2月24日

「いよいよね……」


 珍しく、宮城先輩が緊張した面持ちで呟く。

 隣に立つ有馬先輩は、暗闇でも判る程蒼白い顔をしていて唯でさえ小さな体躯が尚更小さく見えた。

 時刻は午後八時。

 校庭に面したフェンスの破れ目の前。

 澄んだ冬空には、オリオン座と半月が浮かんでいた。


「……以上の事を踏まえた上で、考えました」


 下校時刻が迫った放課後の文芸部部室。

 俺が七不思議の被害者であるということを二人に告げたその後。

 まやかしの共通意識が芽生えたその空間で、沈黙を破るようにそう切り出した。


「七不思議『渡り廊下に棲む魔物』についてです」


 有馬先輩と宮城先輩の視線はもう完全に俺に信頼を向けている。ただ単に今の状況を打開したいだけかもしれないが、俺にはそう見えた。


「福寿には渡り廊下が三つあります。一つは、先日検証に行ったA棟と体育館を結ぶもの。福寿の渡り廊下と言えば一般的にはここを指します」


 全長十五メートル。鉄柵と庇によって区切られたそこが福寿で一般的に渡り廊下と言われる場所だ。

 現在の見取り図にもそこに渡り廊下と記載されている。

 以前俺達が検証に行ったのもここだ。


「もう一つは、A棟とB棟を繋ぐ連絡通路。あそこも渡り廊下と言えなくはありません」


 A棟とB棟とを空中にて繋いでいるそこは、一階以外で唯一両棟を繋ぐ通路で、渡り廊下であることは間違いないが、学校案内図には連絡通路と書かれている。

 以前、理科室で古谷先輩と話をした時に柳瀬先輩が飲み物を買ってきてくれた自動販売機が設置されている場所だ。


「そして最後がここ。駐輪場に沿って造られたA棟と運動施設を繋ぐ渡り廊下……」


 そこは、A棟と体育館を繋ぐ一番長い渡り廊下と同じ造りになっているが、ほぼ駐輪場と一体化していて、渡り廊下と認識している者自体が少ない。


「多分『渡り廊下に棲む魔物』が指定しているのはこの渡り廊下です」


「え?ここって渡り廊下なの?」


「構造的には、渡り廊下と言えなくもないわね」


「でも、殆ど運動施設の入口と昇降口にめり込んじゃってる感じだよ?」


 有馬先輩の言う通り、渡り廊下と言っても通路部分は短く、学校の敷地に沿って曲がっていて、通路の庇も外側に長く張り出していて、二つの建物と自転車用の雨除けという印象だった。

「確かに渡り廊下という印象は薄いかもしれませんが、もしここが七不思議の発生場所なら、有馬先輩も被害者の条件に該当します」


「そうね、翔子は自転車通学だから……」


「はい、それに有馬先輩の机に最近まで文字が無かった理由も……」


「そっか……私、春に自転車駄目にしちゃって最近やっと買ってもらったから……」


 駐輪場沿いのそこが渡り廊下ということにはいまいち納得がいかないようだったが、どうしてそこが件の渡り廊下だと俺が考えたかについては理解してもらえたようだ。


「……もう一度、この見取り図を見て下さい」


 もう消えてしまった携帯のライトを点灯させ、再度昔と今の見取り図を重ね合わせる。


「この渡り廊下を含む駐輪場の場所は昔プールがあった場所です。そして、これ」


 そして、止めとばかりに俺は親父が書いた七不思議の一覧を提示した。


「翔子?」


 フェンスの穴を抜け、校庭内に入る。

 学校内の敷地に入ったばかりのその場所で、有馬先輩の足は止まってしまった。


「大丈夫?」


 数歩先に進んでしまった宮城先輩は、慌てて有馬先輩の横へと戻る。

 彼女の手には、放送部で使用しているであろう小型ビデオカメラが握られていた。


「……う、うん……」


 返事をする有馬先輩は、佐川や羽山の様に『呪いの机』に操られている素振りはない。

 本人の話だと、五日前に行かなきゃいけない本当の位置が判ってからというもの、頭にずっと響いていた『渡り廊下』『弓の月』と繰り返す気味の悪い声のようなものは大分緩和したとのことだった。


「……い、行かなきゃいけないのは、……解ってるんだけど……足が……」


 苦笑の様な、息苦しそうな、中途半端な表情を浮かべる有馬先輩の膝は、暗闇でも判るほどガタガタと震えている。


「もう少しよ。頑張って。翔子は七不思議が発生したら直ぐに逃げればいいから」


 決意に燃える眼差しで、寄り添うように肩に腕を回し、宮城先輩はカメラをぎゅっと握る。

 今まではノートに記載する形で検証の記録を残してきたという彼女達だったが、今回は必ず何かが起こると確信しているのか、映像で記録を残すのだという。

 それは杉浦のメモが残っていたからこそ記述していたが、有馬先輩のノートの記述が消えたこともあり、複数の事実として残す為らしい。

 多分それも、七不思議に抵触する決定的なものとして一週間後には両方共消えてしまうのではないかと思うが、二人にはそれを言っていない。

 体育館と元来渡り廊下と呼ばれる場所はすぐそこだった。

 しかし今日俺達が目指す『渡り廊下』は、今の場所から対角線上に位置する、通用門の直ぐ前の駐輪場に沿った渡り廊下だ。

 校庭を突っ切っていかなくてはならないが、流石にそれは目立つので一度前回行った渡り廊下に出てA棟に隠れるかたちで行くことになっている。

 遅くなると困るということはないが、有馬先輩がこの調子では時間がかかる。


「……和希くんも……ごめんね……」


「いや、俺は別に大丈夫ですが……前回はそんな感じじゃなかったですよね?何か感じるものがあるんですか?」


 素知らぬ風を装おって、俺は訊く。

 『体験者』が指定された七不思議の日に学校内に踏み込むと空気が変わる。

 それを合図に学校の警報器も不思議なことに反応しなくなる。

 前回渡り廊下に三人で来た時もその現象は起きていた。雨が降り始めて霧散してしまったが、有馬先輩が学校に入った瞬間に肌が粟立つような底冷えする空気と静けさに包まれた。

