒のスカーフ。白シャツに茶のベスト、茶のズボン。シャツを捲り上げた両手首には、茶とシルバーの籠手のようなリストガードのようなもの。そして、その一点が両方とも青い光を放っている。それが彼の格好だった。


 アレン。


 これが後にわかる彼の名前。 彼は急に僕の腕を掴んだ。そして、彼の両手首の光が強くなったかと思うと、僕と彼の体は宙に浮かんだ。


 一瞬だった。


 高速で村を見下ろせる高度に上がると、瞬時に距離の離れた森の中に降りた。ほんの二、三秒のことだった。


「あああああああああ」


 思わず叫んでしまった。しかし、着地に痛みは感じなかった。両手首は依然として輝いている。


 アレンは僕を掴んでいた手を離して、カウボーイハットをずらして顔を見せた。中年の男だった。高い鼻に、青い目。落ち着いた表情をしている。


「やっと見つけたよ」


 彼はそう言うと、改めて右手を差し出した。口元がニッと笑うように歪んだ。まるで、以前に会ったことがあるような口ぶりだった。この人は誰か。僕はとりあえずその手を握って握手をした。


「前にどこかで?」


「なに、ウィルだろ?」


 アレンは当然のことのように言った。それから僕の手を離すと、あたりをぐるっと回るように歩いた。敵が近くにいないか確認しているようだ。


「わかっているよ。お前を探していたんだ」


 彼がそう言った途端、後ろの方からカサカサという音が聞こえた。反射的にパッと振り返る。


 先の村の方から二人の黒い恰好のやつらが来ていた。追ってきていたのだ。今度は、黒シャツに黒パンツ、黒いコートに黒パンツだった。そして、先と同じく顔は無い。口だけが不気味なほどに大きく上下に動いている。アレンが言った。


「アンクスだ」


 僕はサッとアレンの後ろに隠れた。やつらは転びそうな足取りで走ってくる。遅いように見えて確実に迫ってきた。距離が一気につまって数メートルというところで、アレンの両腕から青い閃光が放たれた。


 一瞬目がくらむ。見ると、やつらは遠くに吹き飛ばされていた。僕が何も言う間なくアレンが言った。


「やつらがここまでとは、予想していたよりも早いな」


 奥にはまだたくさんのやつらが見えた。次々とこちらに向かってくる。ジナミは無事だろうか。村の男たちは無事か。やつらが男たちを倒してこちらに向かってきているのだとしたら・・・


「もう少し進むか」


 アレンが僕の体を掴んだ。僕は悟った。叫んだ。


「待って!」


 遅かった。僕たちは再び、一瞬にして周囲の大木の背を越える高さまで飛び上がった。今度は叫ぶことはなかった。しかし目をぎゅっと閉じた。浮遊感が怖い。グーンと前から風を感じ、その後急降下した。


 目を開けるとまたもや全く違う光景だった。ところどころで木が折れて垂れ下がり、枝葉がありえないほどに少なくなっている。一部では、地面が掘り返されて大きな根っこがむき出しになっているところもある。先に見た化け物とは違う何かの仕業だろうか。何が起きているのか。初めは雷に打たれたのかと思った。しかし、それにしては土の掘り返され方が異常だ。では嵐か。それも違う。それならば山火事?何が起こったのか考えようとしても、自分の頭の中では答えが見つからなかった。


「アレン、これは・・・」

「待ってくれ」


 彼は、人差し指を唇に当て、静かにするように言った。遠くの方で、草がカサカサと音を立てた。


 次はなんだ。


 音が近づく。後ろの方からだ。その音は物凄い速さで移動し続けているように感じた。


 ササッ。


 背後に気配を感じる。背筋が凍った。アンクスはこんなに速い動きができるはずがない。振り向くべきか。次こそ死ぬのか。そう思った時、アレンがこちらを見て言った。


「なんだよ、君か」


 え?知り合いなのか。思わぬ展開に、緊張が緩んだ。振り返ると、そこに立つ者を見た。


 鬼。そして、ロボット。


 パッと見た印象はそれだ。敵ではない、と知るよりも先にこの姿を見ていたらと思うと恐ろしい。般若のような顔をしている。それが、鏡面で形づくられているため、僕の顔が一部映って見える。そして、体は中が見えるクリアなボディ。どんな物質かはわからない。綺麗な曲線を描いて全身を包んでいる。そしてその透明物質を、肘や手首などの関節部分にある、黒光りの金属が繋いでいる。透明な装甲の中には、赤い迷彩柄が覗いている。このスーツの内側に赤い軍服を着ているのだろう。軍関係者だろうか。


