遺体の街の壁、死体の町の溝
東雲佑
1 遺体と死体、街と町
『遺体』と『死体』という言葉の違いがどこにあるのかを、皆様はご存知でしょうか?
これは本当に、本当にささやかな問題でしかないのです。
遺体というのは生前の身元がはっきりとしている死者のこと。
反対に死体というのは、そうではない死者のこと。孤独な無縁仏をよりいっそう虚しく表現した言葉なのです。
両者のあいだにはそれだけの違いしかありません。
片方がもう片方よりもほんの少しだけ救われていて、片方がもう片方よりもほんの少しだけ哀しくてみじめであるという、たったそれだけの違いしか。
ですがそれでも、死者の国には、確かに二つのまちが存在していたのです。
※
安楽死の街は外周をぐるりと高い壁に囲まれていて、街全体が眠っているように静かで、そしてささやかなぬくもりすら消えさった場所でした。
街に、生きている人間はひとりも住んでおりません。すべての住人はそれぞれにどこか別の場所で命を落とし、そして誘われるようにこの街にやってきた死者たちなのです。
彼らは毎日をただ安穏に過ごし、夢を見たくなればいつ目覚めるともない眠りへと微睡み、そして、死人同士で生前の思い出話に花を咲かせたりしながら暮らしています。
彼らのうちに身元不明の死者、いわゆる『死体』はひとりもおりませんでした。
いいえ、かつては『死体』たちだっておなじようにこの街に住んでいたのです。『遺体』たちと比べればその数は少ないものの、『遺体』たちと互いに助け合って、時として慰めあって、仲良く暮らしていたのです。
ですがいつの頃からか、それまで『死体』たちに同情的だった『遺体』たちが、はっきりと『死体』を差別するようになったのです。
ある遺体が言うに曰く、「連中、どうせろくな死に方をしなかったに違いないさ」
また別の遺体が曰くに、「思い出のない人たちなんて不気味だわ。死んだらそれしか残らないはずなのに」
そしてまた曰くには、「ヤツらが我々を妬んで何かしでかさんとも限らんのだ」
かくして、それまでは隣人であった『死体』たちを、『遺体』たちはたちまち街から追放してしまったのです。
優越の上に成り立っていた慈愛はあまりにも脆く、同じく優越からなる蔑みへとたちまち転化してしまったのです。
安楽死の街を追われた『死体』たちは、やがて街からそう遠くない森の入り口に見捨てられた集落を発見し、そこを自分たちの居場所とすることに決めました。
半ば廃墟と化した家々を彼らは必要な分だけ修繕し、荒れ果てた路地を普請し、そして最後に、自分たちの領域を区切る境界の構築に着手することにしました。
最初は安楽死の街にあったような『壁』を志していた『死体』たちですが、それを築くために必要な建材も、そして気力も、もうどこにも残ってはいませんでした。
彼らは壁のかわりに壕を掘ることにしました。しかし、そこに湛えるべき水もまたどこにもなく、結局、完成した彼らのまちを取り巻いていたのは壕などという立派なものとはほど遠い、ただのちっぽけな溝でしかありませんでした。
それでも、『死体』たちにはもうそれ以上どうすることも出来ません。
家々を立て直した建材の残りで、彼らは看板を作ることにしました。誰に向けて、そして何を主張するための看板なのかすらわかっていませんでしたが、せめて看板くらいはあったほうがいいだろうとそう考えたのです。
全員で散々迷った挙げ句に、『死体』たちの代表者は石炭を手に取り、たったひとこと『町』という言葉をそこに記しました。
自分たちの現状を省みたとき、彼らには本当に使いたかった『街』という言葉を用いることが出来なかったのです。
それから、『死体』たちはいっせいに地面にくずおれて、わんわんと声をあげながら冷たい涙を流しました。
しかし、彼らの涙だけでは壕を満たすには到底至らず、町を取り巻いた溝は、やはりただ溝のままでありつづけるのでした。
ともかくこのようにして、死者の国には二つのまちが存在するようになったのです。
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