常闇の姫に温もりを

九里 睦

短編:本文

「ごめんなさいね。まだいいお相手は見つからないの」


 宥めるような、お母様の声が聞こえる。

 私はそんなことを怒ってなどいませんのに。


「謝らないでくださいお母様。私は充分よくして頂いています。文句など言えば罰が当たってしまうほどです」

 お母様の喉がぐぅと鳴る。

「あなたを愛してるのだからこれくらいは当たり前よ」

「ふふっ、当たり前ですか」


 お母様の言う「当たり前」とは、自然の音が聞こえる所に住みたいという私の声に応え、今居る塔を建てたこと。木々の中から頭いくつ分ほど、抜き出た高さをしているそうです。

 石造りだというこの塔を建てるには、相当な労力と財力が使われたことでしょう。

 そんな、普通ではないことをやってのける私の家は、御三家と呼ばれる公爵家の一つ、アルベキアン家です。


「目が見えない分、耳で世界を『見る』あなたに、自然の音が聴きたいなんて頼まれたから……」


 そう、私は目が見えない。十二歳の頃完全に視力を失った。そして今は十六歳。光のないこの生活にも慣れっ子。

 白杖を使うことで、一人で歩くこともできるようになりました。階段の登り降りは、なかなか一人でさせてくれませんけれど。段差の高さや数を覚えて、一人でも怖くないようになりましたのにね。


「とにかく、お父さんがあちこちと婿探しに出てくれているから、もう少しで見つかると思うわ」


 楽しみにしているのが伝わって来るような、抑揚に富んだ声でお母様は、そう言い、またねと去って行った。


 あぁ、ここでの生活も、あと少しで終わってしまうのですね……。

 木々を撫でる風の音、ちゅんちゅんと語らう鳥たち、軽やかに落ち葉が鳴る音。そして、遊びに来てくれる人。

 この全てとも、そろそろお別れとなります。私の元々の家は、こんな森の中になど無く、自然の音なんて聞こえなくなりますから。


 慈しむように、風が吹く方へと顔を向ける。


 その時、不意に岩壁を靴で鳴らしたようなカコッという人工的な音が。その音は、初めてこの音を聞いた時は驚いたものの、今ではもう聞きなれた音となっている靴音でした。

 つい、表情が変わってしまいます。


「こんにちわ」

 そう言って、音の方へと手を伸ばす。

「やぁ、こんにちわ」

 凛々しい声が聞こえた後、そっと手が握られる。身体に染み入ってくる温度を持った、温かい手。


 手を握られた後、男性が塔の中に踏み入る、軽やかな靴音が響く。


「今日も来てくださったんですね」

「ここは静かで落ち着くいい場所だからな。また来たくなるんだよ」


 この人は、約束をしたわけでもないのに、週に一度は必ずここに来てくれます。


 私のお気に入りの場所であり、お母様たちの優しさの結晶であるここを褒められた私は目を閉じたまま、自分で笑顔と思える顔をみせて「ありがとうございます」と伝えます。


「どう致しまして。そういえば今更だがお嬢さんは、僕がここに来るといつもいるな」

「はい、ここに住んでますから」

「ここに住んでいるんだ……。寂しくないのか?」

 男性の声が少しだけ沈む。

「はい、貴方やお母様方も来てくれますし、何よりここは自然の音で溢れていますから。寂しいことなんてありませんよ」


 きゅっと、握られた手のひらに、枯葉数枚分の力が加わりました。


「そっか、寂しくないか」


 それはどういう感情を含んだ声なのでしょうか。きっと私がまだ感じたことのない、色んな思いの混ざり合った複雑な感情なのでしょうね。

 彼が抱えている悩みが声に現れたのかもしれません。しかし、いけません。そういう時こそ、明るくならなくては! 私が暗闇に閉じ込められた時のように、時に明るさは周りを安心させることができます。


「はい。ひとりぼっちではありませんからね」

 にこりと笑いかけて男性の息遣いがする方を向く。

「いい笑顔だ。なるほどな」


 恐らくは、彼の表情が僅かに綻んだのが感じて取れました。私も内心、ほっとしました。


「ありがとうございます」

「こちらこそ、礼を言うよ。君の表情を見て、決心が付いた」

「ふふっ、お上手ですね」

「いや本当だよ。では、お礼に仕入れてきた話を聞かせてあげるよ」

「待っていました! 今日はどんな話をしてくださるんですか?」


 この人は、ここに来ては一つ、何かの話をしてくれる。それが、最近の楽しみの一つにもなっています。


「そうだな。今日は街の問題児の話をしようか」

「街の問題児、ですか?」

「あぁ。これは街にいる、ロードウィング家っていう伯爵家の長男の話だ。

 彼の家は、男一人、女二人の子どもがいる。最初は男しか生まれなかったんだけど、その家の母親が頑張って。それでも、できた子どもは女二人。結局、年が離れた長男が家を継ぐことになった」


