Mdd_Margarine daydream
aza/あざ(筒示明日香)
異なる月の在る世界。
“たとえば、”
あのとき、店主の言葉を聞かなかったら。
間違いなく、私はあの子を引き取ったりはしなかっただろう。
“こんなつもりは無かった”
それは、言い訳か──────?
「は、私がですか?」
それは、突然の電話────依頼。
依頼元、『科学総会』。
なぜ、私が、と言い募っても相手は聞き入れてくれなかった。────回想の中、足取り重く、進む地下街。
『不老延命措置』の強制実施で溢れ返る人々。その社会階層は地下にまで及んだ。細か過ぎた貧富の層は交じり合い淘汰し合い、分類分けも難しい程。
それも、私や、他の科学者に属する人間のせいだ。
保証されている層は知らない。
ここに、これだけの、保護者のいる孤児がいることを。
保護者は生きている。子供は尊いと、子供の内から習う。それでも。ほら、その物陰にも。
貧民ゆえに放置された子供。所詮『既婚者優遇制度』の穴はそこに在る。
国にどれだけ貢献しているか。それで決まるのだ。人が多くなり過ぎて、コンピュータですら把握し切れていない。
それが現状。
この貧民の捨て子らは、棄てられていることすら認知されていないんだ。
保護者がいて、家が在るから。その家に、実際住んでいなくても。
優遇とは名ばかりだ。昔の生活保護と何ら変わりが無い。子供なんて、保護されてると言っても書類上だけだ。
優秀な子供がこの中に埋もれていようと、誰もわかりはしないのだ。ここに、近寄りさえしない限り。
上には上の悩みが在るがな。
人間は、生まれながらの餓鬼なのかもしれない。と。
裾を引かれ我に返った。鼻を付く臭いも人間特有の慣れで気にならなくなった頃合い
私のコートが何かに引っ掛かった。……いや。
裾を辿って目に入ったのは、子供だった。
五歳くらいだろうか? この地下街の子供たちは栄養が不足していて、よく判別出来ない。
髪も長いが、少年か少女かすら、薄汚れた風体を前にわからない。
「何か?」
尋ねても、俯いて答えない。しかし裾はしっかり握ったままだ。
白いコートが、子供の手の汚れで黒くなったが特に何も感じなかった。ただ。
「あ、 」
子供が上を向いた。私を見る懸命な表情で。そう、ただ。
「ん?」
悲しい、とだけ思った。
子供は、言葉を探しているようで喘ぐように口をパクパクさせた後。ようやく、言った。
「……お金、在りませんか? こ、小銭でも良いので……」
それだけだった。喋り終えると、また、俯いた。
私はその一言に、更に悲しいと思ったが。
「すまない。カードしか持っていないんだ」
事務的に返せただけだった。少年か少女か不明な子供は。
「そっか。ごめんなさい」
落胆して、でも笑って、放すまいとしていたように握っていた裾から手を退けた。
笑顔が、落胆の割に晴れ晴れとして、それが。
「……」
私を────俺を落胆させた。子供の消えた路地を見詰めて、次に自分の手を見て。
見ながら呆然と、この手は何を作り出しても何も教えないのだと失望した。
物乞いの子供も、己の兄さえも。
「は、私がですか?」
電話が鳴り響いたのは、数日前の、丁度一週間前の日曜だ。
雨が降っていた。
「そうだ。きみに頼みたい」
「なぜ。そう言うのは執行部隊の役目でしょう」
違法ペットショップの、摘発前の調査。それが依頼内容だった。
違法ペット、と言っても一昔二昔前のワシントン条約に抵触するとかの類いではない。『科学総会』が出るだけ在って、そのペットたちは特殊だった。
遺伝子操作されて加工された動物────『擬人化動物』だったからだ。
配合も加減も難しいこの技術を、成功させたのは一人の科学者だった。
原田ヨシキ。今は“危険”と判断されて『地球総合霊園』と大層な名を掲げている、墓地専用人工惑星の管理人になっている。
