レディ&マギ

楸 茉夕

序章

 花の盛りが過ぎようとしている薔薇の茂みから、子どもの泣き声がする。

 少女は足音を忍ばせて近付き、そっと覗き込んだ。そこには、捜していた幼子が膝を抱えるようにして一人しくしく泣いている。

「ここにいたのね、リーシャ。みんな捜していたわよ」

 屈んで声をかければ、小さな女の子ははなをすすりながら泣き腫らした顔を上げた。

「ツェリねえさま……」

 涙声で呼ばれて、ツェリはリーシャの隣に移動した。腰を下ろすと、リーシャはぎゅっとしがみついてくる。

 ツェリは金茶色の柔らかな巻き毛を撫でた。

「どうしたの? どこか痛いの?」

 小さくかぶりを振ったリーシャは、しゃくりあげる隙間を縫うようにして言う。

「わ、わたし……く、くにを、だされる、かも……」

「国って、ここを? アールヴレズルを? そんな、まさか。どうして?」

「こ、こ、こしいれ……って」

「え……」

 すぐには理解できず、ツェリは何度か目を瞬いた。少しずつ言葉の意味が浸透してくる。

「ええええ!? 輿入れ!? リーシャが!?」

 ツェリは思わず声を上げた。いくら王女とはいえ、リーシャはまだ六歳だ。結婚するには早すぎる。

「こし、いれ、って……およめに、い、いくこと、なのでしょう」

「そうだけど……誰が言ってたの、そんなこと」

「と、とうさま……」

「シーエ兄様が!」

 リーシャは「姉様ねえさま」と呼んでくれるが、リーシャはツェリの一番上の兄の娘で、姪にあたる。ツェリは年の離れた兄が三人いる末っ子なので、リーシャを実の妹同然に思っている。

「およめに、なんて……い、いきたく、ない……!  みんな、と……いっしょに、ずっと、いっしょに、いたいのに……う……うう……うわああん」

 とうとうリーシャは声を上げて泣き出してしまった。ツェリは小さな身体を抱き締め、娘を泣かせる長兄に腹を立てた。どんな事情があれ、年端もいかない子どもをこんなふうに泣かせていいはずがない。

「大丈夫、わたしからシーエ兄様に……リーシャの父様に訊いてみるわ。本当なのかって」

「ほ、ほんと……?」

「ええ。それで、リーシャを泣かせるようなことを言ったら、らしめてやるんだから」

 ツェリが大きく頷くと、リーシャも小さく頷いた。その頭をくしゃくしゃと掻き混ぜて立ち上がり、リーシャに手を差し伸べる。

「だから、一緒に戻ってくれる?」

「うん……」

 リーシャは目をこすりながらツェリの手を取って立ち上がった。スカートの芝をはたいてやり、手を繋いで一緒に歩き出す。少し離れて心配そうに見守っていた侍女たちに頷いてい見せると、皆一様に安堵の表情になった。

(まったく、こんなに小さい子に縁談だなんてどうかしてるわ、兄様ったら。お部屋にいらっしゃればいいのだけれど)


     *     *     *


 執務室へ向かうと、兄の秘書官である青年と行き会った。

「ヴェルクさん、ちょうどよかった」

 声をかければ、扉を開けようとしていた顔見知りの文官が向き直り、姿勢を正して一礼した。

「ツァウラメラ様におかれましては、ご機嫌麗しゅう」

「こんにちは。シーエ兄様は今、ご公務中? 少しお話があるのだけれど、休憩はいつごろになりそう?」

「レシエンツァ陛下は、ただ今ご休憩中であらせられます。どうぞ中へ」

「そう、ありがとう」

 ヴェルクが扉を開いてくれて、ツェリは左右に控える近衛兵にも挨拶をして国王の執務室へ足を踏み入れた。国王補佐官を筆頭に、文官たちが挨拶をしてくれるのに会釈を返し、ツェリは兄を呼ぶ。

