鋼翼の空
倭音
鋼翼の空
一面の白。上下左右どちらを向いても目に入るのは白の一色だ。
高度五〇〇〇メートルの乱層雲を形作る水滴は針となって、ゴーグルと飛行帽で守られていない僕の頬を容赦なく刺してくる。
偵察機のコクピットも最近配備された新式の戦闘機のようにガラスで密閉するか、いっそ戦闘機を偵察用にも使わせてくれればいいのにと思う。
高度を取って雲の上に抜けようと、操縦稈を引いて機首を起こす。機体は弾かれたように一気に高度を上げ、雲間から白く尾を引いて飛び出した。澄み切った太陽の光に目を細める。機体を水平に戻し、素早く左右に視線を振る。
「あれ」の姿は見えない。
下方向の視界を得るために左向きにロールを入れ、旋回する。姿勢指示器を注視して、機体のバンク角が四十五度に達したところで操縦桿を引き、左足のペダルを軽く踏みこむ。雲に触れた左翼の先端が渦を巻きあげて水面の波飛沫のように航跡を残す。雲の中に「あれ」の影が見えやしないかと目を皿のようにして探す。
……探す。
…………見つけた。
コクピットのすぐ前で回るプロペラの左上。自機から北北西におよそ五百メートル。雲の中だが、陽光に照らされてくっきりと「あれ」の巨大な影が黒く浮き出ている。
意外と近くにいたらしい。旋回を続けて機首がそちらに向いたところでスロットルを全開、距離を詰めにかかる。接近するこちらに気が付いたのだろう、いや、あちらが先に気付いたうえで待っていたのかもしれないが、「あれ」はその巨体を雲間から浮かび上がらせ、その全容を現した。
それは、航空機とは明らかに違う形をしていた。そもそも、機械ではなく明らかに生物の類であった。だが、既知のいかなる生物ともつかない、異様な姿だった。
二十メートルは優に超える、トカゲのような爬虫類然とした胴体。そこから前後にそれぞれ長く伸びた、蛇のような首と尾。極めつけに、全長と同じかそれ以上に長大な、蝙蝠のそれにも似た翼。全身を甲冑のような金属質の鱗に覆われた、子供のころに読んだおとぎ話の中にしか存在しえないその異形を表す言葉は、
「……
ガス灯の明かりが大通りを照らし、帝国列強が地球の全てをケーキのように喰い尽くさんとするこの時代。おとぎ話の存在など、あってはならないはずだった。だが、現に竜は僕の眼前に存在し、悠々と飛翔している。
偵察機で哨戒飛行中だった僕の眼前に「あれ」……竜が現れたのは、既定のコースを回り終えて基地に帰投しようとした時の事だった。
人間としての本能が、なんだ、という疑問となぜ、という戸惑を当然のように訴える一方で、戦闘機のパイロットとしての僕の心は、別の感情を得ていた。
――喜び。
一言で表すなら、それがいちばん近い言葉だろう。ぬらと輝く鱗や陽光に透ける翼膜の巨影が、人間が叡智を尽くして造り上げた戦闘機よりもずっと華麗に宙を舞う姿に、僕は一目で魅了されてしまっていた。あれが現実のものかどうかは僕の中ですぐにどうでもいいことになり、ただ、あの美しい存在を撃ち落してみたい、という暴力的な衝動で心がいっぱいになった。
隣国との戦争が始まって三年。士官学校の航空科を卒業して軍に入り、首尾よくパイロットになったまでは良かった。だが意気揚々と任官した僕を待っていた仕事は、敵機との華々しい空戦ではなく、そのお膳立てとでもいうべき哨戒任務であった。
任務に不満があるわけではない。哨戒中に敵機と出くわせば戦闘にもなり、気持ちが昂ぶりもする。高空から見下ろす緑の田園も遥かに見上げる空の紺碧も、嫌いではなかった。しかしそれらは決して、僕の心に満足を与えてはくれなかった。隣国との開戦から一年が過ぎる頃には、僕はすっかり退屈していた。
そんな折に現れた未知の存在。僕にはそれが天の恵みにすら思えた。
