林の中でだるまさんが隠れんぼ

 突然の問いに、僕は戸惑いを隠し切れなかった。なぜなら桐子の言う通りだからだ。当時の僕はその子に淡い恋心を抱いていた。桐子は鋭い人だと改めて実感した。

 どう答えようか迷ったけど、正直に話すことにした。もう過ぎたことだし、別に隠す必要もない。

「そうだよ。桜川みどりっていう名前で、僕の初恋の相手だった」

「やっぱりそうだったんだ……」

 桐子は僕から目を逸らし、ちょっと俯いた。

「別に付き合いが長かったわけじゃなくてさ。小学一年のとき、同じクラスだっただけなんだ」

 僕は遠い目で前を見ながら、一人で話しつづけた。

「あの日は学校帰りに二人で公園に行ったんだ。みどりは、今日お父さんが帰って来たらお花をプレゼントするって言って、公園の隅に咲いていた花を摘んだ」

 それは特別に綺麗なわけでもない、一輪のタンポポの花だった。

「そのあとはまっすぐ家に帰ってたんだけど、ちょうど今みたいに二人で並んで歩いてるときだった。みどりが轢かれちゃったのは」

 今でもはっきりと思い出せる。静かな住宅街で隣を歩いていたみどりが、後ろから車に吹っ飛ばされる瞬間を。鮮やかな夕焼けの空と、真っ赤な血溜まりと、動かなくなった彼女の死体。握り締められたままのタンポポの花。

 そして、その日以来、おおよそ一定の間隔で禁断症状が起こるようになった。

 独特の頭痛がしてどうしようかと思っていた矢先に、たまたま爺ちゃんが死んだ。家族と一緒に最期を看取った瞬間、言葉では言い表せないような快楽に襲われ、頭痛はなくなった。

 それから同じようなことが何度か起こった。頭痛の他に、心拍数が増えたり眠気がなくなったりしたこともあった。爺ちゃん婆ちゃんが死ぬときには必ず立ち会うようにした。家族はそれを優しいからだと思ったようだ。禁断症状が起こり始めたあとに都合よくすぐ死んだというのは最初だけだったので、結構長く症状が続いたこともあった。でも、死んでほしいけど死んでほしくないという複雑な気持ちでなんとか耐えた。死を見届けたあとは悲しんでいるふりをした。悲しまないと怒られると思っていた。

 家族に禁断症状のことを話さなかったのは単純に知られたくないというのが大きいが、実はもう一つの理由がある。それは、もし病院で診てもらって症状が治ってしまったら、あの快感を二度と味わえなくなるかもしれないから――。

 と、まあここまではさすがに桐子には話さないことにした。これは言葉に出さなくてもいいことだ。

 彼女の方は気まずそうな顔をしていた。

「ごめん、嫌なこと思い出させちゃって……」

「いいよ、この先に墓地があるだろ? みどりはそこで眠っているんだ」

 そう言ったところで、前方の左手側にだだっ広い墓地が見えてきた。

 道路を挟んで右手側には木々が生い茂っている。木の裏側にはフェンスもあって、その向こう側は電車の線路になっている。

 夜は不気味なのでここを通らずに別の大通りを歩く人もいるけど、桐子のアパートからだとこの道が最短ルートだ。

「で、ここはどうかな?」

 桐子は僕に気を遣わせないように、いつも通りの口調で言った。どうかなというのは、もちろん殺害場所としてどうかという意味だ。

「悪くはないけど、ただの一本道だから待ち伏せには向かないかな。やっぱりこの先の林が本命だと思う」

「なるほどね」

 そのまま道路をまっすぐ歩くと、林の入り口に着いた。林といっても一応アスファルトの道は続いている。幅一メートルくらいだけど。

 林の手前には左に折れる道もあるので、まっすぐ林に進むか左折するかの二択となる。

「こっち行ったことないんだけど、何があるの?」

 桐子が左側の道を指差して言った。林と墓地に挟まれていて、街灯が微かに暗闇を照らしているけど奥の方はよく見えない。

「この先は袋小路で、墓地の入り口しかないよ」

「入り口って別の場所じゃなかったっけ?」

「二箇所あって、こっちはまあ裏口みたいなもんだね」

「ふうん。じゃあ、こっちに来ることはないか」

 桐子は袋小路への興味をなくし、林の方の道へ入っていった。僕もそれに続く。少し歩いたところで立ち止まり、周囲を観察してみた。

 林の道にも街灯が数メートル置きに設置されているが、やっぱり薄暗い。アスファルトの周りは草木で覆われている。僕たちの他に通行人は見当たらず、聞こえるのは風が枝葉を揺らす音だけだ。

「よく知ってる道だけど、改めて見るとやっぱり暗殺に向いているね」

 桐子が辺りを見回しながら言った。静かな闇の中に立っていると、彼女の声がいつもより際立って聞こえる。

「暗殺ではないと思うよ」

「あっそう。それで、私は草むらに隠れて待ち伏せすればいいのかな?」

「そうだな……」

 黒月になったつもりで、ここを歩いている場面を想像してみた。こんな暗い道の草むらに隠れられたら、普通は気付かないと思う。背後から近づけば包丁で刺せるかもしれない。

 が、念には念を入れたいので、僕は桐子に提案した。

「せっかく来たんだし、実験してみようか」

「実験?」

「うん。まず桐子が先に草むらに隠れる。で、そのあと僕がこの道をまっすぐに歩くから、僕に気付かれないように後ろからタッチしてみて」

「わかった。かくれんぼ……いや、『だるまさんが転んだ』みたい」

「足して二で割った感じかな。じゃあ僕はあっち向いてるから、準備ができたら呼んで」

「ふふっ、なんか面白そう」

 僕は林の入り口の方を向いた。桐子の乾いた足音が背後から聞こえ、徐々に離れていった。後ろを向いてはいけない状況になると、却って振り向きたくなるのは僕だけだろうか。でも、そのまま数十秒間我慢した。

