第1話 それがわかれば苦労はしない
◇ ピンクこと
大学の中庭の喫煙スペースに置かれたベンチにそのオレンジ頭を見つけた。禁煙すると言ったその口で煙草をくわえて「だーめだったわー」と笑っている二宮の頭は、今日もどこまでも軽薄なオレンジ色をしている。
俺は一緒に歩いていた学友に「悪い、ちょっとあの馬鹿つかまえてくるわ」と告げ、中庭に駆け出した。久しぶりの二宮に胸が高鳴るのがわかる。でも犬のように駆け寄るのも癪で、気が付かれないように背後からゆっくり近づき、そのオレンジ頭を思いきり殴ってやった。
「いって! 誰だよー! ……あ、ニィノ。おはよー、つーか久しぶりだなー」
俺の名前は一と書いてニノマエと読む。そして『ニィノ』というのは彼、二宮だけが呼ぶ俺のあだ名だ。
俺たちは生まれたときからの幼馴染で、二十歳を過ぎても未だにこうやってつるんでいる。端から見たら俺は二宮の保護者で、二宮は単なる馬鹿に見えるだろう。そしてその認識は大方間違いではない。俺はこいつの後始末をずっとしてきたし多分この先もずっとしていく、そういう『従属』に近い関係だからだ。
俺は二宮の隣に腰かけその口から煙草を奪った。軽いニコチンと軽いメンソールはひたすらに舌に苦い。
「おはよう二宮。久しぶりなのはお前が失踪してたからだ。あと煙草はやめるんじゃなかったのか?」
「失踪って大袈裟な……、煙草はまあ、ウン、そんなこと言ったかもしれないかもー?」
「……んなこったろうとは思ったわ」
「やーん、呆れないでよニィノ。お前に捨てられたら生きていけないよー」
「馬鹿か」
奪った煙草を灰皿に捨ててからそのオレンジ頭を軽くこづくと、二宮はいつものヘラヘラ笑顔で俺の肩にもたれてきた。
その頭からバジルのような整髪剤の匂いと煙草の匂いと染み付いた海の匂いがする。
「あー、ニィノの匂い安心するわー、実家って感じ。やっぱニィノの隣が一番安心できるわなー」
俺にとっては彼の匂いは少しも安心できない。
しかし二宮は安心しきった様子で俺の腕に額を押し付けてくる。心臓がバクバクと動くけれど顔には出ていないだろう。こういうとき自分は鉄仮面でよかったと心底思う。
「……いつ帰ってきてたんだ? というかどこにいたんだ?」
「んー、太平洋ーのー真ん中らへん? 帰ってきたのは昨日の明け方ー、そっからずっと寝てたわ。あ、もしかして連絡くれてたー? わりぃ、電波復活したらすげー通知来てて全然見れてねえんだよな」
「……別にそれはいいけど行く前に一言言ってけよ。心配するだろ」
「ごめんなー。いやーもうすげー馬鹿みたいにイカばっかりとれてさー、日々イカの干物作ってたわ。いる? イカ? 一年分ぐらいあるから持っててよー」
「一年分のイカってどんな量なんだよ」
「しかもサンプリングしたかったのは全然とれなくてさーくっそ悔しいー、一ヶ月も放浪してたのによー、まだ地面揺れてる感じするー」
二宮はこの海洋学科の中でもフォールドワークが必要な分野を専攻しているのだが、それを抜きにしてもこいつは『失踪』しがちだ。子どものときから面白いものを見つけると簡単に電波の届かないところまで行ってしまう。しかも誰にもなにも告げずに勝手に出掛けてしまうから、周りはいつも振り回される。こいつが失踪する度に俺は後始末に奔走した。
そうまでしても二宮はきっといつか俺が迎えにいけないところに行ってしまう。それは予感している。ずっと前から予感している。なのに、それを止める手段は未だに見つからない。
俺はこいつに甘すぎると自覚した上で「おつかれ。頑張ったな」とそのオレンジの髪を撫でると、「えへへ」と二宮は笑った。
「お前……またどっか行くのか?」
