閑話 夢でまた会える



◆ 羽山 冴子


「優、……が、死んだ?」

 彼にそれを告げたときのその言葉で『彼はなにも知らなかったこと』がよくわかった。その事になぜかほっとした。よかった、知らなかったのは私だけではなかったとほっとした。

 彼はすぐに海を渡り私の元に来てくれた。そして彼を追うように私の子どもも帰ってきた。とてもきれいな顔をしていて、首に残った傷跡だけが哀れだった。冷たいけれど肌はまだ柔らかいような気がした。夫とふたりで息子に触れたのはいつぶりだったろうとそんなことを思った。

「優、頑張ったね、お疲れさま、もういいよ、ゆっくり、……休んでね……」

 様々の言葉をかけたけれど、その全てが自分でも嘘に聞こえた。空虚だった。なにもかも全てが夢のように現実味がなかった。まばたきをしたら時が過ぎていて、私がなにもわからない内に世界はぐるぐると回っていく。全てが遠い。ずっとそんなようだった。


「起きて、おかあさん」

「……え?」


 いつの間に私は焼き場に来たのだろう、と思った。ぼんやりと目の前にある息子の棺をみて、それから隣を見た。私を支えてくれていたのは息子の親友だった。彼は私を見て「……大丈夫か?」と聞いてきた。私はそこでやっと、彼の手をずっと握っていたことに気がついた。

「一緒に、……水戸くん。お願い、一緒に来て……」

「……俺がいてもいいの?」

 彼は私を見ていた。ずっと見てくれていた。そこでやっと、自分がずっと泣いていたことを理解した。

「あなたが来て。お願いよ。あなたが来て……」

「……優がいない。あいつがいないとなにが、……なにが正解なのかわかんないんだよ……」

 彼は私を抱き締めて「やっと目が合った」と言った。それから「死なないでよ、優のおかあさん。あんたは死なないでくれ」と吐くような声で私にすがった。私たちはそれから優の体が骨になるのを待ち、優の骨を拾った。

 彼は最後まで泣かなかった。


「おはよう、……飯食える?」

「……ううん」

「じゃあスープ飲んで」

「……うん……」

 優の骨と暮らす私の隣に彼は空気のようにいてくれた。夫にも寄り添ってくれていたらしいが私はそれを知らない。私は何も見えていなかったし何も聞いていなかった。ぼんやりしている間に朝は夜になり、夜は朝になる。それを繰り返すだけの世界。彼は私のために料理をし、掃除をし、テレビをつけ、カーテンを替え、私によそゆきの服を着せ、メイクをしてくれた。

「水戸くん……人って自殺したら、そこで永遠に自殺しつづけるんだって……」

「誰に聞いたんだ、そんなデマ。そんなわけないだろ」

「優はまだ、あそこにいるのかしら……」

「優はここにいる。ここで笑ってる。ほら、写真だってここにあるだろ」

「優は……」

「俺を見て。大丈夫だから。優はゆっくり休んでるから」

「……そうね、水戸くんが言うなら、きっと、そうね……」

「そうだ。絶対、そうだよ」

 彼は優の荷物が届いたときも私の代わりにそれを整理してくれた。とても丁寧に扱ってくれた。

「おかあさん」

 いつからか彼は私をそう呼んだ。それはとても自然なことだった。私も当然のように「なあに」と返事をするようになっていた。

「優の日記があった。俺は読んだ」

「……そこに理由が書いてあるの?」

 彼は頷いた。だから私もそれを読んだ。

 優の作っていた『最強の彼女』なんていう生活を補助してくれるロボットのデータの中にその日記は隠されていたらしい。『これを見つけるのは恭一だと思う。そしてそれは、僕が負けたってことなんだろう』そこには優の言葉があった。音声データもあった。あの子が痛め付けられている音の中は、しかし二度と聞けないと思っていたあの子の声があった。あの子が泣きながら恨み言を言う音声もあった。それでもあの子の声だった。あの子の写真もあった。たくさんの風景写真も。なんてことない日常も、少しは描かれていた。それは私たちには慰めになった。

 しかし息子の最後は生き地獄だった。

「……おかあさん」

 全てを読み終えた私を彼は見ていた。

「いいか?」

 私は彼がなにを言いたいのかはっきりとわかった。本当の母なら止めるのだろう。そう思った。家族だったら絶対に止めるべきなのだろう。わかっていた。夫が知ったらなんていうかもわかっていた。だからこそ水戸くんが夫に言わなかったこともわかっていた。

 しかし、わたしたちの正解は明確だった。

「……優がゆっくり休んでいる場所に、……汚いものはいらないわ」

「……うん」

「でもこの世界にもそんなものはいらないわよね?」

 彼は私を見ていた。私は笑っていた。優が死んでから初めて笑えた瞬間だった。

「水戸くん」

「うん」

「あなたはなにができる?」

「……優を生き返らせること以外」

「そう、……なら、そうしましょうね」

 彼も笑った。

「うん、そうしよう」

 私たちはケラケラと笑った。


 でも結局私たちは何かをしたわけではない。少し彼らに地獄を教えただけだ。それで彼らは壊れただけだ。

 全てが終わったときに初めて優の夢を見た。

 優はクスクス笑っていた。『おかあさん、怖い顔しないで』と、『ありがとう、おかあさん』と笑っていた。私が泣いて謝れば『俺は全然怒ってないよ』と言った。『これでよかったんだよ』と私を抱き締めた。

 それは私の救いだった。初めて見えた救いだった。

「おかあさん、……死んじゃだめだって言われたから、俺はもう少し生きようと思う。おかあさんはどうしたい?」

「……そうね、……」

「もし死ぬと言うなら俺が殺す。痛くないように苦しくないように、俺がやる」

 ここまできて私はようやく彼が私の息子をとても大切に思っていたことや、だから私のことも大事にしてくれていることを理解した。

 彼の頭を撫でると彼は涙をためた目で私を見た。それでも彼はずっと私を見ていた。

 私が死なないようにそこにいてくれた。彼だってずっと死にたかったろうに、私のために彼は生きていてくれたのだ。

「大丈夫よ」

「……なにが?」

「私は長生きするから」

「……、……本当に?」

「本当に」

 私たちの報復には一年がかかった。優が死んでからもう一年が過ぎていたのだ。

「頑張りましょう、一緒に。ね、水戸くん」

「……優に似てる。その言い方」

「親だもの」

「ああ、……ああ、そうだ……」


 そこから十年今では彼は私の親友だ。

 未だに彼の涙を私は見たことがない。きっと私が死ぬときまで彼は私の前では泣かないだろう。

「おかあさん、最新バージョンの無機物彼女見てよ! 頑張ったんだよ、特に鼻!」

「また若いときの私に顔を寄せたでしょ……」

「そう! リスっぽくてかわいいから!」

「ちょっとあなたも笑ってないで叱りなさいよ。妻がロボットになっているのよ? もう……仕方ない人たちね……」

 今日も遺影の中の優は私たちを見て笑っている。その笑顔をまっすぐ見られるようになるまで、……私たちがまた笑えるようになるまで十年かかった。つまりこれは、それだけの話だ。

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