結局のところ、こう言った事態を見越しての処分も、意味が無かった訳だ。原田を処分に処しても、検討打診した上層部に隠れて影で技術を悪用するような輩がいたのでは。
「“なぜ”? 今“なぜ”と訊いたのかね?」
「はい」
「きみは何にも知らんのかね。お兄さんと生前連絡を取っていなかったと言うのは本当だったのか」
途端、受話器を握る手が汗ばむ。────兄。
不意に過った記憶の兄は物静かに微笑んでいた。男にしては線が細く、美しい顔。俺より低い背の丈。
久し振りに在った兄からの一報は死んだと言うもので、兄は柩に行儀良く収まっていた。久方の再会で目に映した兄は、記憶と違わない容貌で、けれども髪だけが白くなっていて。不思議だった。
兄が、死んだのが。
『科学総会』に名を連ねる科学者は死ねないようになっている。それは、才能や技術の永久保存のためだと言われている。才能に技術に、衰えはゆるされない。変化も、求められない。
特別待遇と言えば聞こえは良いが、長く生きているとこれは無期懲役に服しているのと変わらず、己が罪人か何かのように思えてくるからおかしなものだ。永遠に、生かされ、科学者は子を残しても一般人のように死ねない。そう決められている。
兄は結婚し子供もいて、離婚していた。人付き合いも出来ない根っから科学者の兄に、義姉は付いて行けなくなったのだろう。そう笑っていたのはまだ黒髪だったころの兄だ。
もうこれが動かないなんて。再生も出来ないなんて。
葬儀の当日に来ていた義姉に聞かされて知った。兄が、死んだら代替されるはずの自分のクローンを抹消していたこと。
兄は病気だった。余命の無い中で、何を思い立ち回ったのだろう。
聞けはもうしないけれど、そう考えてばかりいた。
あれから二箇月になろうかと言う今、兄が会話に出される。しかも自分にとっては脈絡無く。
これが何を示しているのか、まだ、俺は察せない。
「擬人化ペットの量販化開発に、きみのお兄さん、『
「────」
兄が。
記憶の兄は微笑んでいる。長めの黒い前髪が映える病的なまでの青白い顔が、形良く。
次に出て来るのは棺桶の中の兄だ。白い髪、それ以外は何にも変わっていない、綺麗な兄だ。
眠るみたいな兄に、年老いた母も復縁を考えていたらしい義姉も縋って泣いていた。
兄と俺が『科学総会』の言いなりに科学者になったのは貧しい家を支えるためだ。母はそれを負い目に感じている。
兄との離縁は一方的に義姉がしたのだ。それを義姉は悔やんでいた。
兄は、やさしかったから。他人と距離を取るけれど、俺と違って人が嫌いだったんじゃない。人付き合いが下手だっただけ。そのせいで他人に気を遣わせたくなかっただけで。
その兄が、犯罪に手を貸していた。
擬人化ペットは人間の生態系に問題が出ると危険視された。もともと動物なので遺伝子的に人間の子を孕めないのは良いのだが、体は完全に人の構造なのでセックスは出来る。人々に『不老延命措置』を、特に未婚者には強制施行してまで少子化を食い止めていると言うのにそれが原因で進行したらどうすると。
高い技術とは認められたが同時に違法性も認められて、製造も売買も犯罪になったのだ。
犯罪だと、認知され技法は凍結されたのに。知らないはずは無い。こう言った科学技術の入り込む犯罪目録は、『科学総会』では早い通達で皆に届く。知らないはずが、無いのだ。
兄が。
「そう言う訳だ。身内の不始末はその親族内で片付けたいと思わないかね」
憎らしい声が皮肉たっぷりに笑っているのを感じた。苛立つ。
兄の、何を、知っていると言うのか。
俺は上層部の、貴様の不始末じゃないのか、と怒鳴りたいのを拳を握って堪えた。それで。
「わかりました。お引き受け致します」
絞り出すようにそれだけを返せたのだった。
