夢敗れ、一つの果報を得る

久賀広一

ーー

まさか、自分が美人と結婚するとは思わなかった。


38歳、無職。

俺は、そこからの人生を、階段を1段とばしで行くように送ったのだった。


……ずっと、俺は、若かりし頃から絵描きになりたかった。

”画家”とは言わない。


イラストレーターでもない。


ただ、オリジナルの絵さえ仕事にしていけるのなら、何だっていいと思ってやって来たのだ。


……だが、それは夢見がちな人生の見本でもあるかのように、大失敗だったようである。

「意味がわからない」

「センスの捉え方を、根本的に間違っている」


俺の絵は、どうやらクズらしかった。

さえない広告の切れはしの、すみにあるモブキャラの仕事さえ、一度ももらえなかった。


人とうまくやっていけないために、会社には属せず、片親だった父が思わぬ死亡保険金を遺してくれたため、ニートのかたわら公募に出し続けた。


「南美町の特産品である、”青トマトちゃん”の絵を求む!」

「海の都市、小崎町を盛り上げる、映えキャラを!!」


どれほど、そんな応募をしてきただろうか。


そうか……そうだよな。

芽の出てる人は、きっとみんなもっと頑張ってる。俺だって、きっといつかは……


そういった思いはとっくに通りすぎていた。


何せ自分はもう40歳目前、ニート歴が20年目に突入しようしていたのだ。

絵だけではなく、人間としてもクズではないか?


周囲の知人にそう思われている割合がどんどん大きくなり、俺の家に遊びに来てくれる友人は、もはや安酒やすざけ目当ての、公園で知り合ったおじいさんくらいだった。


「ーーおっ。あんた、絵を描くのか」

「……はあ」

「これは……今日は見ていないが、よく公園に来てる少女を描いてるんじゃな? とてもイキイキと、輝いとる」

「あのコがいるときに描いてたら、変態ですから」


それ以来、なんとなくそのおじいさんとは家を行き交う仲になってしまったのだ。


……お互いヒマで、よくワンカップ片手に、丘の上にある公園から電車を見下ろしたものである。


”ーーお前さん、働かんのか?”

”そうですね……貯金はずいぶんあるし……

でも、すぐにでも人手を求められている仕事も、たくさんある。夢を目指すっていうのは、いったい何なんでしょうね?”


うらぶれた貨物列車を眺めながらつぶやいた、問いとも言えない問いだった。

そんなものに、答えなど俺は求めていなかったのである。

……けれど、おじいさんは、昔読んだ本にあったな、と話しはじめていた。


「個人が強く願う夢は、けっして個人の思いなんかじゃない。それは、宇宙の願いなんじゃ、と」

「……」


自分でも、よく分からない毎日になっていた。

俺は、果たして本当に、絵描きになりたいのだろうか……?

それとも、型どおりな働き方を求められていることから逃げ出すための、長い現実逃避だったのか……



ーー話は変わるが、『イセカイテンセイ』というものを知っているだろうか?


「……」

いや、よそう。

こんなことを問うこと自体、自分の無知をさらけ出しているようなものだ。


そう。

あまりに耳タコで、うんざりする言葉なために思わずカタカナ表記してしまったが、まさにあの『異世界転生』である。


物語の端緒たんしょとしてはあまりに短慮、逃避感はなはだだしく、作者の現実の虚弱具合に反比例して大チート能力が付加されるという、あれである。(言い過ぎだ。それに名作もある)


……とにかくまあ、その異世界転生である。

まさか、俺がそうなるとは思わなかったが、明日ハローワークにでも遊びに行ってみようと思った、翌日のことだったのだ。


ーーなぜか、ふと目を覚ますと、自分は別世界にいたのである。

「ひょっ!?」と驚いたが、それは、夢によって作られた世界かもしれなかった。


……しかし、そこで俺が感じたものは、確かに自分は『出歯でばウサギ』というモンスターで、果たして出っ歯ではないウサギはいるのだろうか、と考えながら、逃げ惑う毎日だったのである。







「ーー何なんだよ、この森は。今度はイタチが来やがった! さっき悪どい目つきのテンから逃げたばっかだってのに!!」


草のしげみに突っ込みながら、俺は冷たくなる背筋のまま走っていた。


足の筋肉はつりそうだったが、イタチの視界から消えたとたん、するどい角度で横に跳躍し、相手をやり過ごそうとする。


……どうやら、この世界にいる俺は、そこらの近場に住んでいて、土地勘はあるらしい。どっちへ逃げたらいいのか、なんとなく自分で分かってしまうのである。

……もちろん、追ってくる動物モンスターたちも似たようなものかもしれないが……


「はあ……はあ……」

今度は助かっただろう。

今また追われれば、正直逃げ切れる体力は残っていなかった。


小さなつのののように耳をとがらせたそのイタチは、ふんふんと辺りの匂いをかいで、えらいスピードで風下の方に跳んでいった。

……ふっ。すぐ脇にある木のうろに逃げ込んだが、ちゃんと風を計算しての行動である。

もしその穴を嗅ぎ当てられていたら、もう出歯ウサギの名前を生かし、出っ歯で攻撃するしか手段は残されていなかった。


(やれやれ……)


