五節 「最期の日」
彼女を看取る日がやって来た。
今日彼女が死ぬ。
それはどうしようもできない現実なのだ。
今日は少しだけ日差しが優しい気がする。
いつものように朝の挨拶をしたけど、彼女の返事はもう声になっていなかった。
それでも笑顔を作ろうとする彼女が痛々しかった。
気を使わなくていいと思った。
彼女はいつも平気そうな顔をしている。
それはある人と被るのだけど、僕は意識してその感情を今は心に奥にしまった。
彼女はこの頃食事もとらないし、一日寝ていることが多い。
学さんの顔がいつでも見えるように、ベットの近くに写真を置いてある。
僕は毎日声をかけている。
声をかけることが、彼女を孤独から救う手段だと思ったから。
最期の瞬間を病院ではなく、家で迎えたいと思う人が割合的にかなり多い。
今では彼女の意思はわからないけど、彼女もきっとそう言うだろうとわかった。
この家は主人との思い出がたくさん詰まっているだろうから。
僕は再度彼女の顔を見て、彼女に出会えてよかったと思った。
それは、綺麗事じゃない。
彼女は愛のために生きようとしていた。
その思いを、ちゃんと感じることができたのだから。彼女のそばにいられて本当によかった。
彼女の思いを胸に抱え、僕は彼女に語りかけた。
彼女が僕に向けてくれる優しい笑顔を思い浮かべながら、それをまねた。あなたは独りじゃないという思いを言葉に込めた。
「淑子さん、学ぶさんときっと会えますよ。次会えたら好きだと言ってくれますよ」
人が聞けば、なんの根拠もないと思うだろう。
でも、彼女に希望を与えることはおかしなことではないはずだ。
そして、僕は二人の愛を信じている。
彼女の目から涙がすーっと落ちた。
僕は彼女の手を握った。
「今よりも幸せになってくださいね」
死にゆく人に幸せになってくださいなんて矛盾しているのはわかっている。
でも考えた結果、彼女にはやはり幸せになってほしかった。彼女はすでに十分幸せと感じているかもしれない。学ぶさんと心で繋がっているから。
でも、彼女にはもっと幸せになってほしかった。
彼女の心に学さんが居続ければ、孤独を感じない気がした。そして、心で思い続けるより、そばにいれるならいる方がいい。だから、この死は希望だとも言えるはずだ。
彼女が僕を見つめる。
僕は両手で彼女の手を握った。
そして、「学ぶさん」と彼女ははっきりと口にしてから、息を引き取った。
最期に声が言葉になったのは奇跡だったと思う。
それだけ彼女の愛は強かった。
淑子さんの最期を看取った後、僕はしばらく涙が止まらなかった。
横たわる彼女を前にして、立ち尽くしていた。
あの場でこらえていた涙が決壊した。
正直思うところはたくさんあった。
僕のしたことが正しかったかもわからない。
もっと彼女に寄り添うことが出来たのではないかといつも考えていた。
もしかしたら、もっと違う形で看取れたかもしれない。
考え出したらきりがないのはわかるけど、僕は彼女のために何かできたかわからなかった。
彼女は自分の人生に満足できたのだろうか。
わからないことだらけだ。
ただ彼女が穏やかな顔をして最期を迎えたことだけが救いだった。
苦しまずに楽に逝くことができた。
それが僕の心を少しだけだけど、慰めた。
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