棺守り

近藤 セイジ

棺守り

 悪い予感が当たった。というには、あまりにも予定通りの結末だった。親父が死んだ。享年五十八歳。さっき俺を叩き起こした母からの電話が夢じゃないなら、って話だが。

 窓の外は白みはじめていた。小さなベッドで一緒に寝ていた彼女の亜希も起きて心配そうな顔をしている。

「亡くなった?」

「あぁ、すぐ出る」

立ち上がると部屋の電気をつけた。

「コーヒー淹れるね」

 亜希はベッドサイドに置いてあったヘアゴムで長い髪をまとめると、アパートのおもちゃみたいなキッチンに申し訳なさげについている電熱線のコンロでお湯を沸かし始めた。

 顔を洗って寝癖を直すと、大き目のスポーツバッグに二、三日分の着替えを投げ込む。東京で売れない役者なんてのをやっているから、葬式で着る礼服もない。そのあたりは帰ってからなんとかするしかない。

「結局、会えなかったね」

 小さく音を立て始めたやかんを見ながら亜希が言った。

「そうだな」

びっくりするぐらい無機質な声が、自分の口からこぼれた。

 親父の咽頭がんが見つかったとき、すでにステージ4だった。余命半年と宣告され、キッチリ半年で死んだ。

この半年の間に亜希を実家に紹介するという選択肢は、たぶんあった。ただ、三年で食えるようにならなければ役者をやめて実家に帰るという約束を余裕で破っていた俺は、亜希を親父に紹介する気になれなかった。その結果として残ったのは、彼女のことを親父に紹介しなかったという事実。これがのちの後悔となるのかどうなのか、今の俺にはわからない。

 着替えてコーヒーを飲み干すと、戸棚の奥に隠してあったアパートの合鍵を亜希に渡す。

「帰るまでこれ持っていて。他の男を連れ込むんじゃないぞ」

「そんなことするわけないじゃん」

 亜希は合鍵を見ながら少し笑った。軽いキスをして玄関を出ると、身震いした。十月も半ばを過ぎて、明け方の気温が下がってきたのでTシャツにカーディガン一枚では少し肌寒い。駅に向かいながら、もう一枚着てくればよかったと後悔したが戻るのは面倒だった。

 始発に近い急行電車に乗ったが、座席はすべて埋まっている。窓から外を見ると、住宅地の果てから日が昇り始めていた。薄暗い窓ガラスに反射した車内には、顔のない人たちがうつむいてスマホをのぞき込んでいる。

誰も俺の親父が死んだことなど知らない。スマホのニュースアプリに書いてないから、彼らがそれを知るすべはない。他人への無関心が都会の心地よさでもある。みんなで悲しみを共有する必要なんてないんだ、きっと。

 そんなことを考えている間に東京駅についた。キヨスクで五〇〇ミリリットルの缶ビールを一本買った。

 サラリーマンでごった返す平日朝の新幹線に乗り込む。新幹線が走り出すと、プシュッとビールを空ける。あからさまに怪訝な顔をしている人もいるが別に気にしない。これは弔い酒なのだ。

 すきっ腹にビールを流し込みながら、バイト先のコンビニにメールを送る。

「父親が亡くなったので、一週間ほどバイトを休みます」

 先月は劇団の公演で、先々月はその芝居の稽古でバイトを休みまくっている。これを機にバイトをまたクビにされるかもしれないがそれも悪くない。親父が死んだ日にバイトをクビになったなんて、売れた後の話すエピソードとしてなかなかだと思う。

 ビールを飲み干して、トイレに立ちあがると少しよろけた。座っていたので気づかなかったが、酒がかなり回っている。昨日は寝たのが遅かったからな。

 おぼつかない足取りでトイレに入ると、強烈なめまいと吐き気に襲われて顔を便器に突っ込む。胃の奥から、ビールと胃液が混じったものが逆流してくる。

 目からは涙が止めどなく流れ出てきた。

 間に合わなかった。けっきょく間に合わなかった。吐瀉物の奥から後悔の念がじわじわと湧いてくる。

三年で役者として売れてみせると大見えを切って実家を飛び出したが、何も成し遂げないまま親父は死んだ。約束を破った気まずさから、危篤でも見舞いに行かなかった。「役者は親の死に目に会えない」というのは、売れている役者がいうことであって、自分で舞台のチケットをさばいている役者のいうことではない。俺はただのバカなのだ。

