火葬の話 1

@036_D21

原体験について

 父方だったか、母方だったか、それすら思い出せないくらい、遠い親戚の葬式に参加したことがある。断片的な幼い記憶の中で、火葬に関する欠片だけが、今でも強烈にわたしの心に突き刺さっているのだ。

「あの人大人なのに、なんであんなに泣いているの?」

 女の人の泣き声と、幼いわたしの問い。もうその音程自体は忘れてしまったけれど、その音は火葬場の白い景色になって、わたしの頭蓋の裏側にへばり付いている。

 泣き声の主は、故人を乗せた台に縋り付くようにして大声で泣いていて、大人でもそんな風に詮なく泣くものかと、わたしは酷く驚いたのだった。

 今のわたしが言おうものなら、外道の謗りを免れない質問は、されど幼さゆえに咎められず、母はわたしに優しく教えた。

「亡くなったのがあの人のお母さんだからだよ」

 確かによく聞いてみると、「母さん」と言っている。そう呼ぶ声は、故人が火葬炉の中に運ばれた後も続いた。わたしは面食らったまま、大声で泣く女をじっと見ていた。

 

 故人が焼けるのを待つ間、わたしは一人で火葬場の駐車場に出てきていた。まだ小学校に上がる前だった筈だが、記憶の中の見知らぬ駐車場には、父の姿も母の姿もない。おおかた、わたしが大人しい子供だったのをいいことに、葬儀の慌ただしさの中で放っておかれたのだろう。混凝土に引かれた白線の中に、わたし達親戚一同が乗ってきた大きなバスが、行儀良く停まっている。

 よく晴れた日だったと思う。幼いわたしの目にも、その日の空は近く見えたので、あれはきっと夏ではない。

 見上げた視界の下半分は火葬場の建物に遮られ、上半分の薄青に白が棚引いていた。あれが死んだ人が焼ける煙か、と当時は思ったが、今になって考えてみると、どうもそれは違うらしい。最近の火葬炉は性能が良いので、煙は殆ど出ないのだという。

 近くで名前も知らない親戚が煙草を吸っていたから、その煙と見間違えたのかも知れぬ。それとも、あの記憶の中の火葬炉は、煙が出る古い型だったのか。或いはただの雲か。今となっては、もう分からない。

 

 それ以来、大人の女の泣き声と死は、わたしの中ですっかり関連づけられてしまったようだった。女の泣き声が聞こえると、それが赤の他人のものであっても、誰ぞ死んだのかとどきりとする。実際はそんな訳はない。世の中の女は、屹度わたしの預かり知らぬ様々な理由で泣いている。

 しかし、最近では、強ち間違いではないのかも知れないと思い始めた。わたしが初めて自分以外の誰かのために泣いたのも、彼の人が死んだ時であった故。幼いわたしがその光景を見たなら、屹度あの時と同じに、「あの人大人なのに、なんであんなに泣いているの?」と問うに違いない。

 あの時と違うのは、彼の人が死んだ日は夏だということだ。空が鮮やかな蒼の日だ。その後少し雨が降るので、彼の人を焼いた煙は空に昇らないかも知れない。

 最近はよく彼が死んだ日のことを思い出すので、筆を取った次第である。

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