ACT22 鐘鳴詠の道のり
「よいしょ、よいしょっと」
早朝。時刻は午前六時。
新品のTシャツに新品のジャージを着て、これまたピカピカ新品のアディダスのスニーカーを履いた
六月に入って暑さは増していく一方だが、早朝はまだ涼しさが残っている。
それに、
「なんだか……空気が、違うなぁ」
思わず声が漏れた。
微かに聞こえてくる雀のさえずり、自宅周囲の静けさ、ちょっとした眠気の残ったまま身体を動かしている現在……すべてがすべて、詠にとっては未知の世界だ。
まさか、こんなにも気持ちよく、そしてちょっとワクワクする世界だったとは。
「詠?」
そんな空気に浸りながら準備運動をしていたところ、自宅の庭の方からかかってくる声。
詠が視線を向けると、同じくTシャツにジャージ姿である兄の
幼少から、慧が早朝に
詠、ちょっと気後れしたけど、それはそれとして、
「お兄様、おはようございます」
「ああ、おはよう。どうしたんだ? こんなにも朝早く。しかもその格好は……」
「はい。今日から早朝のジョギングを始めようと思いまして。中間テストの後に球技大会もありますし、その、少しでも体力付けたくて」
「詠がか?」
「おかしいでしょうか?」
「否、いいことだと思う。自分を変えたいというならば、俺はそれを応援する。だが、無理はするなよ。自分のペースはきちんと守ること」
「は、はいっ」
これから自分のやることに対して、慧は肯定的のようである。
昔から兄は詠に過保護なところがあったので、止められるかもしれないと少し不安だったのだが、どうやら杞憂だった。
……多分、この前の購買の一件(ACT14)で、守られっぱなしは嫌だという詠の思いを、汲み取ってくれているのだろう。
となると、その一件で手を貸してくれたあの少年――詠の想い人で、一つ上の先輩である
「…………それにしても、詠がそういうことを始めるのは、もしやあの男の提言か?」
と、想い人のことを思い浮かべてほわほわしかけている詠とは裏腹に、慧はむっつりと……そう、とてもむっつりとした様子で、その問いかけをしてきた。
一瞬、詠は『?』と首を傾げたものの、
「あの男といいますと、源斗お兄さんのことですか?」
「……そうだ」
「はい。本当に基礎的な体力を付けるなら、やはり軽いジョギングからと。まずは私の出来る範囲のペースと距離で始めて、慣れてきたらちょっとずつペースをあげて、距離を伸ばしていけばいいと」
「それは……なるほど、初心者向けには的確な方法だな」
「ですので、この後に私、源斗お兄さんと合流するんです。ペースキーパーをしてくれるって」
「!」
それを聴いた瞬間、慧はクワッと目を見開く。
一気に鬼気迫る雰囲気の早変わりしたのに、詠はビクリと肩をふるわせた。
「…………詠」
「? なんです?」
「今から俺も準備するから、そのジョギング、同行させてくれないか?」
「お兄様が、私の?」
「ああ。先ほど、俺はキミを応援すると言った。なおかつキミは鍛錬初日だ。俺も付いていった方がいいと思ってな」
竹刀を置いて、支度を始める慧。
これには詠、少し慌てた。
「だ、ダメですよ。お兄様にはお兄様の鍛錬があるでしょう? 私なんかのペースに合わせていたら、お兄様が鈍ってしまいます。お兄様自身の大会も近いのですし」
「しかし、キミのためを思えば」
「それに心配しなくても、源斗お兄さんが付いてますから、大丈夫ですよ」
「否、雑なあの男では心許ない。詠が怪我をしてしまうかも知れない。だから俺がしっかり管理を――」
「!」
と、ここぞとばかりに過保護になって食い下がってくるのと……もう一つ、慧の口から彼のことを否定する言葉が出てきたのは、詠には聞き捨てならず、
「結構です」
答える詠の声音には、若干の険がこもっており。
「私は、お兄様じゃなくて、源斗お兄さんにコーチして欲しいんです」
「な……」
「それに、しつこいお兄様は……なんだか、好きではありません」
「!!!!!」
ついつい放ってしまった言葉に、慧が先ほどのようにクワッと目を見開いたまま、そのまま固まってしまった。
何故か『斬ッ……!』という書文字が、その頭上に見えたような気がした。
「…………ぬぅ」
「では、行ってきます」
ただ、固まっている慧にも構うことなく、詠はそそくさと自宅を後にする。
よくよく考えると、言い過ぎてしまったかも知れない、という気持ちが詠の中ではあるのだが、