 もう胃からは何も出てこないが嗚咽は止まらなかった。こんなバカが葬式で涙を流す資格はない。その資格があるのは、最後まで面倒を見た母と翔兄だ。俺は両手で便器を掴みながら、腐った悲しみのすべてを下水に流し込んだ。



 実家に着くと、リビングでは翔兄が葬儀屋と葬式の打ち合わせをしていた。

「おう、帰ったか。親父に挨拶してこいよ」

 翔兄は疲れた顔で振り返ると、父の居場所は奥の寝室だと知らせた。久しぶりに会った翔兄は眼鏡をかけるようになったせいか、若いころの親父に似てきている気がした。

寝室の真ん中には布団が敷かれていて、薄く死に化粧をされた親父が寝かされていた。鼻に綿が詰め込まれていて、顔色はすこぶる悪い。枕元には、親父の一番上の姉の旦那さん、つまり俺の伯父さんが座っていた。

「健吾か? 久しぶりだな、雅史さんに挨拶しなさい」

もともと痩せて小柄だった伯父さんは年齢を重ねてさらに痩せていて死神のようだった。

 伯父さんと反対の枕元に座ると、俺は親父の額に手をおいた。ドライアイスで冷やされた死者の温度が手に伝わってくる。ゾッとする冷たさだった。

「咽頭がんで最後は食べられなかったからな。こんなやせ細ってしまった」

「そうか」

たしかに痩せてしまって鎖骨がくっきりと浮き上がっていた。

「初めてモルヒネを打った日の夜に亡くなったから、多く苦しまなくて済んだのかもしれんな」

 静かに話し続ける伯父さんの言葉に小さくうなずいた。ただ、内容はほとんど耳に入ってこない。

さっき新幹線で襲われたのは観念的な死に対する感情だった。いま目の前に横たわっているのは生物としての死だ。現実の死は思ったよりも静かで、ばつが悪く窮屈なものだった。

「あらぁー、健ちゃん帰ってきたの」

 俺が死の静寂と向き合っていると、リビングから甲高い声が響いた。だいぶ前に翔兄は葬式の打ち合わせを終えていたようだ。

「さすがに帰ってくるでしょ、自分の親が死んだんだから。それよりもテレビ、テレビつけて。花と乱やっとるでしょ。昼ドラ、毎日見とるのよ、わたし」

「加奈子さん、あれ、マッサージ器ってなかった? 久しぶりにこんなに動いたら肩こっちゃって。マーちゃんもマッサージしたら生き返るんじゃない?」

 リビングには父方の伯母さん三姉妹が乱入してきた。全員還暦を過ぎていて髪の毛の色は上からピンク、紫、金色と三人とも恐ろしく派手だ。

「なに、その髪の色?」

 さすがにただ事ではない髪の色である。聞かずにはいられない。

「かっこええでしょ。白髪まじりだとおばあちゃんに見えるでしょ。この前、三人で美容室にいって染めたったがね」

 一番上のピンク伯母さんがガハハと笑って答える。まるで今朝弟が死んだとは思えないテンションだ。

「マーちゃんが順番守らんで先に死んじまったから、残された方はいろいろわやになってまうわ」

 二番目の紫伯母さんは親父に対して悪態をつく。

「翔太は東京で元気にやっとるかね? ちゃんとご飯食べとるの?」

 三番目の金色伯母さんが質問してくる。

「伯母さん、俺は翔太じゃなくて健吾だよ」

「あー、そう。顔が似とるからわからんわ」

 金色伯母さんは小学生のころから「兄の翔太と名前を間違える」というくだりを何十回と繰り返している。伯母さんは翔兄の名前は絶対に間違えないのに、弟の俺の名前は必ず間違える。つまり、両方を「翔太」と呼んでいるということだ。なのでたぶん、俺の名前は憶えていない。

 三姉妹と一緒に家に帰ってきた母の加奈子も一緒になって笑っている。どうやら俺以外の関係者は、父の死を悲しむという状況はひとまず終わっているようだった。

 父方の高橋家はこの辺りではそれなりに有名である。名家だとかではなく、親父も含めて単純にパワフルな姉弟だったからである。

 四姉弟は、それぞれが自治会長や小学校のPTA会長をやっていて、紫の伯母さんは駄菓子屋をやっていたので、このあたりで子供だったことがある人はだいたい顔見知りである。大工の親父も面倒見がよく、地域の祭りの中心人物でこのあたりの顔役だった。