「もーいーよー」

 遠くから桐子の声が聞こえた。かくれんぼでお決まりのフレーズだ。僕はようやく振り返り、アスファルトの狭い道を歩き出した。

 夜に林の中を歩くのはちょっとドキドキする。おまけにいつ背後から触られるのか分からないのだ。でも、明らかに物音がしない限り後ろを振り向かないことにした。そうしないと実験の意味がないから。

 一本目の街灯を通り過ぎる。

 だんだん怖くなってきた。

 二度と出られない穴の中へ落ちていくような感じがする。

 Tシャツの中が汗ばむ。

 心臓が熱い。

 木々の間の暗闇から無数の亡霊がこちらを見ているようだ。その中に、血塗れのみどりもいるような気さえする。

 怖い。

 桐子、早く来てくれ。

 二本目の街灯を通り過ぎたときだった。

 突然背後から細い何かが伸びてきて、僕の体に絡みついた。

「うわあっ!」

 驚きのあまり、大声を上げてしまった。何者かに捕まえられている。

「だーれだ?」

 いきなり耳元で声が聞こえ、鼓動が跳ね上がる。が、それは僕のよく知っている声だ。

「桐子……?」

「正解」

 桐子が後ろから両腕で僕のことを捕まえていた。というより、抱きついていた。僕の頭のすぐ横に彼女の顔があるので、前を向いたまま文句を言ってやった。

「タッチするだけで良かったのに」

「せっかくだからビックリさせようと思って。それで、実験はどうだった?」

「……成功だよ。全然気付かなかった」

「良かった。本番も上手くいきそうだね」

 桐子はまだ僕に抱きついたまま言った。女の子に抱きつかれたのは初めてだけど、桐子の体は柔らかくて温かいと思った。さっきまで怖い思いをしていたから妙に安心してしまった。

「本番でもこうするの?」

「するわけないじゃん。本番は刺すだけだよ」

「分かったから、そろそろ離れてくれないかな」

「ああ、ごめんごめん」

 桐子はやっと僕を解放してくれた。後ろを振り向くと、いつもの薄い笑みを浮かべていた。僕は気恥ずかしくなり、思わず目を逸らす。彼女に悟られる前に口を開いた。

「どこに隠れてたか教えてよ」

「あのへんだよ」

 桐子は僕をそのポイントへ案内した。どうやら草むらの裏側から街灯の周りを監視していたようだ。明かりがあるから誰が通りかかっても気付くことができるし、逆に通行人の方は草むらの裏にいる存在には気付かない。僕が街灯の前を通り過ぎたあと、草むらを避けながら音もなく背後まで接近したというわけだ。

「この位置で問題なさそうだ」

「私なかなかやるでしょ」

「上出来だよ。これで目的は達成できたね」

「……うん」

 短い返事だけど、いつもより少しだけ親しみが込められているような気がした。

 来た道を戻って林から出た。そのまままっすぐ歩き、往きと同じように墓地の横の道路を歩く。桐子は林の中で僕を驚かせたときのことを楽しそうに語っている。彼女とも大分打ち解けてきたなとしみじみ思った。

 でもちょっとムカつくので話題を変えることにした。

「本番のときはあそこでずっと待ち伏せしなきゃいけないけど、平気?」

「大丈夫。私は何年もこのときを待っていたんだから、数時間くらいどうってことないよ」

 桐子は変わらずに口元をほころばせている。が、微笑みの色が変化したように見えた。穏やかな緑色から、鮮やかな赤へ。

 何が彼女の殺意を駆り立てているのだろう。

 僕は改めて疑問に思い、訊いてみることにした。今の僕たちなら、ちゃんと話してくれるかもしれない。

「桐子、ずっと気になってたんだけど……」

「何?」

「父親を殺す理由は、色んな女性と子供を作りまくってるからって……。それだけじゃないんだよね? ちゃんとした、正当な理由があるんだよね?」

 すると、隣を歩いていた桐子がいきなり立ち止まった。僕も足を止め、桐子のことを見た。

「正当な理由は、ないよ」

 どこか無機質な声でそう言った。

「そんな……」

「正当じゃない理由ならあるけど」

「……正当じゃない理由?」

「呪いと呼ぶには大げさだけど、トラウマというには重い。そんな理由」

 街灯の光が彼女の顔を微かに照らす。しかし、そこに表情と呼べるものはない。浮かんでいるのは彼女の胸中を表したような黒い影だけだ。

「それは、何?」

「人間作り……」

「えっ?」

 人間作り? 僕が聞いたことのない言葉だ。どういう意味なのだろう。

「気にしないで」

 今度は不敵に笑った。

「あなたが考えなきゃいけないのは、、その二択だけ。それ以外のことは気にしなくていい」

 何も言うことができなかった。

 突然の僕の頭上から下りてきて出会った、父親を殺したい不思議な女の子。この一週間を共に過ごし、付き合っているふりまで始めたものだから、少しは心を許し合えているのだと思っていた。

 でもそれは大きな勘違いだった。僕には何も打ち明けないし、心など許していない。僕も桐子のことを何も理解していないし、理解させてもらえない。僕と彼女は、薄いけど破ることのできない幕で隔てられているのだ。今、そのことをよく思い知った。

「分かったよ」

 何かを諦めたかのように短く答える。桐子が小さく頷き、僕たちは再び歩き出した。夏らしくない冷たい風が、隣に並ぶ彼女の髪をふわりと梳かした。

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