「うん、行くよー? 今度はー、来週から二週間ぐらいかなーリベンジ太平洋」
「俺じゃなくて親御さんに言え。前も言わずに言ったろ? 心配してたぞ。ついに失踪したかって……」
「アッハ、うけるー。つかーニィノ、今日暇? おかんがニィノに会いたいってうるさいけん来てくんね? 俺、唐揚げたくさん作るぜよー? あと終わりなきイカ天国。どうよ?」
二宮はヘラヘラと笑って俺の膝をペシペシと叩く。二宮の子どものときからの癖、甘えるときの癖。
「大人しく怒られてやれよ。それも子どもの仕事だろ?」
「やだよ。だってうっせーんだもん、おかん。俺ちゃーんとやってんのにさー……ねえ、ニィノ、いいでしょ? 一緒に帰ろうよ?」
親に怒られるのが面倒だから俺に甘えているのだ。こいつの親御さんは俺のことを気に入っているから、俺がいれば怒られないから、と俺を頼る。
一ヶ月前に送った俺のメッセージなどこいつは見てもいない。俺だって心配していることを、俺が誰よりも心配していることをこいつは少しもわかっていない。きっと想像すらしていない。この二宮という男は、つまるところ口先だけで、俺の匂いも俺の思いもなんにもわかっちゃいない。
でも俺はこいつにそんな理解を求めたりしない。そんな重たいことは願わない。期待もしない。
だからこそ未だに俺はこいつの隣に、少なくともこいつが陸にいる間は誰よりもこいつの近くに座っていられるのだ。
「……仕方ないな。お邪魔してやるよ」
「やったー、へへ、じゃあ一緒に帰ろーな?」
「ん。俺もゼミ終われば今日は帰るから、……六時過ぎくらいか」
「連絡してくれろー迎えに行くけん」
「はいはい」
子どもの頃から変わらないその無邪気な顔を軽くたたいてから「まあ元気そうでよかったよ」と言うと「当たり前じゃーん」と二宮は笑った。
「ありがとね、ニィノ」
「別に。いつものことだろ」
□
ゼミが終わったと連絡をしたら二宮は本当に俺を迎えに来た。嬉しかったけれど俺の表情はきっとなにも変わらなかっただろう。
ふたりで二宮の実家に帰り、俺が二宮の親御さんの機嫌を取ってやった。二宮はそのお礼といわんばかりに馬鹿みたいな量の唐揚げと、馬鹿みたいな量のイカの干物を調理してくれたので、そのまま夕飯をご馳走になった。ハイボールを二杯飲んだあとに「泊まっていけよ、ニィノ」と二宮が甘えてきたから、「仕方ないな」とそれに付き合うことにした。
「海の匂いがするな、この部屋」
「まじ? ちゃんと洗ってんだけどなー」
「嫌な匂いじゃないよ」
「アッハ、そう? ならよかった」
二宮の六畳半の部屋は子どもの頃から変わらない。だから子どもの頃に貼った戦隊もののシールが箪笥についているし、壁には俺たちの身長の記録も残っている。
指先でそれをなぞってから「セミうるさいな」と言うと「かわいそうだよな」と二宮は言った。
夜中だというのにセミがうるさいのはここが夜中まで明るい都会のせいだ。昼間と勘違いしたセミが夜通し鳴きわめく。そしてその分セミの寿命は短くなる。彼はそれを哀れんでいるのだろう。
二宮は頭をかきながらベッドに腰かけ、トントンとベッドを叩いて俺を隣にうながした。犬のように従順な俺は彼の隣に座る。二宮の匂いがする。骨まで染みついた海の匂いだ。
「そういやニィノ、彼女できたー?」
「うるせえ」
「アッハ、硬派だなーニィノはー」
「お前が軟派過ぎるんだ」
「そんなことないしー。俺だってー、えー? 最近全然連絡してねえけど今の彼女とは三年付き合ってるしー」
「連絡はしてやれよ」
「すぐ怒鳴るからうっせぇんだよな、あいつ……はー、ニィノみたいな女いねえかなー」
「身長一九〇オーバーの女は日本にはそんなにいない」
「北欧に移住すっかなー」