「意外と早く着いたのね、健吾」

 周りのテンションに支えられてか、特段落ち込んだ様子のない母と三年ぶりのあいさつを交わす。

 親族が徐々に集まってきて手狭になってきたので、キッチンとリビングと寝室のふすまを外して大きな一間にした。庭の倉庫から折り畳み机と座布団を出して並べていく。机の上にお酒を並べると、雰囲気は一気に正月っぽくなってきた。

 通夜でもないのに、親族以外も弔問に来た。祭りの仲間、学生時代の親友、大工の仕事仲間などなど。「この度はご愁傷様です……」と神妙な面持ちでやってきて遺体に挨拶を済ませたら、伯母さんたちの雰囲気に巻き込まれて五分後には笑って酒を飲んでいる。高橋家おそるべしである。

 そんなこともあって、あっという間に家に貯蓄されていたお酒が底をつき、下戸の翔兄の車で買い出しに行くことになった。

「明日が友引だから、通夜が明日で葬式は明後日になったわ」

 車が走り出すと、翔兄は今後の日程について教えてくれた。

「あ、そういえば俺、礼服ないんだけど、どうしたらいいかな?」

「ないなら、買うしかないだろ」

「金、ないんだよね」

「しゃあないな。貸しだぞ」

 持つべきものは、面倒見が良くて堅気の兄である。近くの紳士服の量販店に入っていくと、一番安い一万九千八百円の真っ黒な礼服を買ってもらう。ダボダボのダサい礼服だったが、金を出してもらっているから文句は言えない。

酒を買って帰るとさらに見覚えのある人たちが増えていて、お祭り騒ぎは正月の規模を超えていた。

「おー、健吾か、ひさしぶりだな、こっちで飲め」

 呼ばれるがまま、父の大工修行時代の兄弟子の一条さんの隣に座った。

「社長(しゃっちょう)さんは残念だけどよ、酒飲みの葬式だで飲まにゃいかんよ」

 そういいながら一条さんは俺の小さなコップにビールを注いだ。一条さんは親父のことを社長さんと呼んでいた。おそらく弟弟子なのに先に独立した親父に対する照れ隠しなのだろう。

親父は大工で、一人親方だった。新築一軒家なんかの大きな仕事が入ったときは、俺たち兄弟もアルバイトとして駆り出された。その時はだいたい一条さんも助っ人で手伝いに来てくれていて、仕事の後にはウチで酒を飲んでいた。

「お前はよくあの社長さんを説得して東京に行ったよ」

 一条さんはしみじみ話し始めた。親父は古い考え方の人だったので、俺が「役者になるために上京したい」といった時には、家がひっくりかえるぐらい激怒した。

「あの時は相談されてな。ただ、社長さんも同じようなもんだったから許してあげたら、って伝えたのよ」

「どういうこと?」

「大工修行は十年やって一人前だから、十年修業して独立するのが暗黙の了解だったんだよ。でも社長さんは五年目で、もう覚えることはないって勝手に独立しちゃって、そのあとうちの会社と揉めて大変だったんだ」

 一条さんが話す話は、これまで聞いたことのない話だった。

「おれはよ、健吾と社長さんはそっくりだと思うで。思い立ったら止まらないところとか。あの人もこうと決めたらテコでも動かん人だったから」

 そういうと一条さんはにやりと笑って焼酎の水割りを一口飲んだ。

「おーい、健吾。嫁さんはまだか? 早く東京で女優と結婚して顔を見せにきなさい」

奥の席から、近所のおじさんの下品な声が聞こえる。だいぶ酔っぱらっているな。仕方がないと思いながら立ち上がる。おそらく遺族としてやるべき仕事がある気はするが、それは下戸の翔兄に任せて俺は弔問客を酒でもてなす仕事に徹することにした。



 金槌で後頭部を数発ぶん殴られたような酷い二日酔いの頭を抱えてリビングへ行くと、奥の寝室から棺に入れられた親父が運び出されていた。

「もう持ってくのか?」

「もう昼だぞ。俺たちもそろそろ行くから顔洗ってこい」

 翔兄に言われるがまま、洗面所で顔を洗って真っ黒な礼服に着替える。通夜は近くの桜斎場を借りたようだった。金銭的になにもサポートできない俺は、お金のかかることについてすべてお任せする以外手はない。