結局、半時程僕の身も心も翻弄するだけして、竜は現れた時と同様にどこへともなく飛び去ってしまった。何度か照準を合わせはしたものの、撃とうとするたびにひらりひらりと華麗に躱されてしまい、最後まで一発の機銃弾も撃たせてすらくれなかった。
基地に帰還して上官に偵察の報告をしたが、竜の事は黙っていた。どうせ言っても信じてはもらえないという考えと、それ以上にあの竜を自分だけのものにしておきたいという思いが強かった。
その晩、僕はなかなか寝付けなかった。瞼を閉じると昼間ゴーグル越しに見た竜の姿が浮かび、僕を挑発した。
どうせ寝付けないのならとベッドを抜けて宿舎を後にした足が自然と向かったのは、無人の滑走路だった。夜間に飛行機を飛ばす者があるわけもなく、月明かりに青白く静まり返った滑走路は絶好の散歩道だった。
つい癖で煙草を口にくわえてはみたがどうも吸う気になれず、火をつけないままのタバコをくわえたままどこへともなく歩いていく。歩きながらぼんやりと見つめていた口元の煙草から目を上げたその先、格納庫の前あたりに何の気なしに視線を向けた時、一人の人影が目に入った。
それは、少女の姿をしていた。月を見上げる瞳は雲の上の空と同じ、溺れるような瑠璃の色。柔らかそうな白いワンピースの裾が月明かりに揺らめいている。軍の基地に民間人らしき少女が紛れ込んでいるという、明らかな異常事態。しかしこの時の僕はなぜかその光景に一切の違和感を覚えず、なぜそうしたのかは自分でもわからないままに、昔からの知り合いにするのと同じように声をかけた。
「こんばんは」
驚いた様子もなく、こちらに向き直った少女が答える。
「こんばんは」
君は誰だ、と僕が誰何しようとした矢先、それを遮るように少女が言葉を続ける。
「あなた、パイロット?」
どうやら会話の主導権は少女の側にあるらしい。こちらの疑問には答えてもらえなさそうな雰囲気だ。
「そうだよ。パイロットだ」
「あれ、あなたの?」
少女が指さした先には、配備されて間もない新式の戦闘機が我が物顔で格納庫を占拠している。あれが僕のだったらいいのにと思いつつ、「いいや」と答える。
「僕のはその手前のやつ。そう、そっち。すこし小さくて羽根が二枚あるほう」
「ふうん。ねえあなた、これに乗って何をするの?」
少女は僕に、奇妙な質問を投げかけた。
「何って、決まってるだろ。センソウだよ。ラジオでもやってるだろう? 僕たちは空を飛んで、敵を見つけて、撃ち墜とす。それが任務だ」
「敵って?」
「そりゃあ……」
この戦時下で敵と言えば隣国しかありえない。あたりまえのことだ。が、昼間見た竜の事を思い出し、言葉に詰まる。あれはどう見ても隣国の戦闘機なんかではなかった。
「……空にいる、自分以外の全部。ほら、コクピットの後ろに丸いマークが描いてあるだろ? あれが味方のしるし。あれがない奴はみんな、敵なんだ。敵は墜とさなけりゃならない」
僕は自分に言い聞かせるように言った。
また、少女が尋ねる。
「それ、楽しい?」
どきり、とした。
「いいや、ちっとも。でも、仕事だから」
「そう」と少女が短く答える。
嘘だ。敵機との交戦に胸が躍らないパイロットなど居はしない。僕だってそうだ。だが素直に楽しいと答えてしまうのは、自分の中の凶暴で野蛮なところを認めてしまうようで嫌だった。僕はまだその感情を割り切れるほど大人にはなり切れていなかった。
「そろそろ行くわ。お話してくれてありがとう。それじゃまた」
待って、と声をかける隙もなく、少女はどこかへいなくなってしまった。
気が付けば僕は宿舎のベッドの上に居て、窓から差し込む朝日を浴びていた。昨晩の少女はひょっとしたら僕の夢だったのかもしれない。そう思おうとしたが、飛行服に着替えて格納庫に向かう途中で、滑走路のわきの地面に火をつけた形跡のないタバコが一本落ちているのをみつけた。僕のいつも吸っている銘柄だった。