「ばーか」
「あはは」
二宮はなんてことなくそんなことを言う。
いつもそうだ。いっそ勘違いしたくなるぐらいいつも、そんなことばかり言う。けれどもちろんそれは俺の勘違いだし、俺だけの無意味な願望だ。そうわかっているから、今さらこんな会話で動揺もないし期待もない。
報われない恋。俺の人生を要約するとそんなところだ。
なんでよりにもよって二宮などという自由人をすきになったのか、と自分に問いたくなる。でももう二十三年も一緒にいて、二十三年間ずっとすきだったから、どうにもならない。
この馬鹿に一言『すきだ』と伝えたらこんなに辛い思いをすることはなくなるといつだってわかっていた。でもこの胸の痛みよりも、彼が俺の隣で笑ってくれる喜びの方がずっと大きいから、俺は彼になにひとつ気づかせはしない。すきだのなんだのは胸の中にとどめておけばいいことだと、そう決めた。ずっと前にそう決めて、それからずっとそうやって生きてきた。
だから俺は悲しい表情は見せずに、彼の話を聞いていられる。
「つーか、彼女とはちゃんと話せ」
「んー、ウン」
「女泣かすなよ。もう小学生でもないんだぞ」
「……アッハ、馬鹿だな。女を泣かすのが男の仕事なのよ、ニィノ。童貞には難しいかなー?」
「お前がクズであることと俺が童貞であることは関係ないだろ。……ちゃんとしな。俺相手ならそれでいいけど、彼女相手にそれはだめだ。……わかってんだろ、二宮。だから面倒くさがってるんじゃないのか?」
二宮は眉間にシワを寄せしばらく黙ったあと「そうね」と小さく呟いた。それからまた俺の腕にもたれて「本当にそうだな」と言った。
「フラれたら慰めてね、ニィノ」
「フラれないだろ」
「だといいなあ」
二宮はその日も壁にひっついて眠った。子どもの頃からいつもそうだ。俺はぼんやりとそのオレンジ色の髪を見つめていた。
◇
「結婚することにしたわー」
ポンと二宮は言った。明日また太平洋に行くという日の夜だった。汚い大衆居酒屋だった。二宮からは海の匂いがした。
「もうその方がいいでしょってさ。男前だよねー、俺の奥さん。昨日籍だけいれてきた」
「……へえ、そう……」
声が震えてないことに安心した。「いきなりだな」と言う自分の声が恨みっぽく聞こえないことに安心した。俺の思いはちゃんと俺の胸に収まっていることに、ただただほっとした。
二宮はへらへらといつものように笑って、「そうね」と笑う。
「でもなんか良い落としどころかもって思っちゃったんだよねー」
「……落としどころ?」
「年貢の納め時みたいな? なんだかんだで三年も俺に愛想つかさないでくれてさーすきでいてくれるってすげーじゃん」
その笑顔から目もそらせない。泣きたいぐらい胸が痛いのに泣くことはできない。だって二宮は笑っている。なら俺も笑ってやらなきゃいけない。出来ないならせめて鉄仮面でいなきゃだめだ。
でも二十三年だ。
生まれたときからずっとだ。
俺だってお前がすきだ。もうずっとすきで、期待も願いもないけれど、でも、だったらなんなんだろう。俺のこの思いはなんなんだろう。なんの生産性もなく、なんの報いもない、この思いはなんなんだろう。
俺はきっと今ちゃんと笑っている。
「そうだな、すげーよ……こんなの、奇跡だ」
「ひっでー、そこ肯定するとこ?」
「とにかく、……おめでとう」
二宮は「ありがとう」と言った。彼のコップにビールを注ぎながら手が震えてないことにほっとする。あとはポツポツと大学の話をして二次会は断り、解散になった。
「じゃあな、二宮」
「ん、またね、ニィノ」
そのオレンジ頭に手を振って、それがすっかり見えなくなってから鞄から携帯を取り出した。