 彼は、今さっき聞いてきた話のように、私に聞かせてくれる。


「それで、その長男の問題、とはどんなものなんですか?」

「その問題、と言うのはな、あまり知られていないんだ。家の沽券に関わる問題だからな。あまり周りに知られたくないんだと思うよ」

 残忍そうに、唸りながら彼はそう言った。

「確かに、問題があるなんて知られたくないですよね」


 うんうんと、首を振る。


「だけどね。その人にはこんな逸話もあるんだ。

 ある村の農民が、山に巻を取りに行った時、背後でゴソゴソっと何かが動く音がしたらしい。ウサギかなっと思って覗いて見ると、そこには黒い毛皮に身を包んだ獰猛な熊の後ろ姿が……」


 ゴクリ、と彼は息を呑む。


「熊がいて……?」

「バッと熊が振り向いて、驚いた農民は腰を抜かしてしまう」

「そ、それで?」

「もう終わりだ、と思った農民は目を閉じて頭を抱えたけど、なかなか熊が襲って来ない。おかしいなと思って目を開けると、目の前には毛皮を被った人間、それも、問題児と呼ばれるウィルナがいたそうだよ……。ちなみに彼は熊くらいなら蹴りで狩れるらしい」


 そのウィルナって人はなんなんでしょう。規格外な強さを持ちながら、人を脅かすのが好きな子どもみたいです。なんにしても、幼稚な人。


「その人、幾つですか?」

「十八だそうだよ」

「もう立派な大人なのにそんなことして、恥ずかしくないんですかね」

「ハハッ、最もだけど、やってる本人は楽しいんだと思うよ」

「ちゃんと生きればいいのに、もったいない」


 私がポツリとそう言うと、返事が返ってくるまでに、少し時間が空いた。


「待って待って、この話にはまだ続きがある」

「どんな続きですか?」

「その農民の息子が、山菜採りから帰ってきて言ったそうだよ『今日はすごく大きな熊に襲われそうになったところを誰かに助けられた!』ってね」

「その、ウィルナ様が助けたってことでしょうか?」

「そうなるね。お調子者だけど、きっといい人なんだよ」

「なんだか変な人ですね……」


 お調子者だけど、いい人、不思議です。それに伯爵家の方がなぜそんな山奥まで一人で行くのでしょうか。

 やっぱり、変な人だと思います……。


「うーん……笑顔にさせたかったんだが……話しを間違えたな。これは大失敗だ。だけど、もう行かないとなぁ。じゃあ」

「もう行くんですか?」

「あぁ、少しすることができたんだ」


 そう言って彼はずっと握ってくれていた手を、ゆっくりと離していく。次第に温もりが離れていく感覚は、何度味わっても慣れない。胸が締め付けられる。


「また、来てくれますか?」

「約束はできないな」


 最初に会った日から、彼はいつもこう言って去っていきます。いつものことです。

 だから、また来てくれる。そう信じて私は「また今度」と、声を掛けました。


「あぁ、また今度な」


 いつものように明瞭な発音ではなく、その時は私の方を向いていなかったんでしょう。声が遠い感じがしました。



 翌週、彼は来なかった。



  代わりにやって来たのはお父様。

 私の婚約相手が決まったらしい。

 それは、ロードウィング家の長男。

 問題児と呼ばれる人物。


 あの人の話でしか知らないけれど、人を助けて熊をも蹴り倒すような、豪傑な方。少し幼稚なところもあるようですが、そこを父に見込まれたのかもしれません。


 私は、引き受けました。


 ……不安です。


 本当は、不安でした。ですが、私は今いる塔をはじめとして、今まで散々良くしてくれた両親には、もう我儘はなど、言えるわけもありません。


「ラウラよ。私がこの国中を探して見つけた青年だ。きっと、お前とも仲良くやっていけるはずだ」


 彼が問題児と巷で言われていることはご存知なのですか……。声に出さず、噛みしめる。そして飲み込む。不安も、隠して、明るく、振る舞わなくてはなりません。


「ありがとうございます。私の為に」

「愛する娘の結婚だ。相手を自分で決めさせてやれない分、私が見極めないとな」


 私は公爵家の令嬢。この国を左右する御三家の一員。

 その爵位を狙って、方々から声がかかる。結婚を決めるのは、親の仕事。政略結婚は当たり前。

 結婚は、他家の血が関わってくる政治的にとても大切なこと。政治的に無知な子どもが自分の意思で結婚相手を決めるなんて家紋を貶めるような行為は他のどの家もしません。


 幸せとは、自身の家が繁栄すること。


 世知辛い世の中ですが、その中でも強く生きねばなりません。