「……お兄様が悪いんだから」
過保護な兄への反発心と、自分の好きな人を悪く言われたことがやはり不快だったことから総合して、そう思うことにした。
兄と彼が不仲なのは知っているが、だとしても、詠にとっては到底聞き過ごせるものではない。
「お兄様も、源斗お兄さんと仲良くなればいいのに」
呟く。
源斗の妹である
そして、伝えた後は……その、なんだ、昨日の昼のあの場面のように、彼に壁ドンされながら、ゆっくりと――
「えへ、えへへへへへ…………って、いけないいけない」
ついつい、顔がだらしなくなっていきかけるのを、詠はどうにか自制した。
もうすぐ彼との合流場所である。
こういう顔を彼に見せるのはまだ恥ずかしいし、なにより今から彼にジョギングのコーチをしてもらう初日である。
もっと緊張感を持って、事に臨まねば。
「……あ」
そんな思いで合流場所まで早歩きしていたところ、詠は遠目に、ジャージ姿の大きな人影が待っているのが見えた。
あの体格の良さと、特徴的なツーブロックの髪は、一発で誰だかわかる。
詠、先ほど思い浮かべた昨日の場面を思い出して、ついつい鼓動が加速する思いなのだが、そこは自制心を持ってどうにか抑え込む。
事実、昨夜にジョギングのことを電話で話したとき、彼はそこまであの場面のことを意識していたようには感じなかったしで、自分も過剰に意識してはいけないのだろう。……そこはちょっと残念にも思うのだが、それはともかく。
「源斗お兄さんっ」
手を振りながら、彼が待っているその場に、詠は駆け寄っていくのだが。
「………………おう、おはよう、えーちゃん」
「げ、源斗お兄さん!?」
彼、新堂源斗は、あからさまにしょんぼりしていた。
いつも明るく元気、何より細かいことを気にしない快活で豪快な彼が、生気を吸い取られたかのようにシオシオしているのは、もはや異常事態といえる。こんな彼の姿を初めて見た。
あと。
先ほど、ついつい詠が強く言い過ぎてしまった後に、兄が見せていたあの雰囲気に、若干似ているような……?
「よっしゃ……えーちゃん、気合十分みたいやから、早速始めよか……」
「いえ、その、源斗お兄さんが気合十分ではないような。その、どうかされたんですか?」
「……いや、まあ、ちょいといろいろあってやな」
「いろいろ?」
「うん……その、いろいろは、いろいろ」
何やらいろいろあったらしい。
詳細については、どうにも彼は話したくなさそうだった。
今ある事実は、源斗がどうにも元気をなくして、落ち込んでいるということである。
こういうとき、自分に何か出来ることはないかと詠は考えるのだが……生憎、源斗が喜びそうな案が、ここでパッと思い浮かびそうにない。
なので。
「源斗お兄さん」
「ん?」
「ちょっと屈んでください」
「……?」
これには源斗、頭に疑問符を浮かべた顔をしつつも、詠の言うとおりに少し膝を折る。
少し膝を折ったといいつつも身長差は二十センチくらいあるのだが、それでも、詠は精一杯背伸びして、かつ手を伸ばして。
ポン、と。
彼のツーブロックの髪に手を置いて、
「げ、元気になあれ」
「――――」
その言葉を、源斗に告げると。
源斗は、三白眼を見開いたまま、シュボッと顔を赤くしたのを近くで感じた。
「な……え、え、えーちゃん……!?」
照れているのがハッキリとわかった。
自分もかなり恥ずかしさはあるのだが、今の源斗がなんだかちょっと可愛くて、和む方が勝ったので、
「えっと、元気になるおまじないです。最近、学校で私が落ち込んだときとかに、由仁ちゃんからしてもらってますので」
「ゆーちゃんから?」
「はい。その、元気、出ましたか?」
「……………………」
源斗、照れた顔から一転、目を閉じて何かを真顔で考えていたようだが、
「……はは」
やがて、何かから解放されたかのように小さく笑った。
しょんぼりはまだ残っているが、いくつか、気は晴れているようにも見えた。
「ありがと、えーちゃん。言うとおり、ちょっと元気出た」
「それはよかったです。その、もう大丈夫そうですか?」
「おう。それにえーちゃんのジョギング初日やというのに、いつまでもクヨクヨも出来んしな。コーチである俺がしっかりせんと」
「えっと、無理そうなら無理って言ってくださいね。私のことはいいですから、自分自身を優先していただいて」