全身がガタガタと震えている。吐きそうだ。もう耐えられないと思いながら、『グリーン』にコールする。彼はワンコールで出てくれた。
『どうしましたか。ピンクから電話は珍しいですね』
「俺がピンクなのは未だに納得できないんですけど、なんでもいいからすぐに来てください。俺はこれから自殺します」
『心中ですか。わかりました、すぐ向かいます。どこにいます?』
「俺はどこにいるんだろう……地獄? ハハッ……」
『落ち着きなさいピンク、大丈夫ですよ。そんなに大変なら他のメンバーも呼びますか?』
「うん……位置送るから、……もう無理、全部が無理」
『わかりました。いいですか、ピンク』
グリーンはいつものようにおっとりとした口調で『人生は長いです。生きていれば良いことがあると思っていても、実はそんなにいいことはありません』と俺をさらなる絶望に叩き落としてから通話を切りやがった。あいつ楽しんでいやがる、と思いながらも他に頼れるあてもない。
地獄か。
そうかこの世は地獄かと思いながらグリーンに位置情報を送り、そのままガードレールに腰かける。
「結婚って……」
言葉にしたら吐き気になった。
冷や汗を流す体を抱き締めて、誰でも良いから傍にいてくれ、なんでもしてやるからここにいてくれ、という捨て鉢なことを思う。しかし本当に誰でも良い。なにもいわずに抱き締めてほしいし、なにも聞かずに泣かせてほしい。だって、結婚って……。
いや、結婚って、なに。
自由人にも程がある。
しかも明日からまたいないくせに。また連絡つかなくなるくせに。俺の隣が安心するとか言ってたくせに。ずっと俺の隣にいたくせに。俺が一番の親友の癖に。
何故決定してからの報告。
もう少し相談とかないのか、そこに。ワンクッションあってもいいだろう、せめて。心構えってのがあるんだよ。俺が片想いのプロじゃなかったらあの場で嘔吐してるぞ、二宮。本当お前そういうところあるぞ。お前本当にそういうよくないところあるぞ。
「まあ、それも含めてすきなんだけども……」
「いたいた。よう、『ピンク』。うわ、顔色悪いな」
肩を叩かれて顔を上げると『グリーン』ではなく『ブルー』が目の前に立っていた。
前に会ったときから髪の色が変わっていて、今日は黒髪に青メッシュだ。構造のわからない小洒落た服を着て、外道のくせに薔薇の匂いがして、トレードマークの黒縁眼鏡は高そう。全てが癇に触る姿だった。睨み付けると『ブルー』はいつものようにニンマリと笑う。
「何故よりにもよってトップオブクズが最初に来る……?」
「はいはい、そりゃ悪かったよ。泣くんだろ? 個室取るぞ。なに食いたい?」
「泣きたいというよりは吐きたい」
「嘔吐を伴うなら俺んちだな。車乗れるか?」
「車で吐いていいかによる……」
「いいよ。みんなすぐ来るから、そしたら移動しようか」
ブルーはそう言って俺の隣に腰かけた。
彼は当然のように俺の肩を抱き寄せて「お前でかいな、俺だって一七五はあんだけどなー」と笑う。誰だっていいとは思ってたけどこいつは嫌だったなと思いながらも、俺は彼の肩に顔を埋めて「なんでよりにもよってあんたなんだ」と泣いた。彼はやっぱりクツクツと楽しそうに笑う。
「お前は本当に『ピンク』だなあ。かわいいやつだよ」
「うるさい。節操なし……」
「マァ泣けよ。俺の肩はいつも空いてるからさ」
それから三十分もしない内に『全員』が集まり、俺たちはブルーの家に移動した。俺はその時には泣き疲れるほど泣いていたので、ブルーの車で吐いたものがいかに処理されたかは知らない。そして謝る気もなかった。
何故ならここは『失恋ファイブ』。
はっきり言うなら地獄の底だ。ゲロぐらいで謝るような関係性は俺たちには存在しないのである。