 すると、顔の般若面が動いた。真ん中から縦に真っ二つに割れ、中から男の顔が出てきた。下半分が黒ひげで覆われ、目はギョロッとしている。彼は口を開いた。


「驚かせて済まない。私は、ウルティムスだ」


 そう言うと、僕に向かって手を出した。握手を交わす。銀色のグローブを握ると、このスーツの持つ重厚感が伝わってきた。


「初めまして。僕はウィル。ええと、あなたは・・・」

「今から、ウィルはこいつと行動してほしい」


 アレンはそう言うと、リストガードの光をより強く光らせた。ウルティムスと紹介された男は、黙って僕を見た。


「ちょっと待って」

「すまんな、今は説明する暇がないんだ。後でしっかりと教えるから。君は今から、世界の果てを目指すんだ。西へ進め。ウルティムス、頼むぞ」

「でも!」

「ウィル、落ち着け」


 アレンは空中にふわりと浮かぶと、村があった方向に飛んで行った。


「それでは。やつらが襲ってくる前にこちらに向かおう」


 すると突然、パリンッという音とともにウルティムスのスーツの透明な部分が割れた。黒い骨組みの外付けパワードアーマーを体に取り付けた格好になった。中の迷彩服がむき出しの状態だ。


「この方が、動きやすいのでね」


 それから僕が現状を把握できぬまま、二人で先へ進むことになった。しかしそこには、見たことのない光景が待っていた。


 悲惨だった。


 木がなぎ倒され、地面には掘り返されたような、ぼっこりとした大きな凹みができている。歩くにつれて緑が減っていった。どう見ても自然にできたものではない。異変が起きていた。何か、得体のしれない大きな力が森を破壊したのだ。


 さらに進むと、ついには視界の八割が茶色の土世界になった。生き物の気配は感じられない。時が止まったようだった。世界はどうなってしまったというのか。そして、その時僕は何を・・・


 もうこれ以上考えても無駄だ。アレンの言う通り、まずは落ち着くべきなのだろう。この状況を自分だけで整理することなんてできないのだ。今は、目の前の男に従おう。


 気づけば、太陽が頭上に昇っていた。日光が降り注ぎ、地上の気温が上がっていくのが感じられた。



「四月九日 火曜日

 授業を4時まで受けてから、リンとバーへ。ドリームスで最近見た映画の話をした後はもちろん、恋愛話になった。彼には付き合って半年の彼女がいる。そんなに羨ましいとは思ったことがない。彼女を作りたいと思わないから。面倒なことは嫌だし。それに、僕にはできないってわかってる。でも、酔った勢いで書いておこう。同じ学科のラフィーナが好きだ。俺に優しいから。これは仕方ないだろ?彼女が欲しいってのと、好きになるのは別。実を言うと、僕には友達が少ない。というか、本当に仲が良いのはリンだけかも。他の人には見向きもされない。でも、ラフィーナは僕に優しい。彼女の方から気づいて教科書を貸してくれた。そして、先生が返却したプリント(返却時に俺は席を外してた)をわざわざ持ってきてくれた。いつか、ランチだけでも行きたい。」



14.ウルティムス



「他のスカイライナーを知っているか」


 緑がほとんど無くなり、荒野を歩いていると、ウルティムスが聞いた。


「何?スカイライナー?」

「ああ。君は違うのか?」

「何のことだ」


 何を言っているのかわからない。彼は困ったような顔をしたが、僕は始めから身に起こったことを全て説明した。気づいたら森の中にいたこと、村の男たちに助けられたこと、ジナミと知り合ったこと。今度はアンクスに襲われたこと。そして、アレンに助けてもらったこと。もちろん、記憶を失っていて、自分のことすら覚えていないことも。だから、アレンと一緒にいたとはいえ、短時間であり何も聞いていないということだ。