「健吾、ご飯食べてく?」

 キッチンから母が聞いてきた。いま少しでも固形物を胃に入れたら吐く自信がある。

「いらない。大丈夫。頭痛薬と胃薬を飲んでおくよ」

「昨日、飲みすぎてない?」

「けっこう寝たし大丈夫だと思うよ。お母さんこそ大丈夫?」

 配偶者をなくしているんだ。子供の俺たちとは違うショックがあるに違いない。

「悲しいけど、みんなが明るくしてくれているから今は大丈夫。きっとお葬式が終わったらどっと来るんだと思うわ」

 母はどこか他人事みたいに話している。やらなければいけないことや来客が多すぎて、家族の全員がまだ親父の死にきちんと向き合えていないのだと思う。

「ご愁傷様です」と言われても「いえいえ、そちらこそ」といった気持ちになる。どうしてもどこか他人事なのだ。

 翔兄と母は車で斎場へ向かった。俺は酔い覚ましもかねて歩いて斎場へ向う。帰省は三年ぶりだが、あまり懐かしい感じはしない。東京では目まぐるしい三年間だったが、この町は三年ぐらいじゃ何も変わらないらしい。

「高橋ッ!」

 路上に停まっていた水垢まみれの白い作業車から声が聞こえる。運転席には見慣れた顔があった。

「椎名か?」

 少しおじさんになっているが、中学で同じサッカー部の椎名だった。俺は成人式に参加してないからずいぶん久しぶりだ。

「何してるんだよ。こんなところで」

「いやぁ、親父が死んじゃってさ」

 思わぬところで俺に会ったことと、親父が亡くなったことの両方でビックリしている椎名に状況を説明した。

「マジか、通夜には顔出すわ」

「いや、気を使わなくていいよ」

「おじさんにも世話になったしな。みんなにも知らせておくわ。じゃあ後で」

 椎名はこっちの返事を聞かずに車を出した。なんだか面倒なことになった気がする。

俺は東京に行くときに連絡先をすべて変えた。

この町とのつながりを断ちたかったのだ。この町にある「血」のつながりと「地」のつながりは複雑に絡み合って、俺の未来を暗く閉ざしていると思っていた。生活のほとんどが知り合いで埋め尽くされていて、新しく知り合ったとしても、ほとんどは知り合いの知り合いで、その中で人生が終わっていく。真綿で首を絞められるように知らぬ間に何かを諦めて、俺はこの町に殺されていく。当時はそんな脅迫観念にとらわれていた。役者になりたいという夢ですら、もしかしたら体裁を整えるための言い訳に過ぎなかったのかもしれない。本当はただ、この町から逃げ出したかっただけなのかもしれない。



 通夜というのはこんなに人が来るものだろうか?

三百個用意した引き出物はあっという間に底をついた。おそらく五百人以上は来ているだろう。家を建てたお客さんから、昔の草野球仲間、よく行く喫茶店のマスターや常連さん、ツアー旅行で仲良くなった人まで。泣きながら「君のお父さんには本当にお世話になって……」と言ってくる見知らぬ人もいた。親父の生きた証で葬儀場はごった返している。他人の走馬灯を見させられているようでクラクラする。

 焼香やら法話やら喪主の翔兄の挨拶やらが終わって、葬儀場の二階に上がると通夜ぶるまいが始まっていた。

「酒飲みの葬式はよ、飲むのが供養だで飲まにゃかんぞ!」

 一条さんは昨日と同じことを、昨日と同じテンションで言いながらみんなに酒を注いで回っている。

「高橋。こっち来いよ」

 奥の方のテーブルに椎名が座っていた。そのテーブルに行くと、中学の懐かしい顔がいくつも並んでいた。

「今日は、どうも、あれだな、ありがとうな。わざわざ」

 すわりの悪い挨拶をする。五年前に勝手につながりを断って、もう二度と会わないだろうと思っていた面々だ。相手はどう思っているか知らないが、俺はバツが悪い。

「おじさん、癌だったんだって。まだ若いのに。お前も大変だったな」

 学級委員長だった吉田が大人なコメントをした。ただ、俺は大変ではなかった。お見舞いにも行ってないし、看病は母と翔兄に任せっきりだった。俺はただ死ぬのを待っていただけだ。

