水中花
光籏 好
第1話 告白の夜景
ダム湖の周りを巡る道路の街灯は、その周辺を明るく照らし出している。
街灯の明かりにならされた眼に、広く暗い夜空の細い三日月がようや
く見えた。
眼前には不気味なほど静かに、群青色の湖面が広がっていた。その湖面の
遠い先に、人造湖の壁面が幽かに白く見える。
わずかな空気の動き…その音さえ聞こえてくる静寂の夜に、足音や羽音を
忍ばせ蠢く、獣や鳥たちの唐突な叫びが時折けたたましく響く。
そんな静寂の中で、外灯の並ぶ道路を異質なエンジン音とともにヘッドラ
イトが通り過ぎようとしていた。
その時、ヘッドライトの視界に、道路を横切ろうとする人影が入った。
急ブレーキの摩擦音が響いた。ライトは止まって人影を照らし出した。照
らし出された人影は、昔ながらの日本手拭いで頭の髪を覆った野良着姿の
老婆であった。
肥料用の麻袋を持って、眼光鋭くフロントガラスのほうを見た。
次の瞬間、素早く獣道のような細い山道に、ガサガサっと入り消えて行った。
ヘッドライトを点けたまま車の中でハンドルを握っていたのは、伏木麻紀だ
った。麻紀は驚きのあまり身体を硬直させ茫然としていた。
驚きの麻紀のそれとは対照的に中年男性の柿崎肇は、車外の出来事など知ら
ぬかのように助手席でシートを倒し目を瞑っていた。
急停車した車は、じっと停車したまま動かなかった。
肇が運転席で動かなくなった麻紀に「どうした…麻紀ちゃん、急ブレーキなんかかけて」と座席を起こした。
顔の近づいた肇の声に我を取り戻した麻紀は「びっくりした!小父様、今の見た。
いったい何なの?あれは」独り言のように言う。
「幽霊でも見たのか、麻紀ちゃん」と助手席を起こし怯えた麻紀の顔を見ながら肇が聞いた。
麻紀は「ぎょろっと目玉が見えただけだけど、似ていたのよ。大倉のお婆様に」そう言った。ハンドルを持つ麻紀の手は小刻みに震えている。
尋常ではない麻紀の様子を見ながら肇は「目の錯覚じゃないのか」と言った。
「でも野良着姿の背格好が似ていた。あれは確かにお婆様、だけど…あの身軽さは」麻紀がそう言うと「それ見ろ、麻紀ちゃんも見ただろう。昼間の、あのお婆さん、もう八十だよ。そんなに俊敏なわけがない、年相応に弱っていた」肇はそう返した。
「わたし…お婆さんをまともに見られなかったから」と麻紀は言って続けた「私が詩織さんに、あの時あんなうそを言わなければ、こんなっ事態にならなかった。そう思うと…」そう続けて唇をかんだ。
肇は「今までの敬一とお母さん、それに俺と美也子の関係を知って俺たち四人を許せない状況の中で、憎い思い続けた敬一。その娘の詩織さんが家に訪ねてきた。今まで黙って耐えていた怒りが噴出して当たり前だと思うよ」と麻紀に同情した。
「詩織さんに言ったことが間違いだった。それが分かったから、こうして謝りに来たんじゃないか」肇は(悪いのは自分だ)との思いを込めて麻紀をかばった。
肇の言葉に促されるように「わたし…詩織さんの顔を見た途端に、それまでの感情が抑えきれなくなって悪意に満ちたことを言ってしまった」麻紀は辛そうにそう振り返った。
肇が麻紀をかばい慰めようとした言葉が、逆効果になってしまった。
「別に詩織さんのせいじゃないのにね。私が、詩織さんの帰る家まで奪ってしまったんだから」麻紀は、さらに自分を責めた。
肇は「麻紀ちゃん、だから…こうして謝りに来たんだよ」と念を押し続けた「お婆さんも、わかってくださった。大丈夫、詩織さんだってわかってくれるさ。そんなに自分を責めるなよ」そう宥めた。
