寄り添う者
桃口 優/ハッピーエンドを超える作家
一章
一節 「山田淑子のお話」
静寂が静かに崩れていく。
それはまるで砂時計の砂がさらさらと落ちていくかのようだ。
「
突然そんな声が聞こえてきた。
『学さん』とは、声の主の夫だ。
僕と彼女以外いない狭い部屋で、彼女の声が響く。
最近は極暑だとメディアでとりあげられていて気温は果てしなく高い。彼女の家でも窓を開けずクーラーと扇風機をつけている。熱中症に家でなったら大変だからだ。もはや熱中症は外に出かけいなくてもなる。暑さは健康に大きく害をなすようになってきている。
「若いあなただけじゃなく、どんな時代でも女性は、好きな人にストレートに『好き』と言れたいのです。ただ当時はそれをよしとしない風潮があったから、黙っていただけです」
白髪で、短くなってしまった髪を触り彼女は少し顔を赤らめた。
彼女が二十代の頃は、男尊女卑の考えが当たり前だった。妻は黙って夫の考えに従う。女性が自分を主張することを社会的に許さない時代だったのだろう。
世界情勢的からみても戦争があり、皆心にゆとりがなかった。
しかし、形あるものとして愛情を受けとりたいという願望は間違ってはいないと僕は思う。
見えないものはどうしても頼りなく、すぐに人を不安にさせるから。
見えるものがほしくなる気持ちは僕もよくわかる。
ベッドに横たわる彼女を見ながら、僕は何歳に見られているのだろうなあとふと思った。
僕は二十九歳だけど、彼女からすればまだまだ若い人に分類されるだろう。
「学さんは本当に無口な人です。大事なことも何も言ってくれません。その上、何でも一人で勝手に決めちゃうんです。私は振り回されてばかりです」
僕は、静かに話を聞いていた。
話している内容は夫に対する文句なのに、彼女はどこか幸せそうな顔をしている。
彼女の目が、それを物語っていた。
でも、彼女は突然涙を流し始めた。
一体彼女の中に今何が巡っているのだろうか。
「学さんはいつもそばにいて、私のことを守ってくれています」
僕は胸が苦しくなった。
この気持ちをどう扱ったらいいかわからなかったから。
彼女にとって『愛』とは何だったんだろうか。
尽くすだけの愛。なんの見返りもなかったかもしれない。それでも、彼女の口からは悲しかったとか辛かったという言葉は一度も出てきていない。
愛されているとわかっているし幸せだけど、ただ一言好きとほしい。
そう願うことは、欲深いと言えるだろうか。
そして、ただそれだけなのに、今後彼女の願いは永遠に叶うことはないことが余計に僕を苦しめた。
学さんは、五年前に事故で亡くなっていて、この世にはいないから。
その事実を受け止められずに、彼女の時間は止まった。そして、急速に認知症が進行していった。
認知症は厄介なものだ。思い出せなかったり、忘れてしまうことはすぐに不安を引き連れてくる。精神的に辛い状態になりやすくなる。さらには自分自身のことがわからなくなり、今自分がどこにいるのかわからなくなるなんて想像するだけで恐ろしい。それが毎日なのだから相当の苦痛だと僕でも安易にわかる。
そして、基本一度かかれば治ることはない。進行を少しだけ遅らせる薬がある程度だ。
彼女は学さんがもう生きていないこともわからなくなっている。いや、本人の意思ではきっとそうしていないだろうけど、生きていると思うことで心を保っているのかもしれない。
それを他人が簡単に不幸せと決めつけることはできないと僕は思った。
たとえそれが偽りの幸せだったとしてもだ。
彼女の幸せは、彼女だけのものだから。
彼女は泣き止み、また穏やかな顔をしていた。
学さんはもういないという事実を本人に伝えることだけが正しいとは言えない。
現実は残酷なことが多いから。それに、もっと彼女に寄り添う方法がきっとたくさんあるはずだ。
愛する人がいなくなった彼女に僕は何ができるだろう。
天井を一心に見つめている彼女は、今何を思っているのだろう。
天井は木目がきれいに並んでいるだけで、何かがあるわけではもちろんない。
「学さんは私のことを好きと一度も言ってくれませんでした」とまた彼女が同じことを言った。
その声が、感情が、ずっと頭に残った。
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