「お、塚本も来るみたいだぞ」

 斜め前に座っていた前野がスマホを見ながら答えた。

「おい、椎名、どこまで声かけたんだよ」

 俺が問いただすと、椎名は明るく答えた。

「俺はサッカー部の連中だけだけど、そこから先はわからんな。これを逃したら高橋といつ会えるかわからんから、かなり来るんじゃないのか?」

 俺は頭を抱えた。親父の通夜が俺の同窓会になるのはさすがに気が引ける。

「おぉ、若いの。行くぞ」

 酔っぱらった一条さんがやってきて、吉田と前野の肩に手を置いた。

「どこへですか?」

 吉田が聞くと一条さんは答えた。

「下で主役が待っとる。みんなで棺守りに行くぞ!」

 そう言うと一条さんはみんなを連れて一階の祭儀場へ向かった。

 一階の父の棺の横では、母と伯父さんが座って静かに話をしていた。

「加奈子さん、社長さんが寂しくしとると思ってよ、みんな連れてきたがね」

 一条さんは母と伯父さんを棺から離すと、おれたちにテキパキと指示を出し始めた。

「受付に机があったろ。あれをもってきて棺と、こう直角にくっつけて。そうそう。ほらそこ、ぼーっとしとらずに椅子を持ってくる。そこは2階から酒とつまみを持ってくる!」

 一条さんの指示通りに動くと、ガランとしていた祭儀場にT字に机が並んだ宴会場が出来上がった。一番の上座には親父が鎮座している。騒ぎを聞きつけた三色の伯母さんたちも祭儀場に降りてきた。

「なになに、どうしたの」

「若い子たちが集まって、楽しそうだねぇ」

「一条さん、悪いこと教えちゃだめだよ」

 父の仕事仲間、翔兄の友人、俺の友人、伯母さんや従兄妹、あとはよく知らない人も含めて三十人以上が斎場に集まってきて飲み直しとなった。時間はすでに夜の九時を過ぎている。

「酒飲みの通夜だから、湿っぽいのはいかんぞ。おい、喪主! 翔太、乾杯の挨拶だ!」

 翔兄は勢いに押されてグラスをもって立ち上がった。

「えー、今日は父のためにお集まりいただき、えー、」

いきなり振られて緊張して挨拶する翔兄に対して「おーい、つまらんぞ」「かた苦しい」「早くしろ!」などと野次が飛ぶ。翔兄はあきれた顔でグラスを上げた。

「じゃあ、かんぱーい」

 みんなの声がそろい乾杯となった。さっきまで静けさに包まれていた祭儀場が一気に華やいだ雰囲気になる。疲れていた顔をしていた母にも笑顔があふれていた。

「おい、健吾! 社長さんがさっきから線香の煙しか吸ってないから、たばこ買ってきてやれ。ハイライトだぞ」

 普通、親族におつかいは頼まないだろう、と思ったが、まぁちょっと外の空気も吸いたい気持ちだったのでちょうどよかった。立ち上がると、椎名が「俺も行くわ」とついてきた。

 外は晩秋の冷気を含み始めていた。俺はスーツのジャケットのポケットに手を入れた。

「東京は、どうよ」

 椎名も少し寒そうに首をすぼめながら聞いてきた。

「まぁ、ボチボチだな」

 俺はあいまいな返事をした。上京して五年間の感想をコンビニまでの五分間で伝えるのは無理だった。椎名は少し考えこむと、言葉を選んで口を開いた。

「あのさ、いちおう、なんていうか、お前にも伝えておいた方がいいと思うんだけど」

 奥歯にモノの挟まったような言い方で、椎名は話をつづける。

「竹内奈々っていただろ?」

「あぁ、竹内ね」

 いたもなにも中学の時の俺の好きな人で、卒業式に告白して見事に撃沈した相手だ。告白が失敗した苦しさと、そのあとにサッカー部の連中に励まされた惨めさは昨日のことのように思い出すことができる。

