えそらごと

としひろ

第1話 午前八時二十分、

 午前八時二十分、始業時間十分前だ。

 三階建てほどの高さのある倉庫の前で、二十人近い人間が整列している。のりの効いた作業着を着た社長の甥である部長が「始めえ!」と号令をかけた。

 ラジカセから流れてくるラジオ体操の声に合わせて、皆が体を動かし始める。(ご苦労なこった)と思いつつ、二十歳の誕生日をつい先日に迎えた彼も、いかにもだるそうに小さく体を動かし始めた。(ああ、かったるい)。体を反らしたときに見えた空が、今朝は快晴だ。ジリジリと焼け付く日差しが、もう届いてくる。(今日もきつい一日になりそうだ)。そんな思いを抱えながら、彼の一日が始まった。

 五十坪はあるだろう倉庫前での定例行事になっている体操に、(どうして大人はこんなにも従順なのかねえ。勤務時間に繰り入れられない十分間だぜ。これは、資本家による搾取そのものじゃないか)という思いが彼の中に膨らんでいる。

「なんで倉庫の中でやらない? 夏は暑いし冬は寒いし、最悪だぜ。『昔は乾布摩擦をしたもんだ』って言うけどさ、時代が違うでしょ。軍隊じゃあるまいし。戦争が終わってもう三十年以上経っているんだぜ、まったく」と、同僚にこぼしたことがある。

 当然に、「そうだよね」という言葉が返ってくると思っていた彼に、「体を動かしておかなきゃ、すぐに機敏に動けないだろ。そんなの、当たり前だよ」と模範解答が返ってきた。(あいつのマジメさには、馬鹿がつくぜ)。そんなやりとりを思い出した。


 次第にラジカセから流れる声とにズレが生じ始めて、隣の社員が大きく広げた手に、飛び跳ねた足がもつれてしまった彼の体が当たってしまった。見咎めた部長から「おい、そこ。キビキビとやりなさい!」と、声が飛んできた。みな一せいに振り向いて彼を見た。


(何でだよ、おれ以外にもかったるそうにやってる奴、いっぱい居るだろうが。というより、ほとんどみんな、そうだろうが。マジメにやってるのは、あんたとあいつだけだろうに。ジョーダンじゃねえぞ。くそ、もう辞めてやる!どうせ仕事に嫌気がさしているんだから。何でかって? そんなもん…)。すぐには思い浮かばない彼で、少しの間を置いてから、どす黒く留まっていた澱(おり)を吐き出した。

(仕事で使う車が軽自動車だということだよ。出足・加速・クッション、全部最悪なんだよ。まったく腹が立つ。何だそんなことかなんて言われたくないね。一日中車に乗ってる身にもなってみろよ。へたすると昼飯だって、パンをかじりながらとかおにぎりをほおばって走らせてるんだから。その上に、車の乗り方で上司にねちねちと小言を言われているし)

彼にも言い分はある。荷物のさばき量は彼が一番だ。しかしそれを口にしては経費がかかりすぎだし、事故らないかと気をもませられると、更にお小言を頂戴してしまう。確かに交差点での発進でゼロヨンスタートまがいにアクセルを噴かすことはある。角を曲がる折りにもタイヤを軋ませながら速度を出来るだけ落とさずに曲がろうとする。けれども事故の経験はないと胸を張る。そんな時に必ず引き合いに出されるのが、彼がマジメ人間だと称する岩田のことだ。丁寧な仕事ぶりが主任に評価されているが、若者らしさがないと彼は思っている。

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