第6話 東京には映画館が多すぎませんか?
「またね、
「ウン、またね、
放課後に教室を抜け出してぺたぺたと廊下を歩く。
私のクラスは二階の一番隅っこにある。
一年生の他のクラスは一階にあるのにこの六組だけは何故か二階にあって二年生たちと同じ階だ。クラスの数と校舎の広さの問題で仕方ないらしいけど六組だけ孤立している感じは否めない。とはいえ、二年生のクラスに行きやすいので私は助かっている。
廊下の窓の隙間からじわりと夏の気配を孕んだ風が入ってきた。来週には梅雨も終わりジィジィと蝉が鳴き始めそうだ。東京での初めての夏は楽しみでもあり、ちょっと怖くもあった。東京の夏はめちゃくちゃ嫌な暑さという噂は聞いていたから。でもやっぱり楽しみだった。
そんなことを考えながら二年三組のクラスを覗く。
いつもの通り窓枠に腰かけて友人たちと話している彼の姿があった。ドアを少し開けて小さく手を振ると彼はすぐに気がついてくれた。
「朱莉さんだ」
「ごめんなさい、
「もちろん」
先輩のクラスに行くのはやっぱり緊張するけれどこのクラスだけはこわくない。むしろ彼と話せるならちょっとした緊張は気にならない。そのくらい彼のふわふわと跳ねる茶髪だとか、彼の頬に散らばるそばかすだとかに私はすっかり心を許しているらしい。多分
「ごめんなさいね、お話し中だったのに」
「いいよ。彼女のが大事でしょ?」
「彼女? ……フフ、そうね」
私たちは『付き合っている』という嘘の共犯だ。この関係にもすっかり慣れた。優弥さんの言う通り悪いことのない嘘。彼と目を合わせてクスクス笑うのは単純に楽しい。
「それでどうしたの、朱莉さん」
「アノネ、……土曜日はお暇かしら? 観たい映画があるの」
「……土曜?」
「ウン、実は絶海さんからCOREDO日本橋で使えるムビチケってやつを二枚もらったの。絶海さんは一階の雑貨屋さんのマスターからもらったらしいんだけど、絶海さんは猫が死ぬ映画は観たくないんだって……」
「ア、今話題のやつか。俺も泣く気がするなあ。あの女の子の友達は誘ったの?」
「芽ちゃんはおうちが少し遠いのよ。土曜に日本橋まで出てきてもらうのは申し訳ないわ」
「そう。……そっか。だったらご近所さんの俺がご同伴願おうかな?」
「フフ。ありがとう、付き合ってくれて」
「もちろんいつでも付き合うよ。俺はあなたともっとたくさん話したいからね」
「あら、嬉しい」
私たちの『交際』は意外とそんな感じでうまくいっている。なんだかんだでもう一ヶ月だ。
土曜日に優弥さんと映画を観に行くことを絶海さんに告げると、彼は驚いたように目を丸くした。
「間宮くんと行くのか?」
「うん、いけなかった?」
「いけなくはないが、……そりゃデートじゃないか。おめかししないとだな」
「デート? 違うわよ?」
私が首をかしげると絶海さんも首をかしげた。
「好きな人とでかけることをデートって言うんでしょう?」
「朱莉は彼のことが好きなんじゃないのか?」
「そりゃ好きよ。絶海さんが紹介してくれたお友達なんだもの」
「……そりゃそうだが、……年頃の男女間に友情がありえるか?」
「私と絶海さんだってお友達みたいなものじゃない」
「私ときみは家族だ。きみさえよければこのまま永遠に私の娘でいてほしい」
「変なこと言わないで。高校の間だけでしょ?」
私が笑うと絶海さんは真顔を返してきた。私が首をかしげても、笑っても、彼はちっとも笑わない。
「まさか……本気なの?」
「こんなことを冗談では言わない」
「……実は母さんのこと好きなの?」
「ありえない。来世でも無理だな、あんな女」
「えっ」
「それでもきみがここにいてくれるなら、私はなんだってする」
彼は手を伸ばして私の頭をワシャワシャと撫でる。その目が悲しそうだったから「私がいなくなったら寂しいの?」と聞くと「ウン、だから今はもう寂しくないよ」と彼は笑った。それは聞いているこちらが寂しくなる言い方だった。この人はきっと一人では生きていけないんだろう。「だったらお嫁さんをもらったらいいのに」と言うと「いらないよ」と彼は笑った。
「お世話好きのお嫁さんをもらったら、ずーっと寂しくないんじゃない?」
「たしかに私の世話をしたがる人は多いけどね、信用できるのはヒロぐらいだ。信用できない人間をそばに置いたらもっと寂しくなる」