地下街の先に進む。行けば行く程臭いもきつく汚さも増して行く。浮浪者も孤児のような子供も道端に転がっている数が格段に上がる。こんな『世界』を、上のお偉いさんたちは知りもしないだろう。知りたくも、ないだろうし知ろうとも、しないだろうが。
いつの世も、人間がやることは穴だらけなんだ。そう。
あの、兄でさえも。
俺は────私は、建ち並んだ余りにお粗末で、店とも家とも呼べないバラック小屋の一つ、その前で立ち止まり、確認を果たすと思考を切り替えて中に入った。
母親の母国語でも在る中国の言葉を使って書かれた看板。訳すと“愛好動物販売店、各種取り揃え在ります”、だろうと思う。
その看板を掲げると言うには大仰な、はっきり口にするなら貼り付けた感じの店が、件の店だった。
電気の通っているのか疑わしい店は、衛生上も間違いなく問題を抱えていそうな内部を申し訳程度に照らしているだけで営業していた。
暗い店内。仄暗い? 薄暗い? とんでもなかった。これは、ほぼ暗闇と言って良い。通路もゴチャゴチャしていて見通しが悪かったが、ここも大して違いは無い。五十歩百歩だ。
私はよく眼を凝らそうとする。片方のみに付けている眼鏡のピントを合わせた。この片眼鏡は特別製でフレームの縁をいじると視界の遠近を調整出来るだけでなく、あらかじめ特定の対象物をセッティングして置けば自動で焦点を合わせてアップもしてくれる。……ここまでは『科学総会』支給時の特別製だった。
私個人のものは手を加えている。当然、皆そうしていることだろう。使っていない者もいるし。
兄も、着ける物は性に合わないと使ったことは無かった。
……切り替えたはずなのに兄が、この状況での雑念が、浮上した。私は慌てて軌道修正する。それと同時に片眼鏡が反応した。────“生体反応”、人が出て来たようだ。
「……いらーっしゃぁいませー。な、何にぃ致しますかー?」
流暢なのか難有りなのか不明な喋り方で、物陰からのっそりと人間が出て来る。片眼鏡のオート診断と自己判断での推定、年齢は若くないが中年にも若作りの高年にも見え特定不能、性別は男。少々脂肪過多、皮下も内臓も。
そんな、言うなればでっぷり太った、およそこの場に体型的にはそぐわず、纏う雰囲気的にはぴったりの多分、中年男が目の前に姿を現した。
「……あなたが店主か?」
私の言葉に「如ー何にもぉ」と男が頷く。外見は、真ん丸く至るところに肉が着けられた顔の中で、開いているのかわからない物凄い細さのつり目と小さく意外に可愛らしいこれまた真ん丸の鼻、剃られたと思しき頭の天辺には、そこだけ長い髪が生えており三つ編みにされていた。
着ている服はチャイナ服と言われると真っ先に浮かぶような、その形をしていた。母は中国からの帰化人で、よく似たような服を好んで着ていたが、体型の違いかまったく違うように感じる。と、言うかこの男が着ると前の開襟を止める止め具が窮屈そうで仕方ない。
「……そうか」
だが深く突っ込むのはやめた。片眼鏡に触れ詳細把握のためモードを換える。特定範囲を広げて、一つ一つ引っ掛かる生体反応を分析して行く。
「ところで、店主。ここに在るモノだが────」
「はいぃ。各、種、取り揃えーて、おりますぅ。お好みの動物ぅ、お選びくだーさい」
愛想なのか喜色なのかそもそも笑顔なのか頬の肉のせいなのか如何ともし難い、男の表情。それが不気味で排他的で、私は少々背をぞっとさせながら問う。
「看板によればここは、“ペットショップ”だな。にしては肝心の動物が見当たらないが────」
「はいぃ。ただのペットショップ、違いまーすぅ。ここはぁ、愛玩用ですぅ。あとはぁ、そー、ファイト用なんてぇのもぉ、在るねー」
片眼鏡の縁を摩るようにいじって、モードを元に戻し記録機能を起こす。これから、会話と私の見る店内が記録される。地下でも支障なく電波を飛ばし、遠く私の研究所のコンピュータまで。