◇
「……高校のときに部室に彼女連れ込んで致しているの目撃したときよりつらい……」
「すごい新エピソードぶちこんでくるじゃん」
蛇のように感情のない瞳をしているのは『ブルー』こと水戸さんだ。彼は俺のすきな人のことを「そいつダメンズだよ」と言い切った。
「水戸さんにだけは言われたくない。ドクズじゃないか」
「クズじゃねえよ俺は。節操がないだけ」
「最近抱いた数は?」
「今月は人なら八人」
「また人以外がいるじゃないか!」
「俺の無機物彼女可愛いんだぞ。なんだよ、その顔? お前も抱いてやろうか? 俺に抱かれるとすげー色気つくぞ。そのあとリリースしてやりゃ一発ぐらいなら二宮くんもヤってくれるんじゃないか?」
「死んでくれ……もう死んでくれ……頼むから死んでくれ……」
「あ、逆に二宮くん抱いとく? 二度と女抱けなくなるからワンチャンあるぞ」
「あいつに手出したら刺すぞ、テメエ」
「ちゃんと急所に刺せよ。外されると大変なんだよ」
「既に経験がある……もうやだこの人……」
彼は寝取られるのが趣味というクズである。来る者は拒まないが必ず誰かにリリースする。しかも抱かれなきゃ生きていけない体にしてからリリースする。他人の人生をボロボロにしてケタケタと笑う外道中の外道。しかも仕事は、無機物彼女という巷で有名なロボットを作ることという根っからの変態だ。
彼の最も捗る妄想は、結婚式で『ちょっと待った』と叫ばれ自分の嫁を連れ去られていく場面、というあたりからして俺は全く理解できない。そもそも寝取られるのが趣味ってなんなんだ。俺はすきな人をぽっと出の女に寝取られたがなにひとつ楽しくなかったぞ、と水戸さんを睨んでいると彼の肩を『グリーン』が叩いた。
「少しは慰めてあげてください、水戸。きみと違って一は長いこと片想いしてたんですよ?」
「むしろ幼馴染寝取られるとか最高のシチュエーションすぎて俺は捗ってる」
「捗らせないでくださいって。また泣いちゃいますよ、この二十三歳大学生」
「いやもうずっと泣いてんじゃん。泣き顔も捗るから今日は最高だ。車をゲロまみれにされただけの価値がある。つーかゲロって良いよな。興奮する」
「さすがのクズブルー……。ごめんなさい、ピンク。わたしにはこれを止めることはできないようです」
『グリーン』こと楠木さんはそう言って苦笑した。
ロマンスグレーになりつつある髪をオールバックできれいにまとめチャコールグレーのスーツを身にまとい、常になにかの愛人のような色気を漂わせる男子校教員。彼は職場ではカムアウトしていないが独身のゲイでありずっとパートナーはいない。
「でも一、この機会だから他に目を向けた方がいいと思いますよ。わたしとしてもその男はいい男とは思えません」
「なんでですか。あいつかわいいんですよ」
「失踪するわ修羅場にきみを呼び出した挙げ句逃げるわきみが貸した金も返さないわ、まあまあクズエピソードしか聞いたことありませんが?」
「あと俺が血迷って付き合った彼女にも手出しましたね、高校のとき」
「聞くエピソード今のところ全部クズですよ?」
「でもすきなんですよ……あいつの世話してるときが一番幸せ……」
「きみはこの先も幸せになれないタイプですね……」
「それは楠木さんに言われたくないです!」
「わたしは聖職者ですからもう幸せは諦めました。来世でいい……もしくは帰ったら家の前にイケメン落ちててほしい……養うから……」
楠木さんは職種の事情からパートナーを持てないどころか探すこともできないでいるらしい。