「それならヒロさんが女の人だったらよかった?」
「あいつが女だったら私はここまで生きていない。……時間があるなら私の話を聞いてくれるか?」
「ええ、もちろん。どんなお話してくれるの?」
彼は眉を下げて微笑んだあと「私の宝の話だ」と話し始めた。
■
五言時は昔からヤクザをやっている家だ。
世襲制というわけでもなかったのだが本家に近しい人間が頭を継ぐことが多くてね……だから私は生まれたときからいずれ頭になることが求められていた。私もそれが嫌ではなかった。むしろ誇らしかった。五言時の看板を背負えることが嬉しくて仕方なかった。
……ウン、確かに怖い家だったよ。
でも私は……この家しか知らなかったからかもしれないが、私はこの家が大好きでこの家のために生きたかったんだ。なにがあろうとこの家の看板は俺が守ってみせるとさえ思っていた。ただ私の父……先代の組長は子どもを遅くに作ったんだ。私は長男なんだが私が産まれたときには彼はもう還暦を越えていて……父は私の後に弟も作ったが、そのときは七十を越えていた……とにかくそのせいで父が死んだとき私はまだ二十八だった。だから組長には早いと言われたんだ。
……政治と一緒さ。経験が長いやつが上に立ちやすい……子どもなんかに従いたくないという意地もある。……マア、実力で言えば私以外あり得なかったんだがな。なかなかうまくいかなくて……喧嘩が起きてしまった。今考えるとあの時、私は頭になるべきではなかったんだろう……すぐに辞退をするべきだった。しかるべき時を待てばよかった……でも私は二十八で若かったし、この組は私のものだと思っていた。
……その内に忠誠を誓ってくれていたはずの家族が敵に回った。彼らは私の弟を代表に立てた。……アァ、きみのお父さんのことだよ。……私と弟はよく似ているよ。暴力以外知らないんだ。……フフ、ありがとう、朱莉。そうだね、今の私は人に優しくする方法がわかる……私にそれを教えてくれたのは父ではないさ。
……少し話を進めよう。
弟は私のことが嫌いなんだ。生まれたときからそうだったし今もそうだろう。だから彼は最後まで退いてはくれなかった。跡目を決めるだけで『あれやこれや』と、……『なんやかんや』あった……『あれやこれや』と『なんやかんや』だよ。これ以上詳しく説明する気はない。
……とにかくその大喧嘩のおしまいに私のもとには十九人しか残らなかった。
残ったのは私の高校の友人たちだった。みんな馬鹿なんだ。ヤクザになんかならなくてよかったのに、私がヤクザになるからって付き合ってくれた奴らで、……そうして最後まで私についてきてくれたんだ。だから血に裏切られたあの喧嘩も最後は勝てたんだ。だから残った連中が私の宝だ。彼らだけが背中を預けられる男たちだよ。
……ウン? ああ、東京にも何人かいるが今は世界中に散らばっている。いつか朱莉にちゃんと紹介したい。みんな小さいときのきみが大好きだったから、今のきみも大好きになるよ。
……そう、みんなできみを育てたんだ。……きみのお母さんは乳すらまともに飲めないきみを置いていったからな……マア、それはいずれお母さんから聞くといい。生まれたばかりのきみは、小さくて、弱くて、……目一杯優しくしないと死んでしまう命だった。……だから私たちは人を大事にする方法を全部きみから教わったんだ。
……五言時組はもうどこにもない。それでも私の自慢は彼らだ。彼らだけが私の宝なんだ。こんなことを言う男は気持ち悪いか? ……フ、そうか。ならよかった。
ヒロ? ……ヒロは高校の知り合いじゃない。あいつは若頭になった後の私についてくれたんだ。私に前科がないのは全部ヒロのお陰だ。……ヒロが優しい? どうかな、あいつは優しいというより、……マア……頭も切れるし腕も立つ男だよ。あいつに寝首をかかれていたら私はとうに死んでいる。あいつが女だったら、私はほかのやつに殺されていただろう。
は? ……ヒロが魔王の右腕みたい? ということは私が魔王か? ……フハッ、それはいいな。ウン、私は悪の大魔王だ。そうして魔王の宝は馬鹿な悪魔たちと可愛い姪っ子だけだよ。……だからなんで気持ち悪がるんだ、そこで……。
……映画みたい?