これで物証が出来上がる訳だ。
私は頭の段取りを整理しながら何食わぬ顔をして、更に質問と返答を交わす。
「どんなペットがいるんだ?」
今度は遮られもせず済む。短い科白だったからだろう。
「はぁいぃ。動物、みんなー。でも、違うんですぅ。みんな、人間の形、してます、人型ですぅ」
相変わらず、店主は何も悟らせない顔で答える。どこか媚びて聞こえるのは脚色じゃないだろう。事前情報からすれば、手広くやって金を稼いでいるらしい。つまりは、こんなところでも裕福と言うことだ。
ただ、犯罪な、だけで。
「見せてもらえるか。特に────『
兄は科学者としてだけじゃなく、技術者としても有名だった。随分、世界に貢献したのではないだろうか。
その兄の作品。本当だろうか。本物だろうか。兄は。
兄が、本当にそんな禁じられた人非人な技術で作り出したのか。
私だったら、見極めることが出来ると思った。
「はーいーぃ。少々? お待ちぃくださいー」
店主は、のこのこと奥へ入って行った。今の商売がマズいものだと言う実感が在るのだろう。店の中、私の周囲を見渡しても、倉庫のようだ。きっとネットワークを伝って訪ねて来る者ばかりなのだろう。購入者か、業者か。
その考えは、間違っていないだろうな。ここには、たまたま通り掛かって看板に目を留めて覗く輩はいない。
それとしても、表には置けるものじゃない。目立ってしまうから。
擬人化した動物なんて。
難しいはずの、技術。以前『科学総会』の集会で観せられた映像に、半人半獣────その難しさから、まさに掛け違えておぞましい姿と化した動物がいた。
雄と雌の番い。元は猿だった。上手く擬人化出来ず、ちぐはぐとしていた。
雌は生きていたが、雄は死んでいた。
それはそうだ。無理に遺伝子をいじって、染色体を破壊してしまったのだろう。生合成が正常に成されず壊死している箇所も在り、これは雌にも見受けられた。
惨い有り様だった。人としては目を背けたくなるくらいに、科学者としては直視してしまうくらいに。そしてこの相反するジレンマを制したのは[科学者]の面だった。
嘔吐を飲み込まなければならない程、ひどく、が、[科学者]を優先した目は剥がせない。
そのとき。
兄が、会場に聞こえる声で、静かに言った。
「改善に必要なのは、調合のタイミングと投与の量でしょうね。ズレた掛け合いのタイミングと少ない量の投薬、それによるバランスの不安定さとそれから──────作成者のセンスですね」
兄、だった。あの独特の、響くけれど静かで抑揚を、喉を通すとき内に落として来たみたいな声。兄しか、無いと思う。
科学者としての兄はその声質も相俟ってどこか横柄に聞こえる。しかし皆が眉を顰める中で冷静な分析が、どうして出来るのか。
失敗例の無残な映像を前に席を立った者もいた。きっと、主に機械類を扱う部類の人間だろう。そう言った人種は、生体医化学────生化学のもっと医学に特化した分野には免疫が薄い者も多い。マルチに全般対応している者もいれば、職人気質で専門に偏った人間もいる。それはどの世界も同じだろう。『科学総会』も例外ではない。
私は機械も扱えたけれど専門は生化学で生体医化学に強く、兄も同種だった。医師免許も持っている。だから、この映像にも目を逸らさずにいられるのだろう。平気かどうかはともかく。
しかしそれにしても兄は、そんな言葉を言い出した。怖いような、不可思議な、抑制された────高揚の声で。
兄から離れた場所にいる私には兄の表情は見えない、ただ周囲がどよめいたのは明らかで、統括も動揺を隠し切れない態度で「ま、まぁ、そうかもしれんね。とにかく、良い実験ではない。動物たちにも私たち人間にも良くない実験だ。『科学総会』はこの技術、技法を凍結し、原田氏の除名と追放を決定した。彼は以後実験行為そのものに関わることを禁じ、今後は『地球総合霊園』の管理者として過ごしてもらうこととする。以上」と、上擦った調子で締め括った。