 ウルティムスはわかってくれた。そして、彼が知っていることを僕に教えてくれた。


「世界は終わった」


 世界が終わった。短い言葉でそんなことを言われてもよくわからなかった。今まで見てきたことは何だったのか。世界的に新型のウイルスが蔓延して経済機能が停止したのか。それとも、これはただの悪い夢で、目覚めたらまたふかふかのベッドに戻れるのか。世界がどうなっているのかわからないし、わかったところで何もできないかもしれない。記憶が全くないから。とりあえず、彼の話を聞く他なかった。


 彼は続けた。


「メランが人類史上最悪の兵器を使った。目的は世界の壊滅。いつ作られたのか、メラン自身が作ったのか。真相はわからない。投下されたのは、ここからずっと東の大陸にある、アメリカ東部。威力はこれまでに見たことのないほど強力。爆心地に近い地域は無に、遠い地域でも生物だけが消滅して廃墟化し、ロストシティとなった。つまり、そこから同心円状に被害が広がり・・・そして世界は崩壊した」


 僕は小さく頷いた。兵器・・・世界の崩壊・・・

 身震いした。


「現状で、無事、というか被害が最小限なのは、爆心地から遠く離れた地球の反対側、ここだ。アジア圏、特に我々が今いる日本」


 ズキッ。


 日本、というワードを聞いて急に頭に痛みが走った。思わず立ち止まった。頭を右手で支える。まさか自分が日本にいるとは思いもしなかった。痛みは一瞬で過ぎ去った。定期的に頭痛が来るのは日記を拾った時からだ。早く収まるといいが。


「大丈夫か?」


ウルティムスも足を止めて僕を見た。それから、頭を回して周囲を確認した。


「ああ。続けて」


 そうは言ったものの怖かった。ここは日本。はるか東の地からのパワーがここまで到達するなんて。


「何かあったら言ってくれよな」


 彼は戸惑っていたが、周囲に危険がないことを確認して続けた。


「北部には先ほど見たように自然が残っていた。あんなに綺麗な状態なのは初めて見た。だが、これからは覚悟が必要だ。西へ行くにはいったん南下しなければならない。そこにはロストシティが待っていることだろう」


 ここまで続けてから、彼は僕に質問がないか聞いた。わからないことだらけではあるが、まず彼の話を聞きたい。僕は一つだけ聞くことにした。


 「メランというのは何者?」


 彼はまるでこの質問を待っていて答えを用意していたかのように、瞬時に答えた。


「次世代の王とも呼ぶべきだろう。既存の世界の破壊者」


 彼が再び歩き始めたので、僕も合わせて歩を進めた。


「その、彼は今どこに?」

「わからない。しかし、彼はアンクスとともに現れると聞いている。すぐ近くに迫ってきているはずだ」


 あの化け物が頭に浮かんだ。顔のない者たち。思い出したくもない。何かを求めて襲いかかる様はまるでホラー映画だった。彼は腕についている端末をいじった。


「それは?」

「ああ。これは、我々独自のコネクテッドシステムだ。いわゆるインターネットのようなもの。ネットはもう無いが」

「もうない?繋がらないってこと?」

「そうだ。世界中のサーバを運営していた会社はあの爆発で今やボロボロだ。データセンターもほとんど破壊されて、もはやインターネットは過去のものとなってしまった。ただ、少しだけ繋がりが残っている弱いネットワークがあるところがある。私は、それらを利用して独自の回線を繋いでいる。これで、仲間と繋げるようにするためだ」