「いーや。今は、えーちゃんからの頼みごとが一番大事や。俺自身がそうしたいんやし」
「……!」
これには、今度は詠が顔に熱を持つ番だった。
優しくて、なおかつ細かいことを気にしない源斗なので、こういう大胆な発言が時たま飛び出してくるのが、詠にはたまらない。
彼のそんなところが、詠にとっては彼のことを好きな理由の一つであるし……そんなところが出たということは、確かに、源斗は元の調子に戻ったかも知れない。
ホッとするやら、ドキドキするやらで、詠、いろいろ心が休まらない心地である。
「じゃ、ジョギング始めよっか。俺が前走ってペースを作るから、えーちゃんは後から付いてきてな」
「は、はいっ」
ともあれ、源斗がゆっくりとしたペースで走り出すのに、詠は言われたとおりに付いていくことにする。
体力のない自分でも走れる速さなので、もっと速くしても大丈夫かも知れないのだけど、そこは突っ走らずに源斗の背中に付いていくのが正着な気がする。
何より、源斗の広い背中とTシャツ越しからもわかるその立派な肉体を見ながら走れるだけで、
「ふ、ふふ、ふふふふ……」
詠にとっては、なんだか得をした気分でもある。
しかも、ほぼ毎朝その光景を眺められるとなると、彼に頼んで本当によかった……と、幸せを噛みしめていたところ。
「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」
開始十分もしないうちに、詠は、そんな余裕が全くなくなってしまった。
「えーちゃん、大丈夫か?」
「ふぃー、ふぃー、ふぃー、ひゅー」
「……いったん歩こうか」
詠の様子を見て、源斗はジョギングからさらにゆっくりとしたウォーキングに切り替えるのだけども、そのペースにも、詠は付いていくのがやっとである。
視界が霞む。
息が切れる。
足も重い。
まさか、ここまで自分に体力がないとは……!
「ご、ごめんなさい、私……」
「うん。想像以上にえーちゃんのペースダウンが早かったけど……まあ、こういうのはホンマにちょっとずつやしな」
「あうううう……」
それから十数分ほどかけて、ウォーキングで元の合流場所まで戻ってくる。
その頃には、詠の体力はいくつか戻っていたのだが、
「今日はここまで。また明日頑張ろう」
「……ありがとうございました」
合計にして、三十分にも満たずに彼との時間が終わってしまったのに、詠、とても残念な気分である。
彼の背中をみながら走れるなんて浮かれていた、さっきまでの自分が馬鹿みたいだ。
悔しさと情けなさで、詠はついつい、下を向きかけるのだが、
「えーちゃん」
「……はい?」
そんな時でも、彼は優しく声をかけてくれて。
「えーちゃんと走る時間、俺は好きやで」
「……え?」
「だから前にも言ったとおり、ちょっとずつ、時間長くしていこうな」
「――――」
あの、懸垂の特訓の時と同じように。
無意識とも言えるそんな大胆な言葉と共に、こちらのことを元気づけてくれるものだから。
俯きかけていた詠は、自然と、前を向くことができて、
「……はい、ちょっとでも長くできるように、明日も頑張りますっ」
頑張ろう、と思えるのだ。
本当に。
この人に頼んで、よかった。
「うん。よう言うた! 流石はえーちゃんやでっ」
「流石と言えるほどは、まだまだなんですけどね」
「せやな。でも、えーちゃんなら出来るって信じてるでっ」
「……どれくらい、時間がかかるかわかりませんけど」
「大丈夫大丈夫。あんまりかからんうちに、俺の全力にも追いつけるって」
「そ、そうでしょうか?」
「おうっ。自分を信じよう。俺も信じてるから」
「は、はいっ」
「さて……んじゃ、俺はこれから自分のランニングがあるから。えーちゃんは、一人で帰れるか?」
「あ、はい、大丈夫です。ここからは近いですし」
「よっしゃ。んじゃ、また学校でな」
「はい。また学校で」
「ほな!」
そういって駆け出す源斗の足の速さは、さっきまで詠と走っていたペースとは次元が違う速さで、あっという間に遠くにいってしまった。
……源斗お兄さんに追いつくって、何年かかるんだろう?
などと、ぼんやりと詠は思うものの。
――いつか、追いつきたいな。
ついつい、様々な意味でそう思えてしまうくらい。
走る新堂源斗の背中は、広くて、力強い。
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