その日から僕は、哨戒任務中に竜を見かけるようになった。竜が現れるのは、決まって僕の周りに敵も味方もいない時だった。そのたびに僕は竜を追いかけ、撃ち墜とそうとしたが、僕の弾はかすりもしなかった。竜はまるで踊るように優雅に宙を翔け、僕をもてあそんだ。竜を見失うたびに次こそは、と心に誓うものの、墜とせる見込みは一向に立たなかった。それでも僕は愚直に竜に挑み続けた。
妙な感覚だが、撃ち墜としたい一心で竜を追っているとき、僕は僕自身の醜い暴力衝動から目を背けていられたのだ。竜を追うようになってから気が付いたが、僕は偵察機で空を飛んでいるときの自分が嫌いだった。敵を血眼で探す自分。見つけた敵に無感動に襲い掛かる自分。人を殺しておいて何の罪悪感も得ない、どころか、どこかで人殺しを楽しんでいる自分。はじめは必死に否定していたそれらを今やすっかり受け入れてしまった自分が、大嫌いだった。
初めて竜を見た日に出会った少女も、あれから何度か僕の前に姿を見せた。どういうわけか、昼間に竜を見た日の晩に決まって少女も現れた。場所も決まって格納庫の前。
会話のパターンもお決まりで、僕が先に話しかけ、あとは少女が僕に、僕自身について他愛のない質問をするだけ。僕の名前。家族の構成。幼いころの思い出。少女は気まぐれで、聞きたいだけ質問して飽きたらふいといなくなってしまう。そのくせこちらからの質問には決して答えてくれない。いつも曖昧に微笑んで、はぐらかされてしまう。
少女と会話しているとき、僕はパイロットでも、軍人でもなかった。もしかしたら「僕」ですらなかったかもしれない。僕を構成する情報はひとつずつ、少女が僕に質問するたびに彼女の瑠璃色の瞳の奥に飲み込まれて行ってしまい、僕はだんだんと空っぽの抜け殻になっていくような気がした。その感覚は雲の中で上下がわからなくなる
あくまでパイロットでいる昼間と、「僕」ですらなくなるような、少女との夜。奇妙な二重生活が始まってから季節がひとつ過ぎようという頃、僕に新しい機体が与えられることになった。最新式の戦闘機だそうだ。なんでも、これまでの戦功を鑑みて、ということらしい。そういえば竜を追い求めて飛んでいる間に、敵機を撃ち墜としたことが何度かあったような気もする。そんなことはどうでもよくなるくらいに、僕はすっかり竜の存在に心奪われていた。
新しい機体は銀色の流線型で、大型ながらいかにも
その日の晩も、少女は現れた。初めて会った日からちょうど三か月。あの晩と同じく空には蒼褪めた月が出ていて、少女を白く浮かび上がらせていた。
「こんばんは」
いつものように僕から話しかける。
「こんばんは。今夜も月がきれいね」
「そうだね。あの晩とまったくおんなじだ」
「そうね。なんだか不思議な気持ち」
何がおかしいのか、くすくすと少女が笑う。
「ね、あれ、あなたの?」
少女は格納庫に鎮座する戦闘機を指さす。
本当に初めて会った晩の繰り返しのようだ。でも、僕の返事はあの時とは違っていた。
「ああ、そうさ。今度もらったんだ」
「嬉しそうね」
そうだろうか。そうかもしれない。
「うん。こいつは今までのとは全然違うんだ。これなら、あいつだって……」
「あいつ?」
「いや、いいんだ。何でもない」
「そう。……ねえ、あなたは?」
「え?」
「あなたは、今までと違うの?」
瑠璃の瞳が、僕の目をのぞき込む。
「そんなわけない。僕は、僕さ。何も変わらない。……変わるもんか」
「そうかしら。ええ、そうかもね」
一瞬の沈黙。ふと眠気を覚えて欠伸をかみ殺す。目の端ににじんだ涙を袖口でこすってまた目を開けたら、少女はいなくなっていた。
