オアシスの聖女さま

綿野 明

前編



 遠い遠い砂漠に、小さなオアシスがありました。木々が生い茂り、真ん中には大きな青い湖があって、湖の真ん中には真っ白な神殿が建っています。雨の神様を祀る神殿です。人々は湖の周りに小さな街を作って暮らし、朝起きるとまず小舟で湖を渡って、神殿で祈りを捧げました。


「神様、今日も一日豊かに暮らせますように」

「──神はあなたの祈りを聞き届けられたでしょう」


 機織りのご婦人が心を込めて祈ると、綺麗な声が聞こえてきます。まだ幼い、澄んだ少女の声です。ご婦人はそれを聞くと「ありがとうございます、聖女様!」とたいそう喜んで帰ってゆきました。みんな毎日同じ言葉を聞いているのに、いつだってそれを生まれて初めて聞いたように喜ぶのです。


「毎日毎日おんなじ祈りを捧げて、毎日毎日おんなじように喜んで、何がそんなに嬉しいのかしら? ばかみたい」


 ご婦人が去っていった方向を見つめて、聖女様が言いました。隣に控えている年老いた神官が「しっ! そんなことを言ってはなりませぬ」と顔の前に人差し指を立てます。


「ねえ、このカーテン、開けちゃだめ?」

「なりませぬ。聖女様はそう簡単に人々の前へ姿を現してはならないと、昨日も申し上げましたでしょう。あなたは神の娘なのですから」

「神の娘なんかじゃないわ、私」


 手を伸ばしてさらさらした薄青いカーテンを揺らしながら、聖女様は退屈そうに言いました。カーテンの一枚一枚は複雑な模様が織り込まれた、透けるように薄いものでしたが、それが十五枚も重ねられてぶらさがっているので、向こうの景色は全く見えません。


「ほら、お次の方が参りますよ」

「はぁい」


 聖女様はおざなりに返事をして、きちんと座り直すと膝の上に手を乗せました。どうせ見えないのだから頬杖をついていたって寝転がっていたって構わないと思うのですが、そうすると神官達に怒られるのです。


「神様、今日も家族が無事に過ごせますように」

「神はあなたの祈りを聞き届けられたでしょう」


 本当に、神様はこの人達の祈りを聞いているのかな。


 ふとそんな風に思って、聖女様は少しだけうつむきました。神様なんて、本当にいるのかしら。神様がみんなの祈りを聞き届けてくださるなら、どうして私のお願いは叶えてくださらないのかしら。


「……ねえ、アギ」

「なんでしょう、聖女様」

「外へ出たいわ」

「おや、では後で中庭をお散歩いたしましょうか」

「違うの。神殿の外へ出たいのよ!」


 聖女様が豪華な装飾の施された椅子から立ち上がり、しゃらんしゃらんとたくさん嵌められた足輪を鳴らしながら裸足で足踏みすると、アギと呼ばれた神官は困ったように白い眉を下げました。


「それはなりませぬ」

「街の子供達は自由に外を歩いているじゃない」

「あなたは聖女様なのです。彼らとは違います」

「聖女なんかじゃないわ! 神の娘でもない! ねえ知ってた? 私にはアッシラって名前があるのよ!」


 アッシラが大声で喚くと、アギはさっと壁際に立っている護衛の神官に目配せしました。槍を持っている彼らはすぐに頷いて祈りの間の外へ出てゆきます。


「聖女様、今日はもう終わりにしましたからな。少しお庭を歩かれて、心を落ち着けなさいますよう」


 子供の癇癪かんしゃくをなだめるような口調を聞いて、アッシラは「ああ、この人には私の心がなんにも届いていないんだな」と打ちのめされたような気持ちになりました。


「……ひとりにして」

「お部屋までお送りしましたら、そのように」

「ひとりで帰れるわ」

「なりませぬ」


 また「なりませぬ」って言った!


 アッシラは心の中でそう叫ぶと、唇を噛んで黙り込みました。アッシラはこの言葉が大嫌いでした。彼女を分厚いカーテンの層の奥に閉じ込めて、日の光の中を走り回ることも、砂だらけになって地面を転げ回ることも、掴み合いの喧嘩をする友達を作ることも許さない、この「なりませぬ」が何より嫌いでした。


 自分の部屋に帰ったアッシラは、深い青色の染料をふんだんに使って染められた美しいカーテンをくぐって、寝台に飛び込みました。銀の糸で刺繍が施されたシーツを被って、つやつやした絹織物のカバーがかけられた枕を抱きしめます。


 自分のこの部屋がとても贅沢で恵まれたものだと、アッシラはわかっていました。大きな杯に盛られた果物がこの砂漠でどんなに貴重なものかも、十分知っていました。けれどそんなもの欲しくない、とアッシラは思います。綺麗なお部屋も世話をしてくれる人も毎日のご馳走もいらないから、外に出たい。裸になって湖で泳いで、野良犬に挨拶して、薄焼きパンに塩辛い肉を挟んだだけの食事を誰かと分け合って食べたい。


「みんなが……私を大事にしてくれてるのはわかってる。でも今のまま、神殿の壁の中しか知らずに大人になって、おばあちゃんになって、死んでゆくのは絶対に嫌。外を歩きたいし、砂漠の向こうの国だって見てみたい」


 囁き声でそう言って、アッシラはシーツの中でと顔を上げました。その瞳には、怒りにも似た強い強い感情が宿っています。


「そうよ。ここで大事にされているのが嫌なら、大事にされないような子になればいいんだわ。どこかに行ってしまえって思われるくらい、とんでもない人間になってやる」


 それはとても良い考えのようにアッシラには思えました。彼女は次第に大きな瞳をきらきらさせて、ガバッとシーツを剥がして飛び起きました。


「そうとなったら、を全部やるわ! ずっと我慢してたけど、もう知らないんだから!」


 アッシラは飛び跳ねるように書物机のところへいって、パチンと指を鳴らすと手も触れずに引き出しの鍵を開けました。ここは、彼女以外は決して中を見られないように魔法がかかっているのです。


 内側まで淡い水色に塗られた綺麗な引き出しから、アッシラは一冊のノートを取り出しました。表紙に花の絵が印刷され、端のところが糸で丁寧に縫われた、外国産の美しいノートです。


 アッシラが「ふふふっ……」と良からぬ感じの笑い声を上げながらノートを捲ります。その表紙には、十歳にしては綺麗な文字でこう記されていました。


『一番すごい最強のいたずらノート』





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