しばらくはじっとしていようと、俺は音もなくため息をついていた。

周囲はすぐ静かになったが、まだ油断はできない。

ほとんど気配もなく、ヘビが木のうろにひょっこりと顔を出してくるかもしれないのだ。


「……」

少し眠くなってきたので、あくびを一度だけすると、丸くなってみた。

人間に転生できなかったのは悲しいが、動物として暮らしてみて、良いところもいくつかは発見できていたのだ。

どんなに眠っても、だらけた生涯を送っても、誰にも怒られない。

求めるのは身近なエサと異性なだけのために、生活が至ってシンプルなのも、俺としてはありがたかったのだ。


人間だったころの社会は、”保険”を求められ過ぎていた。

将来を安定させろ。

この資格を取れ。

いい会社に入っても、リストラはある。

もっと豊かになれ。そして失わないために、必死におびえてあくせく働け。


絵描きになる、と言いながらも、俺は他人を見下ろしてホッと息がつける”良い生活”を手に入れたいがために、頑張っていたような気もするのだ。


人間の気性が色濃く残っているおかげで、モンスターとして誰かをむやみに襲いたい、というような気持ちもなさそうである。


「勇者とかに生まれ変わって、街や世界を救うのも気持ち良いだろうな……

でも、誰かと比べる必要もない、そもそも比べる相手がほとんどいない毎日ってのも、自由で楽しいや」

今までも、そしてこれからも、命がけで逃げてばかりの一生だろう。

……けれど、その必死さが、俺の生きているあかしなのだ。

コソコソと穴から抜け出すと、またいつものように、静かに跳躍を始めたのだった。







「葉っぱ、うめぇな……!」

シャリシャリと口を動かし、俺はその淡白な味をたのしんでいた。


食べるものを探し始めた当初は、果実や木の実、甘さのある、カロリーの高いものが価値ある食物だと思っていたのだ。


……しかし、動物はそれぞれに、独自の進化を遂げている。

俺のようなウサギの場合は、どうやらローカロリーな草を、相当量ムシャムシャと食べていないと、歯が常に伸びてきて困ってしまうことになるようだった。


毎日、何時間かは食べ続けて、歯をすり減らす。

人ならばなかなかに幸福な時間が、今の俺の、仕事の一つだったのだ。


(ふうん……。たいていの動物は、その場で警戒しながら、エサを食べるだろう。でも俺は、昼のうちに自分の巣穴に食料を運び、のんびりと夜に食べる頭脳を持っている。……こりゃあ、『勝ち組』ってやつかな……)


ウサギに生まれた時点で、生物としてはかなりの敗北を喫している訳だが、まあそんなことはどうでもいい。

要は、本人がそれをどのように捉えるか、なのである。


人間の記憶で生きているために、ウサギの寿命のスパンをまったく認識できていなかった俺は、それなりに気分のいい日々を送っていた。

……もうすぐそこに、自分の運命が激しく動く瞬間が来ていることに、まったく気づいていなかったのである。








「動かさないで……! そのままで結構です。命に関わります」


俺のおぼろ気な意識に届いたその声は、これまでに聞いたどんな音より、澄んで耳触りが良いものだった。


その女性は、しばらく誰かと話し込んでいるようだったが、やがて別の人間から「このような低俗なモンスターを……」とか、「ユラ様のお身体が汚れます」など、俺をののしるような言葉が聞こえてくる。


(う……何が、あったんだ……)


記憶が混濁していた俺は、うっすらと目を開けると、がけの前で自分が横たわってがいるのが分かった。


ああ……

そういえば、あの上から落ちたんだっけ……


失態である。

人間たちが行き来している街道を見渡せる、広々とした景色の崖の上に、俺の好物の一つである、ノコギリソウが群生していたのだ。


いつもなら巣穴に持って帰って、ホクホクと、ゆっくり食べるところである。


しかし、そのちょっとしたエサの群生地から見下ろす風景が、あまりに見事だったのだ。

遠くに、ポツンとした点のような人々が街道を行き交い、空は雄大で、雲はくっきりと鮮やかに、美しくたなびいていた。


その真っ青な空の下で、どうしても美味しい草を食べたくなってしまったのである。


……結果、一つ所に長くとどまりすぎて、何匹かのキツネの接近を許し、囲まれていることに気づけなかった。


ーー食べられるくらいなら、崖から跳び降りて、助かる方に賭けてやる……!

それで俺は、ゴムまりのように丸くなって、下を覗くのも恐ろしい、急斜面を転がり落ちたのだった。



「ーー聖女さま!」

「ああ……このようないやしき魔物の傷が……!! やはりユラ様は、本当に”奇跡”のお方なのだ……」


どうやら、街道からそれて休憩中に俺を見つけた”聖女さま”とやらは、相当な能力を持っているらしかった。


魔物である俺を、過度な神への信仰心で浄化するようなこともなく、まるで人間相手のように、見事に傷を癒してみせたのである。


(おお……! すごいもんだ)


足の骨が折れていて、まったく動かすこともできなかった俺は、そこからみるみる痛みが引いていくのを感じていた。


体にいくつもあった小さな傷もふさがると、その聖女様は、そっと俺の背中に手をやり、温かな微笑みを投げかけてきたのだった。


か……輝いて見える……! この女性、ホンマもんやで!!