“除名と追放”。
科学者が一般の人間に戻った瞬間だった。
あのとき。
私は原田を羨ましいと、正直思った。
こんな
「……」
『擬人化動物』の難しい、技術。
兄は、どう考えたのか。どう思ったのか。
感情を殺し見せない抑制と、まるで好機に恵まれた喜びの高揚。入り交じって滲んだ、あのときの声音。
兄が、まさか──────。
「……お待たせ、しましたぁ。ご希望のー、品を揃えましたぁので、中へどうぞぉ」
店主から呼び掛けられる。私は止め処無い追憶を中断してスイッチを入れ替えた。こんなことは依頼が終わった後で良い。今、拘る必要は無い。私は店主の声に向き直り、視線をやる。奥の部屋、深まる闇の中ぽっかりと明けた口。扉を開けて立つ店主が見えた。
私は店長の招きに従い奥へと向かう。然程広くない部屋だ。その部屋までは数歩で済んだ。
無駄に研究だ実験だと没頭していたにも関わらず、でかくなった図体を呪いながら高くない店の天井より低く、更に小さな戸口に足を踏み入れた。
「……」
店内より、その部屋は薄暗かったが、床に置かれた仄かな明かりが店内より足元を照らしていた。
足元と────中のモノたちを。
猫の耳、白よりクリームの掛かった色合い。ショートカットとしなやかな風体の少女。
青く白い肌、人間のそれとは違い光沢を含みところどころに鱗が在る。長いストレートヘアと切れ長の金目の女。
オレンジ掛かった垂れた耳、短く折れたその形は小型犬に似ている。小柄の円らな瞳と見た目にも柔らかい髪の女性。
か細い背を、柔らかくしかし硬質な藍色の翼が覆う。金髪の高貴な表情を浮かべた淑女。
皆、チャイナ風のドレスを纏っていた。裾が短かったり長かったり袖が在ったり無かったりしたが、すべてチャイナ服のような詰めた襟をしている。それと豪奢な飾りと色とりどりの錦糸で縫い付けられた柄。
人、に見える。奇妙な部位も、お洒落だアクセサリーだと言われれば通じそうだ。
それ程に、ここに並べられ各々好きに寛ぎ寝そべるモノたちは、自然な
見目も麗しい。すべて美女だ。恐らく元の動物の特徴からだろう、それぞれが個性的なタイプの美女だった。
このクオリティ。間違いないだろう。
兄だった。認めたくないが、兄しか考えられなかった。
“改善に必要なのは、調合のタイミングと投与の量でしょうね”
クレッシェンドに強まっていた、昂り。
原田はマルチな科学者だ。興味を持てれば何でも手を出すと言うマッドな面を持っていた。
だが、その原田にも、こんな高い質で『擬人化動物』を造れただろうか。成功例の犬の青年と猫の少女は確かに見目が良かったし人間らしかったが。
兄は、専門の人間だ。こんな、こんなにも違和の無い、ましてや魔性の美しさを兼ね備えた、まさに『
原田にだって出来ないだろう、専門で、こつこつ知識と技術と経験とを積んで行かなければ、こうはハイレベルに行かないはずだ。──────あぁ、兄さん。
あなたぐらいものものだ、こんなモノ。
他の誰も真似出来ない。俺だけがそう思ってる訳じゃない。
兄は研究に一度嵌まると、のめり込んで熱中した。病的と、その様子はいっそ言えた。
普段は何をされても声も上げない人が、実験や研究を邪魔されると平気で荒げる。たとえ寝食を忘れて、体に悪いと気遣っただけでも。それを怖がって義姉は出て行ったのだ。そのギャップに耐えられなくて
この、兄なら。並々ならぬ集中力を持つ兄なら。あのとき、あんな見解を平気で示した兄なら。
私は目を片手で押さえる。どうしようもなく打ちのめされて。
