三節「忘れるということ」

 いつもと特に変わり映えのない日のことだ。

「私はもうすぐ死ねのですか?」

 朝日が彼女を照らす。

 彼女は寂しそうな目で僕を見つめ、突然そう言い出した。

 僕は何と言っていいかわからなかった。

 なぜか聞かれるとは思っていなかった。想定できることなのに、僕はそれができていなかった。

 彼女も病気に侵されながらも、自分が弱ってきていて後先長くないことがわかるのだろう。

 僕が返事がないのを肯定と見なして、彼女は涙を流していた。

「そうですか。この年になっても、死は怖いものですね」

 震える彼女の手を、僕は握ることしかできなかった。

 なんて不甲斐ないんだと自分を責めた。


「淑子さん、冷たいお茶でも飲みますか?」

 その日の午後。

「二階堂さん、わざわざありがとうございます。頂きます」

 僕は、二階堂 にかいどう あゆむという。

 彼女は先ほどのことはなかったかのように、普通に話している。きっともう話したことさえ忘れてしまっているのだろう。そして、僕はそのことを追求できなかった。

 静かに丁寧な言葉で答える彼女からは上品さが感じられる。

 彼女は背がかなり低く、腰は曲がっていないので車椅子への移乗は簡単だ。

 彼女を車椅子に乗せ、僕は今日の天気の話をし始めた。

 認知症は自分では管理できない病なのだ。彼女が患っているアルツハイマー型認知症は、認知症の中ではポピュラーなもので、脳が萎縮して起こる。

 しかし、管理できないことは苦しいと思う。今朝のように一瞬でも我に帰った時、歯がゆくて虚しいと思う。

 彼女を看取ると決めてから、介護の勉強を一通りした。知らないと対応できないことがあるから。

 とろみのついたゼリー状のお茶を、スプーンで一口ずつ飲ませる。

 飲んでいる間もじっと見ていないといけない。

 そうしないと誤嚥しまうことがあるから。

 彼女といると、時間の流れが早く感じる。

 それは、彼女の死ぬ日が刻々と近づいてきていることを意味している。彼女に希望なんてものは一ミリもない。

 日に日に元気が無くなってやつれていく彼女を見ながら、僕はまだ考えあぐねていた。

 彼女は愛のために生きてきた。愛があったから孤独じゃなかった。彼女にとって愛は希望だった。

 そんな彼女に、最期の時どんな言葉をかければいいのだろう。僕は何をしてあげれるだろう。

「今日も温かくて気持ちいいですね」

 彼女は僕の言葉に反応せず、ボーッとしていた。

 彼女はたまにこうやって何もないところを見ていることがある。

 そんな時は何を思っているだろう。やはり主人のことだろうか。

 そして、孤独を感じているのだろうか。

「この花は学さんが買ってくれました」

 彼女はキッチンのテーブルに置いてる花瓶を見ながら急に嬉しそうに笑った。

「優しい旦那さんですね」

 僕はそう答えながら、切なさを顔に出さないようにした。

 そのお花は僕が買ってきたものだから。

 それを主張したいわけではなく、彼女が物事を覚えていられないことが悲しかった。

 でも、あえてそのことについて訂正はしなかった。これが対応の仕方として、正解かどうかはわからない。

 本当に学さんが好きなんだなと思った。

 彼女はピュアで優しい世界にいるだけのような気がする。昔の良かったことを思い出し、人々の優しさだけが頭に残っている。

 ただ、両方を知っている僕は胸が苦しくなるばかりだった。

「ご飯の準備をしますね」

 彼女はまた僕の言葉に反応せず、花を見ている。

 僕は彼女の最期を看取るだけでなく、一緒にいる期間は彼女の生活全般の世話もしている。

 そこまでする必要があるかと誰かに聞かれたら、僕は『ある』と答えるだろう。

 看取ればそれで終わりではないし、最期の瞬間に現れただけではわからないこともあるから。

 僕は最期を迎える人がどんな人でどんな風に生きてきたか知りたかった。

 食事介護をしながら、彼女の幸せそうな顔を忘れないと僕は誓った。

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