なぜかおかしな言葉遣いになってしまった俺は、衝撃を受けていた。

そして、彼女からの祝福を受けると、どこかへ逃げるようにと、その両手から解き放たれたのだった。


「……このような偉大な力を持ったユラ様が、異端審問にかけられるなんて……!」

「わが教団の上層部は、腐っているのだ。本来は、人に階級などない。便宜上のヒエラルキーのぬるま湯に長く浸かっていることによって、のぼせ上がり、ユラ様が大きな支持を得ていることが、気に食わないだけなのだ!!」


そんな言葉も聞こえてきたが、ウサギの俺にできることなど、何一つありはしない。

のちに、聖女の祝福を受けたおかげで”クリスタル=ラビット”という、陽光に対して毛並みが虹色に反射する、どんなモンスターからも手出しされない幸運の獣になる自分だったが、その時はただ、人間たちから距離を置くことしかできなかったのである。








「……あ……れ? ここは、どこだっけ」

俺はまた、ボンヤリと目を覚ましていた。


ーーここは、寝室だ。

そうだ。俺は今日、仕事が休みなんだった……


ーー仕事? とまた自分に問い返す。

体が、指が、うまく動かない。

まるで、自分が別の生き物であったかのように、はるか遠くから体を操る感覚で起き上がろうとしていた。


「あなた……」

その時、どこかで聞いたことのあるような、透き通る声音が響いてくる。


「もう! 早く起きてよ。朝食は出来てるのよ。今日は一緒に、安室やすむろ町のダムの放流を見に行くって言ってたじゃない」


怒っているのに、とても耳触りが心地良い、不思議な声だった。


かすんだ目でそちらを眺めると、その美しい妻は、すぐにドアの向こうに顔を引っ込める。


……ああ、そうだ。

今日は、趣味の絵を、ダムの水流を描くんだったっけ……


前回の絵は、市の展覧会で入賞したんだった。

そして……長年、入選止まりで、『無冠画伯』の汚名を職場で着せられていたが、そんなことはない。


その”入選”の絵で、今の妻と知り合うという、ホームランを成し遂げたのだから……!


カチャカチャと、洗い物をする彼女の背中を見ながら、俺はテーブルについた。

ゆったりしたロングスカートも、足の長い彼女が身につけると、フレアが細く、なまめかしい。


「あっちでずっと描くんでしょう? 昼食はどうするの? お握りでいいなら、すぐできるけど」


「いや、せっかく離れた町まで出掛けるんだ。面白そうな店を見つけたら、そこに入ろうよ」


俺は微笑みながら、妻を眺めていた。

……子供は、残念ながら出来なかった。


でも、そのぶんゆっくりとした二人の時間が持てて、自分としてはこれ以上ないくらい、幸せな結婚生活だったのだ。


ーーさ、はやく食べて食べて。

急かされながら、苦笑して、俺は朝食の味噌汁に口をつけた。

在宅ワークのプログラマーで、夫より給料の良い、できた妻に文句などあろうはずがなかった。






ーー審問官!!

「……?」

どうされたのです、審問長官!? もうすぐ、『ユラ=チャーチ』なる娘の裁判が、始まるのですぞ!


俺は、ぶ厚い判例書をヒザに乗せ、眠っていた。


ーー貴方は反対されているようですが、他の審問官はみな、異端のーー”魔女”の処刑を望んでおります!


厳しい口調で続ける教徒に、俺は下がるよう合図する。

待機室にいる他の審問官がうっとうしく、廊下の椅子に座っていたのだが、どうやら眠ってしまったらしい。


(当教団も、愚かな集まりになったものだ……

人を実際に奇跡で救っている者を、自分の権威がゆらぐ可能性があるだけで、排除してしまうなど……)


権力の座ほど、人間の心を腐らせるものはない。

”神の御業”ーーいや、己の神を否定するに等しい行為なのだ。彼女を処刑することは。


「さて……」


俺は立ち上がった。

全審問官を黙らせる弁論は、もう完成している。

あとは、あの聖女を、自由にしてやるだけでいいのだ。


胡散くさい、出生すら定かではない、噂の『ユラ=チャーチ』を一目見たとき、俺は雷に打たれた。


”ーー彼女は、何があっても救わねばならない”


ただ、そう直感したのである。

あとはーー自分のことを度外視し、自分にできることをするだけだった。


……コツコツと、廊下をあるく靴音を孤独に響かせ、俺は敵しかいない法廷の扉に、最後の手をかける。


ーー聖女すら、味方ではないのだ。

しかし、それが自分より正しいことを、自分がいつか、彼女に救われたことを、俺は証明しなければならなかった。





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