信じていた。加担していたなんて、聞いても疑っていた。どこかで、兄は無実だと信じていたかったんだ。
それが裏切られた。
兄は、なぜ。
失敗例のひどく憐れな姿。兄と言え、成功までは幾つかの個体が、犠牲になったはずだ。失敗例の様相を、晒したはずだ。
陰惨な、虐待だ。あんなもの。
無理矢理、人間に換えられた動物。中をいじられて、もう元には戻れないはずなのに。犬の女性の、円らな垂れ目が好奇心に輝いている。
確か兄は昔犬を飼っていて、可愛がっていた。まだ義姉のいたころで、家族の誰より世話して可愛がっていたのに。
科学者だから? 兄は、平然とこの動物たちを換えたのか。
何も理解出来ないだろう、純粋な動物たちを。兄のことだから、きっと動物たちは警戒せずに身を委ねただろう。
私が手を口元に移動させ胃液の暴走に耐えていたとき。店主がきょろきょろ挙動不審な動きをし、“何か”を探していた。「店主?」呼んでみるがこちらを向かない。ひたすら辺りを見回す。
「あっー、」
やがて間抜けとも感じられる発声で、探し物が見付かったと知る。店主が、その体型からは想像も付かない素早い動きで目的へ向かう。「あぁ、待てぇっ、止まれぇ、こいつーっ!」何か、捕まえているらしい。
しばしの格闘の後、店主は勝利した。捕まえた獲物を引っ立て、こちらへ戻って来る。何だ?
暗がりで、奥は溜まった闇が漂っていて、私には何をやっていて何と闘っていて、何を捕らえたのかわからなかった。だけれど、判明する。段々と、近付く店主によって、“それ”も僅かな光量に照らされ輪郭を露にしたから。
「────」
少女だった。手足をバタ付かせ暴れている。店主の掴むものが引っ張られて痛いのか、目に涙を浮かべて。
頭から生えて店主に掴まれているのは、髪では無かった。
耳だった。長い、耳。兎の──────。
“ほら、
一字だしね。それにおとなしいもの。ねぇ、玉兎。兎は、どこか僕らに似てはいない? 余り喋らないところとか、さ”
兄が、一番好きな動物。自分たちに、似ていると言った動物。
兎の少女は必死に抵抗をしていたけれど、店主が耳を放し殴る動作をして威嚇したため怯えて静かになった。震えて、座り込んでいる。床に、直接。支えを失った耳はだらんと、垂れ下がった。
怖がり、俯いていて、一等に強い特徴を示す瞳は見えない。
瞳は、黒だろうか。赤い瞳はジャパニーズホワイトのアルビノ特有のものだ。が、この色素異常を考えると在り得ないことも無いか。
「……これらの動物は、喋らないのか?」
『科学総会』の資料によれば原田の擬人化動物たちは話すことが出来たと言う。それは流暢に。ならば、この並べられたものも喋るのでは。
だがしかし店主は首を振った。「ぃいえぇ。これらは喋れぇませーんん。それはぁ、出来なかったぁとぉお、王氏は言われましたー」……兄にも無理だったのか。その辺の技術では、原田に負けたのか。
それとも。
声が出たら、つらいからか。罪悪感に、潰されてしまうかもしれないからか。
さっきみたいなときに、話せるなら上がるだろう。悲鳴が、悲しげな、訴えが。
兄は、それは聞きたくなかったのかもしれない。
もしくは、聞いて、正気に戻りたくなかったのか。研究中、もし聞いてしまったら。
己の所業に恐れを抱くかもしれないから? 今となっては、憶測の域だ。推考しても詮無いことだ。
「どれになさいますかぁあ? お、お値段はー変わりますがぁ」
「……。いや、」
さて。片眼鏡は証拠を記録しただろう。もう充分と思う。もともと買いに来たのではないし、依頼された調査だ。証拠は音声と映像だけでこの『擬人化動物』たちを押収する必要もない。
……どう、言い包め、回避するべきか。
人間嫌いで、会話らしい会話など兄とだって少なかった私は弱った。適当に気が変わったと言うか? けれどそれで納得するか? 危ぶまれたりしないか?
