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酸味

奇行、つまるところ理解不能


「宇宙船が出来た!」

 夏もようやく終わるころ、蝉の鳴き声には活力が徐々に失われ始め、けれどいまだに気温は高く、台風が過ぎ去ったおかげでジメジメ感はようやく無くなったものの、いまだ半袖半ズボンでいなければ汗がこぼれてしまうような時分。そもそも視界を占有する前髪のお陰で、結構汗はかいているのだけれど。

 その小さな体に似合うようなな小ぶりな双丘……いや、荒涼とした平原を大仰に張りながら、彼女は何の突拍子もなく訳の分からないことを言ってボクを困惑させた。ついに頭が壊れたのか、ただボクの頭の中に浮かんだのはそれだけだった。


「宇宙服もできてるよ!」

 気怠いボクが、ゆっくりと何か返答を返す前に、彼女はどこにしまっていたのかと思うほど、大きく分厚い生地で出来た古典的な宇宙服か、潜水服といった様子のものを鞄の中から取り出して、まるで財宝を見つけた冒険家のように大きく太陽に向かって掲げました。

 本気で目の前の同い年の少女は何をしているのか、分からなくなった。

 悪魔にでも憑かれたのか、ここが宗教観の薄い日本でなく欧米や中東などで会ったら一体どんな目に会うのかと思うほど、彼女の台詞には理性の欠片もない。

 なにせ、ボクも彼女もはなにも宇宙航空の最先端技術を研究している、長々しそうな名前の機関の研究員でもなければ、どこかの秘密結社や特務機関のような厨二の匂いが漂うところに所属しているわけでもない、ただの高校生なんです。

 それが「宇宙船が出来た! 宇宙服が出来た!」と満面の笑みを見せるんです。しかも別段頭が良いという訳でもない彼女が、そんなことを言うんです。

 悪魔憑きか、そうでなくてもねじが外れたと疑うのは仕方がないと思います。


「えっとぉ、どちら様ですかぁ」

 それ以上に、今の彼女が取り付かれていようが、理性が欠如していようが、何某かの冗談でそんなことを言っていようが、今のボクにとって重要なのは、人が往来しているこの場所で、意味不明な言動をボクに投げ掛けているということでした。すぐ隣で歩いている人達も、彼女だけでなく、ボクまでに奇人を見るかのような眼を向けるのです。

 たまったものではない、確かにボクは高校生らしい青春なんぞを送ってきたつもりはありません。だからといって、ボクはただの一般的な根暗な男子、頭のねじがダース単位、いやグロス単位で抜け落ちている彼女と同じ人種ではないのです。正気を保っていれば、常識を弁え、四書五経をそらんずることはできなくとも、枕草子の序盤くらいはそらんずることが出来る程度の、知性を持った人間なんです。決して、タガの外れた人間ではない、ボクはそう言いたいのです。


「それに、なんですかぁ、これ」

 できるだけ、なんら関係を持っていないという風を演出し、この場から、もしくは彼女の対話の相手という役職から逃れるために、できるだけ心底不振がっているような顔をしながら、横を通り抜けようとしますが、思った以上に重量感のある”宇宙服”とやらを投げつけられ、ボクは転ばされてしまうのです。……というか、華奢な彼女の肉体のどこに、これを一分近く掲げ続け、あまつさえ投げ飛ばすことが出来るのでしょうか。なんだか理性だけでなく、物理法則まで飛び越えていそうな彼女の姿に戦慄するのです。


「宇宙の定を知るための、舞台衣装さ」

 妙に演技ぶってしゃべる彼女の脳裏には、いまだ重量のある宇宙服の下側から藻掻き、けれど脱出することの出来ない、彼女よりも脆弱な肉体を救うという考えは存在していないようでした。それどころか、もがき苦しむボクの上にあまつさえ座り込むのです。もし平生であれば、男の持ちうる本能に従って、スカートの中を覗き込むという醜悪な事をしたかもしれませんが、そんな余裕はないのです。

 顔面蒼白、駄目なものが口や体中の穴という穴から、噴出していきそうな感覚に襲われるボクが、求めているものはただ一つ。彼女の絶対領域の中にあるものよりも、彼女の持っているらしい強靭な筋肉でした。

 人は死の恐怖に襲われると、性的な興奮に襲われると聞いたことがありますが、圧死となるとどうも、性欲を覚えることさえできなくなるらしいです。


「もしくは、この世界から逃れて、二人きりでいるための道具かな」

 あぁ、なんとロマンチックな事でしょう。わざと無理やり声を低くして喋り、凛々しく――まるで彼女の姿など見えないので、想像でしかないんですが――語る彼女の姿は、できれば宝塚で見たいものでした。

 まるで江戸時代の犯罪者がされるような、いやそれ以上に重い苦しみをしっかりと口の中で、テクスチャーや風味、後味までもを細かく味わっている最中に、そのような上等で高尚な演技など、まるで求めていないのです。

 バチバチ。地面を思い切り叩こうが、彼女は自身の役に入り切って、まるでこちらの救援信号に気付かないのです。彼女の足を触り、訴えようとしても、慈悲なくその腕を踏まれ、何の抵抗さえ取れなくなってしまうのです。


「……ほら、そんな潰されたカエルみたいにしてないで、行くよ」

 それから元々考えていた言葉が尽きたらしく、彼女はボクに対して呆れた口調で投げ掛けながら、ようやく救援してくれたのです。

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