三節 「幸せな絵」
「何かしたいことはありませんか」
僕は彼に話しかけた。
彼に話しかけた時、彼は大概絵を描いているいる。こっちを振り向くことはないけど、話はちゃんと聞いてくれる。
集中が途切れないように、僕はその態度にあえて触れないようにしている。
彼には時間が絶望的に足りないから。
もちろん『死ぬ前に』という意味が前につくのたけど、それは言わない。
これは、生きることに対して前向けな話し合いなのだから。
彼は少し何と言おうか悩んでいるようだ。
僕はその間に彼の絵を描くスペースの周りを綺麗しようと思った。
まず、部屋の窓を開けた。
彼の部屋はあまり換気されておらず、空気がこもっているから。
看取り方について、自分の中で変化が起きていた。
看取る人に、そして看取る人の周りのことに、もっと積極的に関わろうと思った。
淑子さんを看取ってから、僕の中ではずっと後悔が残っている。もっと積極的に関わっていればよかったなと感じていた。もっと何かできたのではないかという思いがよく頭によぎってきている。
それができていれば、淑子さんの最期はもっといいものだったかもしれない。
だから、僕はどんどん彼に話しかけた。
今度は後悔したくないし、彼のことをもっと考えたいから。
彼は今床にはうつぶれになっている。
骨肉腫の痛みで、長時間立っていたり座っているのが辛いらしい。
最近は麻痺もでてきている。
それでも彼は時間があれば絵を描いている。
その強い意思は本当にすごいと思う。
「うーん、この絵を完成させたい」
彼は、僕が前に気に入った絵を指差した。
彼の手は、絵の具など黒く汚れている。いつも絵を描いているから洗っても落ちないのだろう。
やはり彼のしたいことは絵なんだなと僕は感心した。
彼を突き動かしているのは、絵への情熱に間違いない。
彼にとって生きることとは、絵を描くことのようだ。
「あの素敵な絵ですね。どうしてまだ完成ではないんですか?」
絵についてももちろんあれから調べた。
調べるほどに絵画は深くなかなか難しい。
この絵が何をもって完成するかは作者次第だろう。
でも、僕にできることはないだろうか。
「ほぼ完成してるんだけど、この二人の感情がいまいち描けなくてね」
この二人とは、絵の中にいる女性と子どもだろう。
「特別思入れがある作品なんですか?」
新しい作品を描くこともできると僕は少し思った。
しかし、彼はすごくこの絵にこだわっている。
「まあね」
彼はそう言葉を濁した。
僕はその先にある思いを聞くことがさらに聞きたかった。
話を終わらせたくなくて、絵を描く手伝いをすることにした。
絵が上手くない僕でも少しぐらい役にたつかもしれないから。
「じゃあさ、歩。誰かを大切に思う気持ちってどんなの?」
彼は、そんな僕の態度を見てか、更に話をしてくれた。
絵に思いを入れるとはそこから考える必要があるのかと驚いた。
「例えば、自分を犠牲にしても守りたいとかですね」
僕は、守れなかったある人のことを思い出しながらそう答えた。
「もっと他にはない? そもそもなんでそう思うの?」
彼は真剣な顔でどんどん質問してきた。
絵について聞いている時は、今時の若者という感じが全くしない。
僕は考えられるあらゆるものを言葉にして彼に伝えた。
彼はその一つ一つをゆっくりと受け止め、考えを巡らせていた。
それは一時間にも及んだ。
そして、「よし、イメージが掴めた。今から集中して絵を描くから」と言って、彼はまた絵を描き始めた。
三日後。
僕が部屋掃除をしていると、「できた!!」という声が聞こえてきた。
僕はすぐに彼の元に行った。
太陽の日差しが、彼を照らしていた。
僕自身あの絵がどのようになるか興味があった。
そこには、生命があった。確かな生きる希望があった。
僕は感じたことを言葉にせずにはいられなかった。
「これってまさか、尊君?」
「あたりー。今の俺を表している」
絵の中にいる子どもが、彼と似た顔をしていた。無邪気でめいっばいの笑顔を浮かべている。
その笑顔は、生気にあふれていた。
彼は生きたいと願い、生きることを諦めていなかった。
僕は大きな勘違いをしていた。
彼は絶望なんてしていなかった。今を精一杯生きていた。なんとか光りを絵から見出そうとしていた。
自然と涙が流れてきた。絵を見て泣くなんて今までしたことがない。
「誰かを大切に思う気持ちって、この絵を見た人に向けたメッセージだったんですね」
絵の中で女性と子どもが相手を思い合うように見つめあっていた。
二人は太陽のように温かい笑顔をしていた。笑顔にも色々な種類があるんだなと改めて思った。
「うん。俺にはその気持ちがわからなかったからさ。でもそれがあれば違ったのかなと思ったから」
彼は笑いながら話していた。
でも、きっと彼は寂しかったのだろう。いくら夢があっても独りっきりには変わりない。誰か話し相手もほしかっただろう。
彼の弱さに触れることができた気がした。
僕が、彼を孤独のまま人生を終わらせないと強く思った。
「きっと見た人に伝わります。だってこの絵はこんなにも幸せであふれているのですから」
彼は珍しく照れているか顔を逸らした。
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