「オレな、結婚したのよ」

「誰と?」

「竹内と」

「へー、そうなのか」

 俺は反応に困って、妙に感情のない返事をしてしまった。

「子供も生まれるんだよ、来年だけど」

 椎名は少し恥ずかしそうに話す。

「そうなのか」

また感情のない返事をしてしまう。

もう竹内のことなんてなにとも思っていないし、ここ数年は考えたこともない。椎名と竹内が付き合っていようが結婚しようが、正直どうでもいい。

おそらく、二人は成人式か同窓会で再会したのだろう。その時にきっと連絡が取れない俺の話題で盛り上がったんだろう。もちろん卒業式の話も出たと思う。俺の告白玉砕は当時それなりのニュースだったからな。そこから関係が始まって、結婚に至って子供ができて。ある意味、俺は二人のキューピットだったのかもしれない。俺に報告したいけど連絡が取れない。でも、心のどこかに引っかかっていた。だから、今のタイミングで伝えるしかなかった。気持ちは分からなくはない。でも……、と思う気持ちをすべて飲み込んで、俺は満面の笑みで答えた。

「よかったな、おめでとう」

 そういうと、椎名の顔が明るくきらめいた。

「お前の女を見る目は確かだったよ」

 椎名は大事な一仕事を終えたかのような安堵の表情を浮かべてペラペラと他の同級生の四方山話を始めた。それを聞きながら、俺は砂まみれのガムを口の中に放り込まれたようなジャリジャリとした気持ちになった。誰も悪くない。誰も悪くないんだ、きっと。

 コンビニから帰ってきて祭儀場に入ろうとした時に携帯が鳴った。

亜希からだった。椎名には先に祭儀場に入ってもらって駐車場のわきで電話に出る。

「通夜は終わった?」

 耳元で聞きなれた声が聞こえた。それはいま、俺が生きている場所からの声だった。

「終わったよ。いまみんなで棺守りしてるところ。中学の友達もたくさん来てくれてさ。通夜に五百人も来たんだよ。親父のすごさを改めて感じるよ」

 俺は堰を切ったように昨日今日であったことを話した。亜希は静かに話を聞いてくれていた。ささくれた気持ちが緩やかにほどけていくのが分かった。

「やっぱり、私も会いたかったな。お父さんに」

 亜希はきっと、わざと「お父さん」という言葉を選んだんだと思う。

「今度、きちんと紹介するよ。ま、墓石になっちゃうけどな」

 笑いながら言うと、亜希もつられて笑った。

「俺さ、帰ったらもう一回しっかりと芝居に向き合うわ」

「このままじゃ、まだ死ねないって思った?」

 亜希のいたずらっぽい声が聞こえる。

「思った。俺はね、まだ始まっちゃいねえんだよ」

「なにそれ。キッズ・リターンじゃん」

 二人で笑いあった後に電話を切った。祭儀場からドッと笑い声が聞こえてくる。中に入ると棺守りをする人はさらに増えていた。紫の伯母さんは親父の棺の横で美空ひばりの「川の流れのように」を歌いながら、スカートを上げ下げしている。あたりからは「やめろー」と罵声が飛んでまた笑い声があふれた。

五十八年が長いのか短いのか、俺にはわからない。だけど親父が良い人生を送ったということは、その笑い声を聞きながらわかった。



 火葬には意外と時間がかかる。

待合室で三色の伯母さんから親父の若いころの話を聞かされるのにも少し飽きて、外の空気を吸いに駐車場に出ると翔兄が煙草を吸っていた。

「煙草、吸ってたっけ?」

 俺が聞くと、翔兄は恥ずかしそうに首を横に振った。

「お前も吸うか?」

 差し出したのは、昨日俺が買ってきたハイライトだった。

「親父はよくこんな臭いもん吸ってたよな」

 一本もらって煙草をくわえると、生まれて初めて火をつけて大きく吸い込む。口の中いっぱいに親父の香りが広がって、少しむせる。

「死んじまったな」

 翔兄は何か吹っ切れた感じでつぶやくと話をつづけた。

「いろんな人から話を聞いていて思うけど、俺の中の親父っぽい要素と、お前の中の親父っぽい要素を足したら、もしかしたら親父一人分ぐらいになるのかもしれないな」

「アホか。俺は俺だし、翔兄は翔兄だ。俺たちが親父であってたまるか。親父も親父だし、それをまっとうして死んだんだよ」

「たしかにそうだな」

 むきになって話す俺を見て、翔兄は少し笑った。

 煙がまったく出ない最新式の火葬場の煙突を眺めながら、俺たちはなれない手つきで煙草の灰を落とした。二本の煙草から登る白い煙は、混じりあいながら高い秋空に消えていった。



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棺守り 近藤 セイジ @seiji-kondo

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