そんなの別に構わないじゃないですかと言ったら、「わたしは人である前に教師なので、万に一つであってもこの仕事奪われるようなことになったら生きていけません」という重い言葉が返ってきた。しかもそうやって諦めているのに毎年どころか毎月のように生徒から告白されるそうだ。それを「卒業してもまだその気持ちがあれば聞いてあげます」といなして断っているらしい。ちょっと気になっている子でも必ず断っているらしい。聞く度に条例の壁ってすごいなと思うし、男子校だからって毎年告白される楠木さんの色気もすごいなと思う。
俺を慰めるどころか俺ぐらい落ち込んでしまった楠木さんの背中を撫でているとキッチンから『イエロー』が出てきた。
「水戸くん、肉焼けたぞー」
「さすがアウトドアの神様イエロー。手際がいいな」
「まあな。んで、半分は俺が食っていいんだよな?」
「ん? うん、別にいいけどそんなに食えるのか? すーさん、最近食う量減ったって言ってたろ」
「肉は飲み物だから」
「意味不明すぎて強いな。マァ、どっちゃにしろ俺は食わねえからガンガン食べて。それいい肉だからもたれねえだろ……おい、ピンク、肉焼けたから泣くのやめろ」
「そうそう、焼き肉の匂いは幸せの匂いだからさ。顔あげなよ。大丈夫だよ。明日はいい日。俺が来たから晴れるっての」
『イエロー』ことすーさんはそう笑って、俺の隣に座っていた。
紫色の髪に黒とかピンクのメッシュが入った派手髪のすーさんは水戸さんの友達らしいが何故あんなクズと友達なのかわからないぐらい優しい人だ。フットワークも軽く、呼べばすぐに飛んできてくれる天性の陽キャラ。そして驚異の晴れ男であるため、彼が旅行に行くと梅雨がくるぐらいの強さがある。
彼は俺の肩をぽんぽんと慰めるように叩く。
「すーさん、……俺、この先、どうしたらいいですか?」
「え、わからん。俺、失恋を引きずったことないからなー」
「すーさん、ちゃんとフラれてます?」
「昨日、元カレのところ行く恋人を成田まで送り届けて別れたけど?」
「えぐ……喉から血の味するレベルのえぐい所業……地獄……」
「そのあと成田山のぼってスッキリ成仏」
「何故それで成仏できるんですか!」
「えー、だってすきな人がそれでハッピーならよくね? あと登山は楽しい。キャンプもいいよな! あ、釣りいくか?」
「圧倒的陽すぎて参考にならないです」
彼はとにかくメンタルが強すぎるのだ。
水戸さんと仲がいい理由もメンタルが強すぎるからなのだろう(二回目)。あまりにもダメージを負わないために、彼よりも彼をフッた人の方が病むらしい。強すぎる(三回目)。
そんななんの参考にもならないすーさんが焼いた肉はひたすらに美味しい。たしかに飲めるような肉なので泣きながら飲んだ。
すーさんはこてんとレッドの肩にもたれた。
「失恋のプロならレッドでしょ。レッド、アドバイスしてあげなー?」
「私がレッドなのはまだ納得してないから。ピンクがよかった」
「いいじゃん紅一点のレッド。戦隊ものの歴史を変えられるよ、つづきん」
「だったら魔法少女がいい。というか私にも肉とってよ、すーさん。あと水戸、ハイボールおかわり作ってきて」
「はいはい、ほらお肉食べてー。あれ、つづきん太った?」
「刺して殺すぞ、ヤンデレメーカー」
「刺すなら俺を刺せよ、続木。お前に痛めつけられるとか興奮する。ほら、ハイボール」
「まじで消えて、ヤンデレホイホイ」
紅一点の『レッド』こと続木さんは丸の内で働いている美人OLだ。
なんの因果かすきになる男みんな、男に寝取られるらしい。しかもどれもこれも純愛少女漫画のようにかっさらわれるため「幸せにならなきゃ許さないんだから!」という当て馬台詞を叫び、仲人までつとめあげている猛者だ。しかもそれを百回以上こなしている。