「シーエ兄様、ご機嫌よう」

 窓辺に立って景色を眺めているふうだった兄は、驚くでもなく振り返った。

「おや、ツェリ。こちらへくるとは珍しいな」

「お話があるの。ご休憩中でよかったわ」

 妹と言えど、国王の公務の邪魔をするのはさすがにはばかられる。レシエンツァはテーブルの方へ移動し、椅子を示した。

「かけなさい。話とは?」

「リーシャが泣いていたわよ。お嫁に行くのはいやだって」

 ざわ、と執務室がさざめき、次いで静まり返った。レシエンツァは一度目を閉じ、苦笑いのような、笑い損ねたのを隠すのに失敗したような表情になって、初老の補佐官を呼ぶ。

「……バールト、人払いを。皆、何も見なかったし聞かなかった。いいね?」

「御意」

 筆頭補佐官に追い立てられるように、文官たちは執務室を出て行った。ツェリはその様子と兄とを交互に見て、口元に手を遣る。

「……まずかった?」

「いや……、まあ、今はまだ、一握りしか知らないな」

「ごめんなさい……リーシャが知っているくらいだから、てっきりみんな知っているものだと」

「いいさ、ずっと隠しておくこともできない。話というのは、そのことについてかい」

 椅子に腰掛ける兄の向かい側の席に着き、ツェリは首肯した。

「さっき、リーシャがいなくなったって、ちょっと騒ぎになったのよ。すぐ見つかったけれど、一人で泣いていたの。お嫁に行きたくないって」

「どこで耳にしたのだろうな。迂闊だった……ユーファも知らないのに」

「知らないの? 義姉ねえ様、怒るんじゃない? 一番に教えるべきよ」

 レシエンツァの后、リーシャの母であるユーフォリアは、末姫をことほか可愛がっている。どんなにいい縁談があっても、リーシャ本人が泣くほどいやがっているのを許すはずがないとツェリは思う。

「そうなんだが、ユーファはここのところ体調が優れなくてな。今、リーシャに縁談だなどと言ったら、ますます悪くなりそうで」

「そうだったの……早くよくなるといいわね」

 せっている母を気遣って、相談することができず、リーシャは一人で泣いていたのかもしれない。

「ああ。薬師は大事ないと」

「それならいいけれど。―――まったく、こんなときに縁談だなんて。誰なの、相手は」

「ヴィレスト国の第一王子だ」

 東隣の国の名前が出て、ツェリは眉を顰めた。

「ヴィレストの王子って、一昨年くらいに結婚しなかった? 兄様、結婚式に呼ばれたわよね」

「いや、違う」

「違う?」

「ツェリが今思い浮かべた人物の、父親の方だ」

「…………。え?」

 本当に意味が分からず、ツェリは目を瞬く。

「え? ……は? はあああああ!? 父親!? なんで!?」

「ヴィレスト国の第一王子と言っただろう。今のヴィレスト国王は六十を過ぎているはずだが、まだ現役だ。なら第一王子はその息子ザカート殿下。一昨年、盛大に結婚式を挙げたのは更にその息子、王孫おうそんのシューゲル王子。ついでに、最近シューゲル王子に子が生まれた。姫だそうだ」

「な……な、ななな? 結婚するような息子がいる人が、孫までいる人が、なんでリーシャと結婚なんて話になるのよ!」

「私にもわからん。うちのような貧乏国と縁付いても、いいことはさっぱりないと思うのだが」

「……国王がそれを言ったらおしまいじゃないかしら」

 貧乏国というのは否定できないが、たしかにヴィレスト国がツェリの祖国であるアールヴレズル国と親戚になっても、負債が増えこそすれ利益はほぼないように思える。

「玉座を狙っているならリーシャではなくツェリを嫁に寄越せと言いそうなものだが。適齢期でもある」

「それはそうだけど……わたしだっていやよ、三十以上も年が離れているような人。しかも奥さんが何人もいるんでしょう」

「たしか、側室が十八人だったかな」

「じゅう……!」

 まさか二桁とは思っていなかったツェリは、思わず絶句した。冗談ではないと首を左右に振る。

「信じられない……絶対いや」

 王族に生まれた身として、恋愛結婚は半ば諦めているが、できればツェリ自身も納得できるような相手とめあわされたい。腹に一物どころか全身下心のような相手に嫁ぐのは最終手段にしてほしい。

 レシエンツァは淡く笑んでかぶりを振った。

「そんな、幼気いたいけな仔羊を飢えた狼の群れに放り投げるようなことはしないよ。可愛い娘と妹を駒のように扱われるなんて言語道断だ。リーシャもツェリも、ヴィレスト国へはやらないよ」

「断っても大丈夫なの?」

「まだ内内の、内内内内くらいの話だからね。向こうもあんまり本気じゃないんじゃないかい? 本気だったらせめて、文句の少なそうな相手を出してくるだろう。私よりも年嵩としかさのおっさんじゃなく」

「おっさ……兄様、仮にも隣国の第一王子をおっさんだなんて」

「いいじゃないか、ツェリしか聞いていないんだし」

 極めて適当に言い、レシエンツァは背もたれに身体を預けた。

「とにかく、このまま受けることはない。安心しなさい。リーシャにも私から話そう」

 言い切る兄に、ツェリはひとまず頷いた。もし何かどうしようもない理由で、リーシャがヴィレスト国に輿入れすることになったら、自分が代わりに行こうと心に決める。決して望むものではないが、リーシャが泣くよりずっといい。

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