与えられた新型機に乗り込んで、雲を切り裂いて大空を翔ける。思った通り、新型機は今までの偵察機とは比較にならない性能をしている。上下左右、自由自在に飛び回ることができる。視界の端に映る銀の翼が自分の体の一部のようだ。それこそまるで、あの竜のように。
今日はきっとあの竜が現れるだろうという根拠のない確信が、僕にはあった。
離陸してから一時間ほどが経った。一通り規定ルートを回り、雲の上に出た時、遥か前方に浮かぶ小さな黒い点が見えた。思った通り。あの竜だ。ずっと待ち望んだ瞬間がやってきたのだ。
左手で思い切りスロットルを押し込み、速度を上げて接近する。竜もこちらに頭を向け、一直線に突っ込んでくる。竜の急な方向転換や錐揉みにも余裕でついて行けそうな機体のポテンシャルが、座席から尻に伝わるエンジンの太い振動として感じられる。
まずはあいさつ代わりとばかりに機銃を数発撃ちこむ。当然のように竜はバレルロールでひらりと躱す。どちらも速度を落とさないまま、手が届きそうなほどすぐ近くをすれ違う。すれ違った瞬間、叩きつけられた大気の圧力でガラスのキャノピーがバンと大きな音を立てた。
コクピットに備え付けの鏡で後方を確認。竜はこちらに背中を向けて上昇しようとしていた。負けじとこちらも右手の操縦桿をぐいと引いて上昇する。僕の機体と竜の軌道はそれぞれがきれいな半円を描き、天頂部で交差した。交差の瞬間機銃を放つも、また躱されてしまう。
ここまでは僕の想像通り。僕の本命はここからだった。
竜が身を翻して翼を折りたたみ、急降下する。そのまま雲に飛び込んで見えなくなってしまうが、逃げ去ったわけではないのを僕はよくわかっていた。この三か月で散々観察し、研究したのだ。今ならこの後の竜の動きが手に取るようにわかる。僕は敢えて竜を追わず、機体を一度水平に戻してから機首を上げて高度を取った。ほぼ垂直に上昇を続けながら、竜が雲に入ってからの時間を数える。……一秒、二秒。五秒きっかり数えたところでスロットルを下げ、操縦桿を引き、ほぼ一八〇度進路を反転させた。反転と同時にスロットルを全開。機体は縦方向に伸びた楕円形の弧を描き、太陽を背にして真っ逆さまに落ちていく。強烈なGで眼球が飛び出しそうだ。速度計の針が振り切れ、警告音が鳴り響く。構うものか。
予測通り、竜が雲に突っ込んでからきっかり十秒後。雲の中で急速に大きな影が膨らんでいく。雲の下で反転した竜が上昇してくるのだ。
竜が雲から出てくる瞬間を狙い、僕は機銃の引き金に慎重に指を掛け……撃った。
銃口から金切声とともに放たれた二〇ミリの弾丸は寸分違わずに竜のぬらりとした胸郭を貫き、ぱっと派手な血しぶきを上げた。竜の巨体が揺らぎ、ゆっくりと遥か下方の海面へと落ちていった。
力なく落下していく竜。それより早く降下する僕の機体が横に並んだ瞬間。ほんのコンマ一秒程度の刹那。キャノピーのガラス越しに、僕と竜の目が確かに合った。
――爬虫類らしく縦に裂けた竜の瞳孔は、飲み込まれてしまいそうな瑠璃の色をしていた。
その瞬間、僕は雲の上の高空だというのにどこか水の深いところに溺れて沈んでいくような気がした。
あれだけ待ち望んだ瞬間がついに訪れたというのに、僕の目からは涙があふれて止まらなかった。
あの美しいモノを殺してしまった。
僕は何ということをしてしまったのだろう。
隣国の敵機をいくら墜としても、何人ヒトを殺しても一度だって感じなかった苦い後悔が、刺すような胸の痛みを伴って爆発的に湧いてくる。
僕の声にならない叫び声が、冷たいガラスで密閉されたコクピットにむなしく反響した。
その晩、少女は滑走路に現れなかった。
もう二度と、現れなかった。
鋼翼の空 倭音 @wa-on
★で称える
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