「あんなに待っている…お婆ちゃんと詩織さんを引き裂いた。わたし、わかるんだ。わたし…私にも奥羽に私を育ててくれたお婆ちゃんが居るからね」と麻紀はしんみりと涙ぐんでしまった。
「麻紀ちゃんが悪いんじゃない。麻紀ちゃんを含めて皆を不幸にした張本人は、この俺だ。麻紀ちゃんに罪はないんだよ」肇は麻紀に言い聞かせるように言うと、ハンカチを麻紀に渡した。
「よくここまで一緒に謝りに来てくれた。麻紀ちゃんには本当に感謝している」と肇は心から麻紀に詫びた。
数秒の時が流れた。その数秒が長く過ぎた。麻紀は呼吸を整えながら、暗いダム湖の湖面を眺めた。
そして助手席の肇をチラッと見て、また暗い湖面に目を移した。
麻紀は湖面に語り掛けるように「静かねー、この湖面の底に沈んでいるのね。お婆ちゃんと詩織さんの思い出がいっぱい」もう落ち着いた口調になっていた。
肇は「そうだね」と言って、湖面を眺めている麻紀をうかがった。麻紀が落ち着いて車を出すまで待とうと思い、外灯の中を老婆がガサガサと山に入って行ったあたりを眺めた。
そうして幾秒が経ったろうか、車は何事もなかったように走り去って行った。
老婆は、細い木立や下笹のかぶさった細い獣道を潜り抜け、車の通れる広い林道に出た。
林道を挟んだ向こう側に、大小さまざまな木立に囲まれるように畑が広がっている。さらに畑を二分するように林道から続く細い道があった。
いったん林道に出た老婆は、畑の細い道に入るべく細い道の入り口に向かった。入り口から百五、いや二百メートル離れていようか…小道の向こうに、こじんまりとした平屋の家が見えた。
三日月のわずかな光に照らし出される、ゆるやかな斜面の小道。両脇に作物の黒い影、その黒い影と一体になった老婆の影が平屋の家に向かって動いて行く。
老婆の影はそのまま家に入らず、家の前で横道にそれた。一人がようやく歩ける幅の横道の先には、小高く石垣の積まれた墓所があった。
墓所の石垣を通り過ぎた老婆の影が行き着いたところは、山に面した畑の隅だった。
目的の場所だったのだろう老婆は止まり、そこにあらかじめ掘ってあった穴に、持っていた麻袋から原形をとどめない死骸を振り落とした。
死骸は自動車のタイヤに引かれペッシャンコになったタヌキとイタチの死骸だった。
畑に植えられた作物は、三日月の薄明りの中で得体のしれない物体の見えた。見ようによっては、その物体がいまにも動き出しそうで、少しの風に揺れるだけで不気味でさえある。
死骸を振り落とした老婆の影は麻袋を持って、平屋の横に立て付けた物置に向かった。
物置には鍬や鎌、畑仕事に必要な諸々が収められている。
立て付けた壁板には「ダム建設反対」と書かれた文字の幽かに読み取れる風化した板が、そのまま使われていた。
麻袋を所定の位置に置いた老婆の影は、頭の手ぬぐいを手にとって野良着を払った。そして両手を腰に当てて背筋を伸ばした。
老婆の目線からは、木立に囲まれた林の頭越しに遠くの山並みを見渡すことができた。
重なり合う山々の中には、光の密集した山がいくつか見える。それは、山頂まで造成された団地の姿だった。
遠くから眺めたその団地は、綺麗な別世界に映った。その遠くを眺めていたはずの老婆の影は、いつしか物置から消えていた。
平屋の家の中に明かりがついた。明かりの中には疲れ果てたような老婆、大倉姿子がいた。
その姿子は整理ダンスの上に置いてある詩織の写真を手に取った。手に取った写真に向かって「詩織、もう帰っておいで」とポツリと話しかけた。
続
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