 その中で両親は家の財力を削ってまで、幸せを削ってまで、今日まで私が不憫な思いをしないようにしてくれました。

 十六年間の幸せ……それでもう十分……。


 私は覚悟を決めなくてはなりません。


「わかりました。式はいつですか?」

「それが……。急なんだが、三日後なんだ」

「三日後ですか……。わかりました」


 いつも来てくれる彼に、さよならを言いたかったのですが、無理なようです。

 彼の耳なら、私が結婚したのを聞きつけてくれるだろうと思って、それ以上考えないようにする。


「ありがとう。いい娘を持ったよ、私たちは」

「いえ、盲目の娘をここまで良く育てて下さり、ありがとうございました」


 ぐずっ、と鼻をすする音が二つ聞こえた。



 彼の来ない三日は、あっという間に過ぎ去りました。



 私は両親と塔を降りて、どこかの式場へと運ばれた。


 使用人の人たちに、服装を仕立て上げられる。

 コルセットと共に、心臓までキュッと締められたような感覚に襲われる。


 あぁ、本当に結婚式なんですね。


 マリッジブルーというものでしょうか。まだ見ぬ人と結婚するのですから、不安になるのも仕方ないですよね。


 ドレスの着付けが終わると、ようやく新郎新婦が相見える。

 そして、バージンロードを歩く。


 いま、横にはウィルナ様が立っている。

 聞き慣れない足音。

 慣れない靴を履き、コト、コト、という音を立てて共に神父の許へと歩いて行く。

 段差のない式場を父が設定してくれたので、支えが無くとも躓く心配はない。


 ただ、隣の聞き慣れない、熊をも蹴り殺す重厚な足音に、緊張が募った。


 このままいけば、誓いのキス。


 顔はおろか、声すらも聞いたことのない人と、キス。それも、得体もしれない問題児と。


 一歩踏み出すたびに、その、恐怖、不安が重みとして足に乗る。


 時間が引き延ばされる。


 怖い、怖い、怖い……。得体の知れないことが、怖い……。

 歩きたくない。


 一瞬、足を止めそうになった瞬間に脳裏によぎる、お母様とお父様の声。『ありがとう』という声。


 ――そのお父様の声が右脚を。


 ――お母様の涙ぐむ声が左脚を押す。


 あぁ、止まれない。


 遂に、神父の目の前に着いたようで、隣の足音が止まる。

 一歩遅れて、私も止まる。固まる。


「そんなにガチガチになって。靴を変えたのがダメだったかな? それとも――」


 ――この声は!


「そんなに僕と一緒になるのが嫌だったのかい?」


 不安げな、私に温もりを与えてくれた人の声。


 ――ガバッ!!


 それを知って今までの緊張が爆発した。

 身体を抑えられませんでした!


「貴方だったんですね!」

 あぁ、この温もりは本物だ。力一杯抱き締める。

「ごめんな、不安にさせたみたいで。君が婚約相手を探しているのを聞いて、名乗り出たんだ」

「ウィルナ様! ウィルナ様!」

「よかった、喜んでもらえて。僕も嬉しいよ、凄く……」


 初めて知ることができた名前を、何度も呼ぶ。

 よかった。よかった。ずっと、離す度に恋しくなっていた温もりが、いま私の腕の中に。

 ここしばらく私を覆っていた不安の塊が、じんわりと溶かされていく心地良さを感じました。


「ウォッホゥン!!」


 父の咳払いが、会場に響き渡る。


 ウェルナ様は私の手を取り、身体をそっと離す。


「まだ結婚式の途中だよ」

「あ、ごめんなさい……。つい」

「ふふっ、可愛い花嫁さんだ」


「僕はこの、ラウラに永遠の愛を誓う!」

 ウィルナ様がそう会場に向けて叫ぶ。神父の仕事がなくなってしまう。

 でも。

「私も、このウィルナに永遠の愛を誓います!」


「病めるときも健やかなるときも……ええっ!? あぁ、それでは誓いのキスを!」

 取り乱した神父が、何とか自分の仕事をして見つける。



「ラウラ」

「はい、ウィルナ様」


 声のする方に顔を向けて目を閉じる。


 チュ。

 温かくて柔らかい、不思議な感覚が唇から全身へと広がる。それはまるで、身体が空を飛ぶ羽衣に覆われて、浮かんでしまうような感覚でした。


 その時、このまま飛び去ってしまうかもしれない、という不安も一緒に、ウェルナ様の腕が私を包み込んだ。


 そして、

「常闇の姫には温もりを。約束するよ」

 と本当に幸せな約束をしてくれました。



 私に触れる彼の手は、私の心をいつまでもいつまでも、温めてくれた。


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