いや、私の人生なんかより映画の方が面白いさ。だから土曜は楽しんでおいで。
「ネエ、絶海さん、……でも、なんで今そんな話したの?」
「帰りが遅くなれば私と私の宝が地の果てまで迎えに行くからそのつもりでいなさい」
「……アッハイ」
□
土曜日はすっきりと梅雨が明けて久しぶりに雲ひとつない青い空が見えている。迎えにきてくれた優弥さんと人形町を歩いていると遠くに蝉の声が聞こえた。街は雨上がりの匂いがした。もうすぐ夏が来る。
そして夏には初めての校外学習があった。
「来週、校外学習なの。どんな雰囲気だったか覚えてる? 他のクラスの人たちと班になって公園にいくやつ。優弥さん……私、誰かと仲良くできると思う?」
「スーパー内部がいれば仲良くなれると思うよ。あいつらコミュ力カンストしているから」
「スーパー内部? なあにそれ?」
「あれ? そんな話してない? 小学校から筑波の生徒のことだよ」
「私、高校から入った人としかほとんど話せてないの……」
「……そっか。ウン、校外学習でたくさん友達つくれるといいね。クラスにこもってたら……朱莉さん高嶺の花だし、なかなか話しかけられないでしょ?」
「あら、お上手ね」
「冗談じゃないんだけど、これは……」
優弥さんは不意に思い出したように「そういや、俺の親の店。家はここの上」と刃もの屋さんを指差した。
「……私、刃物禁止なの」
「なんで?」
絶海さんの右手を思い出しながら「過去の過ち」と言うと優弥さんは「そりゃ悔い改めないとね」と笑った。
「この上におうちがあるの?」
「うん。土地だけが高いんだよな……マア、絶海さんと喧嘩でもしたら来て?」
「アハハ、ありがとう。でも喧嘩なんてしないわよ」
そんな話をしていたら後ろから「すいませーん」とカメラを持っている人たちに声をかけられた。なんだろうと首をかしげるとその人たちは私たちに名刺を渡してきた。
「私たち、ストリートファッションのウェブ雑誌を作っているものなんですけど……」
「お二人とても素敵なカップルさんで、もしよかったら撮影させてもらえないかなって。お礼は二万円なんですけど!」
私が優弥さんを見ると、優弥さんも私を見ていた。
「映画の時間まで時間あるものね」
「そうだね。一枚ならいいですよ」
私たちは『カップルらしい写真を撮りたい』という彼らの要望に合わせ、指切りみたいに小指で手を繋いで、目を合わせて笑っている写真を一枚撮ってもらった。二人でその写真を確認して「変な顔してなくてよかったわ」「変なところにばらまかないでくださいね」と彼らに約束してもらって、お金をもらって彼らと別れた。
「東京ってすごいのね。写真なんて初めて撮ってもらったわ」
「俺は東京にずっと住んでるけど、あんなのに声かけられたことないよ……というかノリで撮ってもらっちゃったけど、よかったの? なんとなく絶海さんが怒りそうだけど……」
「バレなきゃ怒られないわ。それに二万円あったら、もしものとき佐渡に帰れるもの」
「ヘエ。帰れると思ってんだ? 豪胆だなあ……」
「帰れるわよ。私は新幹線も一人で乗れるんだからね」
「そういうことじゃないんだけど、……マアいいか」
ポップコーンを買って並んで映画を観た結果、泣き腫らして出てくることになった。映画館の外でお互いの顔を指差して「あらまあ、美人も泣いたらブスだな」「本当ね、優弥さんもブスよ」と言い合ってケラケラ笑った。そのあと優弥さんは私を家まで送ってくれた。絶海さんは私たちを出迎えると「あがっていきなさい」と私たちにコーヒーとカフェラテを作ってくれた。
絶海さんのコーヒーを飲みながら優弥さんは満足そうにため息をついた。
「朱莉さんと映画観て、写真撮って、絶海さんのコーヒーが飲めるなんて贅沢な一日だ」
「ウン? 写真? なんのことだ?」
「「ア」」
私のジャケットのポケットから出てきた名刺からすぐに全部バレて、一時間近く説教されることになった。とても怖かったのだけど、優弥さんが帰り際に「ごめんね、バレちゃった」と笑って、私もその笑顔を見たらつられて笑ってしまった。
「いい人ね、優弥さんは」
「なにそれ。恥ずかしいこと言わないでよ」
「照れてる?」
「照れてないってば。先輩をからかわないの」
「彼氏でしょ?」
私が首をかしげると優弥さんは耳まで赤くして「そうだけどさ」と笑った。
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