「仲間?」

「ああ。仲間というか、世界中の生き残った人間だ」

ここまで聞いて、謎のワードが気になっていたことを思い出した。

「そういや、スカイライナーというのは?」

「私が探している者たちだ。君のことでもある」

僕たちは広大な荒野を歩いていた。視界を遮るものは何もない。茶色の大地の上を歩く。

「スカイライナー。地平線を制す者。神話では六人の神が登場する。恐らくこの世界に、六人の選ばれし者が実際に存在する」

彼はそう言った。神話など、聞いたことがない。しかしそもそも記憶がないのだ。何を考えても無駄なのだと思った。

「私は自分こそがその一人だと思っていた。仲間を探そうとした。そこで、アレンを見つけた。彼もまた、他のスカイライナーを探していたんだ。私たちは一緒に他の者を探すことになった」


 僕は聞いた。


「誰がスカイライナーかどうしたらわかる?」

「その者だけがわかる。一般的には、能力者だと言われている。強い個性を持った者だ。アレンもそう。彼は事故で左肩と右腕に光る石を埋め込まれてしまったらしい。外したくても外せない。今ではそれが彼の武器になっている。スカイライナーにはそういう過去がある。本人に聞いてないのか?」


 それを聞いて、僕は思い出した。アレンは青い光を放ち、戦ったり宙を飛んだりしていた。しかし、僕には何もない。


「それじゃあ、僕は違う気がする。むしろ、周りの人間よりも記憶も知識もない」

「まだわからない。いざという時に能力を発揮するかもしれない」

それから続けた。

「アレンが言っていた。ウィルはスカイライナーだと。彼が君を見つけたんだろ?私はそれを信じるしかない」

「そんなこと言っても・・・。そういやウルティムス、彼は今どこに?」

「スカイライナーをもう一人探しに行った。しかし、あまりにもアンクスが多かった。日本にメランが到着した証拠だ。帰ってこれるといいが・・・」


 僕はあの時のことを思い出した。あの屈強な男たちを襲うアンクスの大群。あの悪夢のような光景が浮かんだ。しかし、ぞわっと鳥肌が立ったため慌てて頭からかき消した。


「とりあえず今は、西にある地、ヴァメイトに向かうんだ。そこに、スカイライナーが集まるはずだから」

「ヴァメイト?」

「私も詳しくはわからない。とりあえず、西に向かう。しばらく歩くしかない。行こう」


 少しの間、お互いの会話はなくなった。僕は次第に疲労感を感じるようになった。どのくらい歩いただろう。喉が渇いてきた。しかしウルティムスはペースを落とさずにガンガン歩く。だから僕も合わせた。


 日差しが強かった。舗装された道になった。わずかだが両脇に緑が増え始め、だんだんと地面のコンクリート部分の面積が多くなっていった。しばらくすると、草木と道の境界に白線が現れた。そして、車道と歩道が分けられるようになってきた。しかし車も人も見当たらない。静かだった。


 僕は喉が渇いていた。日差しも強くなってきたために体全体が水分を欲している。ウルティムスに伝えると、もう少しで街だからと言われた。彼は体力がある。疲れた様子を微塵も見せなかった。


 さらにしばらく歩いていると、目の前にポツンと小屋が立っていた。木造の小さな小屋だ。周囲に人気はない。中にも誰もいそうにない。


「入ってみるか」


 ウルティムスは小屋の周りを一周すると、正面の小さな扉から中へ入った。僕も後に続く。中は空だった。やはり誰もいない。木でできた椅子と机だけが残されたように置いてあった。壁にはポスターや地図が貼られていた。


 僕は地図を見た。見方が正しければ、来た道をずっと南下すれば都心に出られるようだ。ウルティムスが壁から地図を剥がした。


「この道をまっすぐ。間違えてはいないようだ」

「とりあえず、僕はウルティムスについていく」

「これからはカイザーと呼んでくれ。その方が呼びやすいだろ?」



「四月十四日 日曜日

今日は何も予定のない日だった。見たい映画もなかった。ネットの動画サイトをひたすら見て過ごした。気づいたら夕方だったから、近くのスーパーに出かけて、最新の自己啓発本を立ち読みして帰ってきた。SNSで高校の友達の投稿にパリの写真があった。一応、旅行は趣味。でも、そんな金ないし、めんどくさくて動きたくない。1年の時に高校の友達と行ったっきり行ってなかったな。」



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