三年前に仕事で水戸さんと知り合い、異常なまでに失恋していることを愚痴ったら『失恋しまくるやつを集めて失恋ファイブつくろうぜ。お前レッドな』と言われ、この失恋ファイブが始まったそうだ。
まさに地獄である。
失恋しまくるのもそうだが、そこで水戸さんに出会うというのが地獄の中の地獄だ。レッドを冠するだけのことがある当て馬レディー。
そんな続木さんはため息をついた。
「一くん、失恋は日常だからそんなことで死のうとしないの。恋は失うまでがワンセットよ」
「……発言の全てが重いです……」
「あと二宮くんはクズだと思う」
「なんでみんなそんなこと言います?! あいついいところめっちゃありますよ!」
「具合的には?」
「笑顔がかわいくて甘え上手」
「ハッ」
鼻で笑われた。泣いた。
「なんで誰も慰めてくれないの……」
「マァ飲めよ、ピンク。次から不倫フェーズだろ? 訴えられたら500万近く飛ぶから気を付けろよ」
「水戸さん、『慰める』って言葉の意味わかる?」
「『吐くまで飲ませる』だろ。ほら、ハイボールだ。飲んで吐け。俺の家だ。どんだけ汚してもいい」
「わあ! 最高!」
「掃除すんの家政婦だしな」
「最低! シンプルなクズ!」
出された酒を一気にあおると、くらくらと視界がまわった。死にそうに喉が熱くて、泣いても泣いても胸が痛い。けれども残念ながら俺の日々も俺の恋もまだ続いていく。それがわかっているから辛い。
「死にたい……」
「心中ですか? 先生付き合っちゃいますよ」
「楠木さん……」
「わたしに告白すると本命と付き合えるってジンクスあるらしいんですよ、うちの高校。残酷ですよね、高校生って……免職を軽く考えすぎ……」
「あ、一緒に死にます?」
「あはは、死にたいときはいつでも呼んでください」
杯が空いたら次の酒。酒を飲んだら肉を飲み、肉を飲んだら酒を飲む。泣く隙なんてないはずなのに勝手に涙が落ちていく。誰かに肩を組まれて、誰かに頭を撫でられても、あのオレンジ髪の匂いはしない。あの海の匂いだけが恋しいのに、どうしたってあれは俺のものになりはしない。そのことがやっぱりどうしても辛い。
「はいはい、ふたりとも肉食べろって。自殺だけはすんなよ? それにさ、地球には人間がたくさんいるし、みんなそこそこ愛し合えるようになってんだから、大丈夫だよ。次があるよ」
「聖母すーさん……」
「水戸くんなんて無機物とも愛し合えるしな! 道は色々あるよな!」
「地獄の聖母だった……」
「肉美味しい?」
「美味しいです……美味しいけども……」
「じゃあ明日も大丈夫だ。泣きたくなったら俺を呼べよ。どっからでも行くからさ」
「すーさん、……太陽のよう……ヤンデレメーカーなのに……」
二宮が結婚した。
俺のものだったことなんて一度もないけどこれで完全に俺のものじゃなくなった。これからあいつが帰る場所は俺が入ることができない場所だ。あいつはより一層俺からのメールを無視するだろう。だってあいつを迎えにいくのは、これからは俺じゃなくなる。そんな最悪の未来が今と地続きの未来、避けられない未来として目の前に広がっている。
死にたい。目を閉じて二度と開きたくない。けれど、だめだよ、と背中を叩かれる。ドクズしかいないというのに、ここの人たちはそういうところはしっかりしている。それも辛い。
「というか一くん、仲人任されるんじゃないの、レッドからの先輩アドバイスいる?」
「ウッ……おっえ……」
「やるならやりきった方がいいよ。仲人までやるとなにもかもどうでもよくなるよ?」
「無理……無理です……レッドほどの強さは俺にはないです……」
「でも他の人にやられるよりよくない? ベストマンは自分って思ってんでしょ?」
「あいつのベストフレンドは俺だけどあいつのベストマンは無理……!」
