第36話 一問にたくさんの時間をかけると焦る

 先輩との温泉旅行が懸かった大事なテスト、俺は死ぬ気で勉強を進めていた。


 総合得点でクラスで10位以内に入らないといけないということはつまり、そこそこの点数を取らなければならない。そんな当たり前のことに気が付いた俺は、死ぬ気で勉強を進めて……いた。


 進めて…………。


「死ぬ……」


 今は塾にいるのだが、心が砂漠になりそうだった。

 潤いのない、枯れ果てた土地だ。


 パーテーションで区切られてはいるが、周りの生徒もテスト習慣に入ったということで一生懸命勉強をしていた。

 まったく、どいつもこいつもゴールデンウィーク明けだというのに勉強熱心にしやがって。


 などとよくわからない八つ当たりをしていたところ、後ろから声をかけられた。


「成瀬くん、勉強熱心なんて珍しいね?」


 髪をかき上げて前傾姿勢で話しかけてくるのは、清香さんだ。

 会うのはあの事件があった日に校庭であった以来で、なんとなく距離を感じていたが。


 気さくに声をかけてくれるということは、そう思っていたのは俺だけだったのだろうか。


「ま、まあテストも近いもんで……」


 そう言いながら、清香さんとは目を合わせることができなかった。


『大好き、だよ』


 あれをどんな気持ちで言ったのか分からないが、少なくとも純粋に好きでというわけではないだろう。

 なにかは分からないが、裏があってのことに決まっている。


「あはは、警戒心マックス! みたいな?」

「警戒しないほうがおかしいですって」


 あと、その張りのある胸を見てしまうとあの時の感触を思い出してしまうから、というのもあるが。


「どれどれ、勉強見せてごらん?」

「あ、ちょっと」


 自習室なのに結構声を出してしまっているが、誰もこちらを気にする様子はない。

 もはや清香さんは透明人間なんじゃないかと思ってきたぞ。


「って、全然違うじゃんここ」

「え、マジですか⁉」

「うん、ここもここも。数学、苦手なんだね♪」

「――っ!」


 急にまぶしい笑顔を向けられて動揺してしまう。

 いかん、俺には先輩という心に決めた人がいるというのに。


「すみません……ありがとうございます…………」


 なんとなく情けない気持ちになりながら、もう一度解答と照らし合わせてみる。

 うーん、解説が何を言っているのかさっぱりわからん。


 その間に清香さんは俺の隣の席にいつものように腰を下ろすと、自分の勉強の準備を進めていた。

 今日は思ったよりもちょっかいが少ないなんて変なことを思いながら、思考は数学に戻す。


 ――えーん、何が書いてあるかさっぱりわからないよう。ぐすん。


 だが意地でも清香さんには頼りたくない。

 ここで彼女に頼ってしまったら、何かに負けた気がする。


「よし」


 ばちんと顔をたたいて集中する。

 集中力さえあればなんとかなるはずだ!




「あのう……すみませぇん…………。ここをぉ…………不肖ふしょうわたしめに教えてはいただけませぬでしょうか……?」

「あはは、結構早く折れたね」


 1時間同じ問題とにらめっこして、さすがにこれではまずいということで渋々ながら清香さんに頼ることにした。

 渋々ながらって教えてもらう側の立場の人間が言えるセリフではないけど。


「なんでそんな悔しそうな顔してるの? この清香お姉さんが、分からないのために一生懸命教えたげるよ?」


 そしてこの煽りようである。多分俺じゃなかったらキレてた。


「いや、これが分からなくてですね……」

「あはは、素直でんだから、成瀬くんは」

「……」


 俺じゃなかったら、キレてたなあ。アブネアブネ。


「にしても、二次関数が分からないだなんて、1年生の時にちゃんと授業受けてた? そ・れ・と・も、成瀬くんはお寝坊さんだったかな~?」

「ダァァアアアアア‼ 寝坊なんかしたことないし、ただ授業聞いててもわからなかったんで寝てただけですよ‼」

「まさかそこまで赤裸々に語られるとは」


 数学とは睡眠の質を高める学問だとはよく言ったものだ。俺が言ってるだけだった。


「もういいです! 清香さんじゃなくて他の人に聞きます」

「拗ねるところも、かわいいなあ~」


 あはは、と言って笑いすぎたのか涙が出ている清香さんは、その細い指で目を拭くと「ごめんごめん」と言って。


「分かったから。数学嫌いな成瀬くんのために、私が仕方なく教えてあげよう」

「ほ、ほんとですか⁉」

「ただし、条件が一つ」


 条件とは、と俺が首をかしげていると、清香さんはにやりと笑った。


 その妖しく形が変わった唇を見て「あ、これろくなやつじゃないな」と思ったころにはすでに、条件は提示されていて。


「今から私の家に、いこっか♡」


 という突拍子のないことだった。


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