この店主は、見た目も喋り方もおかしいが実際には隙が一つも無い。細く潰されたように覗く双眸は、鋭く光っている。
もしかして、このおかしな所作も容姿も擬態じゃないのか。実態は手練れなのではないか。
一度疑うと、行動は鈍る。下手なことは、言えないだろう。
私は不意に目線を落とし、横に流した。丁度。
その先には兎少女がぼんやり床を眺める姿が在った。と、私が見ているのに気が付いたのか、下に向けていた顔を上げた。
目が合った。
途端に少女は泣きそうに瞳を揺らした。
涙が、今にも零れそうに。悲しそうに歪む。悲愴な顔。頬が色を変え腫れている。先の店主に抗っていたときに殴られたのか。まだ真新しい付き具合だった。
私はその少女から目が離せなくなっていた。店主が、その光景に何を思ったのか。打算したのか。
「あぁあー。これは良い品ですよぉう。何せずーっと王氏の手元にいましたからね。純正培養も、良いところー。でも、これ、調教済みですよぉ。仕込まなくて良いー。楽ですぅ」
私は腸を煮やし兼ねたが、目前で再度項垂れる少女の様子が抑止力のようにその行動を抑えさせてくれた。ゆらゆら、波立つ水面のみたいに眼が光を返す。
私は何を思ったのか、おもむろに片眼鏡の縁をいじった。録画をストップさせる。全部の機能も停止させる。これで、記録する物は何も無い。
私は何を思ったのか。恐らく何も考えていないだろう。唯一思っていたのは。
「──────この子を買おう」
この兎の少女を、手元に置こうと。唯一。
私の、俺の口は、感覚のまま、俺の意識を置いて、そう店主に告げた。
:
:
:
後日、データ編集をせずに送った記録映像が証拠となり『科学総会』直々にペットショップの摘発が行われた。面白いことに、兄の作品は一人、いや、一匹も残っていなかったらしい。
科学者としても技術者としても名の通った『王鳥兎』。その作品たち。
現在、どこで何しているのか。どんな人間に買われ、どんな生活を送っているのか。
今となっては誰も知れない。一応『科学総会』が足取りを追っているが、追跡し、見付かったところで処分するのかどうか。今回の摘発が、メディアにバレて騒がれたことで現状ではわからなくなった。
動物愛護は適用されるのか。そこも今後、議論の焦点になりつつ有る。
俺は──────私は、と言うと。
「いづき」
兎とは共に暮らしている。研究所に越し、出来る限りそばにいる方針で。
“いづき”。『異月』から、来ている。“現実の月とは異なる”を転じて“非現実”と言う意味だった。私の造語だ。
兎と、当人……と言うのかわからないが、とにかく兎自体に言う訳にも気持ち的に行かず、名を付けた。以前、兄に何と呼ばれていたのか判然としないが、私が付けた名でも反応はするので大丈夫だろう。
振り返り、私を顧みる。さすが兎と言うか、いづきは表情が乏しい。その分、目が補うようにくるくる動くが。
「いづき、おいで」
言っていることを何割で理解しているのかはわからない。結局、スキャンも未だしていなかった。
なぜか、する気が失せたから。
そうでも、いづきはこちらに呼ばれるままやって来て、抱こうとすれば抗いもせず暴れもしないで腕の中にすっぽり収まる。
兎は何も言わない。あのとき、どうして私について来たのか。どうして、私に身を預けたのか。私を受け入れたのか。
前の主である兄と兄弟だからなのか。兎の鼻が、主と同じ匂いを嗅ぎ取ったのか。
定かじゃないけれど。
兎といづきと、今を過ごしている。
いづきと過ごす中で、兄はどう考えていたのだろうかを思い馳せながら。
“玉兎、ご覧。可愛いねぇ”
比較的に、穏やかな日常を。
【 了 】
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