俺が泣くと彼らは笑う。
眉を下げて仕方がなさそうに笑ってくれる。俺が吐いて喚こうが、俺が泣いてすがろうが、はいはい、どうどうとそれだけだ。目を閉じて、ぐるぐるとまわる意識の中で「気持ち悪い」と言うと「はいはい」と誰かが笑う。
「水戸くん、薬だしてあげなよ」
「もう飲ませたよ。おら、一、起きろ。ベッドで寝な。腰痛めるぞー……だめだなこりゃ。すーさん、運んでやれるか?」
「運べるけど先に吐かせた方がよくないか? 寝ゲロは死ぬぞ」
「じゃあトイレだな。よーし吐かせてやるぞーゲーロ! ゲーロ!」
「待て待て水戸くん、俺がやる。水戸くんは興奮材料求めてるだろ、俺がやる」
「当たり前だろ、俺の家だぞ。俺が王だ。お前ら全員俺のおかずだ」
「やめなさいって。これ以上一くんに負担かけるな。水戸くん存在するだけで他人に負荷をかけるんだから」
「そりゃ人間関係みんなそんなもんだろ。迷惑かけねえ人間はいねえんだから」
「そりゃそうだけどさぁ……」
誰かが俺を持ち上げる。ぐらぐらする意識の中で「死んじゃだめ?」と聞くと「だめだなあ」とそれは笑う。「こんなに辛いのに?」と聞いても「そうだね」とそいつは笑う。
「げほっ、おえ、……」
「はい。上手に吐けましたー。すーさん、水もってきてー」
「うぃー。……うわもうほぼ血じゃん」
「どっかに潰瘍できてんな」
「救急つれてっとくか?」
「んー……若いからなんとかなるだろ。でもこれ駄目だな。すーさん、ローテーション組もう。こいつひとりにしてたら冗談抜きで死にかねんぞ」
「帰ったらシフト確認するけど月曜は休み……つかもう抱いてやれば?」
「俺が? ありっちゃありだけどなー……このメンバー内でセフレ作りたくねえんだよな」
何かに手を伸ばす。海の匂いはしない。でもあたたかい。
「こんなに辛いのに、なんで恋なんかしたんだろ」
俺の問いかけにそれは笑った。そうしてその笑い声を最後に俺の意識は完全に途絶えた。
◇
目を開くと頭痛がした。
うめいても頭痛がするし寝返りひとつで吐き気が込み上げてくる。なんだこれはと思っていたら、カーテンが開く音がして日差しが襲いかかってきた。
「……眩しい……」
「辛いだろうがこれを飲め。そこからさらに脱水起こした方がしんどいぞ」
「……誰?」
「ん? トップオブクズの水戸さんだ。ほら、体起こせ。口移しで飲まされたいのか?」
目を開くと水戸さんが俺にスポーツ飲料水の入ったペットボトルを差し出していた。のろのろと体を起こし、吐き気が落ち着いてからそれを受け取り、飲む。また吐き気が込み上げてきた。
「うえ、……気持ち悪い、……甘過ぎ……これ、……」
「二日酔いのときにはこれがいいの。マァ、水飲むのもしんどいだろうが頑張って一本飲め。それからまた寝ろ」
「ここ、……どこ?」
「俺んちの寝室のベッドの上で、今は土曜の朝。今日は動けんだろうからここにいろよ」
「……頭痛い」
「はい、頭痛薬」
差し出された錠剤を飲み込み、のろのろと甘い水を飲む。水戸さんは俺の首に手の甲で触れると「熱出てんな」と笑った。
「パリパリする……」
「目やにだ。泣きすぎ。声も嗄れてるな」
「……昨日のこと夢じゃないのか」
「どこまでも現実だな」
「……うっ……」
「吐くのか? ……ああ、泣くのか……真面目だなあ、お前……」
死にたいと思った。でも俺がそう思っている間はこの地獄の人々は俺を一人にしちゃくれないのだろうとわかった。だから人生最悪の日が終わってもどうやら俺の人生はまだ続くらしい。地獄だな、と呟くと、現世だわ、と彼は笑った。
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