 それは変わらぬ筈なのに、何故前回と違って今回はこんなに震えているというのか……


「……はは、そうだよね……実は私……怖いのは平気なんだけど……グロいのは苦手で……」


 解らなくもない。

 語られている七不思議『渡り廊下に棲む魔物』は至極曖昧だった。


「……グロいって、翔子……あぁ、この間の昔の七不思議の件ね」


 有馬先輩を支える様にして歩く宮城先輩は、早く今日の一件を済ませたいとばかりに、少しでも早く歩かせようとしている様だった。

 早く有馬先輩を七不思議の呪縛から救ってやりたいのだろう。


「……うん、その……妖怪……」


「ビッチョグッチョだったかしら?確かに、今の魔物という表現に比べると少し克明だったわね……」


 妖怪ビッチョグッチョ。

 名前だけ聞くと滑稽にも思えるが、確かに親父が書いた昔の七不思議のそれは、今のものに比べると描写が緻密で生々しいというか、グロいという印象を感じさせるものだった。

 皮膚は膨れ、破れ、歩く度にビッチョビッチョと水に濡れた足音が響く。

 目や鼻、口といった器官は身体中に付いている。

 内臓のようなものを腹から引き摺っているため、足音に遅れてグッチョグッチョという音が追いかけてくる。

 手や足はでたらめに生え、歩く度にどこかがもげては新たなものを生やして進む。

 そんな感じの記載がなされていた。

 決して想像してはならないおぞましさである。

 だが、そんなこと言ったら、『水底の呼び声』も『逃走劇の結末』も相当なものだった。


「……確かに恐ろしいものには違いないけれど、それでも行かないわけにはいかないじゃない」


 鼓舞にも気休めにもならないことを言って、宮城先輩は有馬先輩の背を押す。

 だがその通りだ。

 見た目の恐ろしさは足をすくませるのに充分だが死んでしまうことに比べれば恐れるべきではない。

 それに何より問題は―――


「和希くん、本当に大丈夫かしら?翔子は無事に帰れるのよね?」


 同じことを考えていたのか、それとも有馬先輩を少しでも安心させようとしたのか、宮城先輩はそう話を振ってきた。

 そう、何よりの問題は、今回の七不思議の結末が連れ去られ、二度と帰ってくることができないというものであることだ。

 今まで見てきた限り、『得られなかった優勝旗』も『水底の呼び声』も『逃走劇の結末』も『表』の話は少しねじ曲げられてしまっている節があった。

 語り続けられる内に、また『記録者』の記載によって少しづつ変わってきてしまったのだろう。

 けれど、それぞれの『体験者』が下手をすれば命に関わる被害を被る可能性も充分にあった。『記録者』である俺が介入しなければ尚のこと。

 でも、今回の『渡り廊下の魔物』に関しては話が随分違う。

 『表』の話にすら、由来も何もなく、寧ろ連れ去られた後のほうが詳しく話されているくらいだ。

 『体験者』の危険性が群を抜いている。


「絶対とは言い切れません……ただ出来る限りの対策をとっておこうと思います」


「対策って?」


 丁度そこで体育館とA棟とを繋ぐ、以前にも来た渡り廊下に着いた。

 宮城先輩の問いを手で制し、足を止める。

 念のための確認だ。

 辺りはやはり静かで、風一つ吹かない。凍てついた空気は更に鋭く肌に染みる。寒さで耳鳴りがする程だった。

 三人共自然と息を潜め、何か異変が起きないか周囲を見回す。

 有馬先輩を間に挟む形で、一歩、コンクリートの渡り廊下に同時に踏み入る。

 何も起きない。

 静けさが、俺の推測が間違っていなかったことを肯定している。


「―――行きましょう」


 意を決し、二人を本来の目的地へと促す。

 たった数十秒。一分もしていないくらいの短い間じっとしていただけで身体が冷え、手足の先に痺れすら感じた。

 三人共、カイロやマフラー、手袋等出来る限りの防寒をしてきたつもりだが、それでも寒い。

 それが怪異のせいなのかは判らないが、異常に寒かった。

 渡り廊下の中をそのまま歩き続けるのは気が引けて、校庭側に戻り、今度はA棟を目指す。


「さっきの対策についてですが……」


 俺が先頭になる形で、後ろに二人が付いてきていることを確認し、先程途中になっていた会話を再開する。


「まず、有馬先輩は例の渡り廊下に足を踏み入れるのは一歩だけにして下さい。俺が先頭を行きます」


「……え?それだと和希くんが……」


 寒さか、恐怖か、震える声で有馬先輩が声を上げる。


「大丈夫です。俺は逆側。通用門の方へ逃げられるようにするんで」


「……そう」


 本当は『記録者』だから大丈夫と踏んでいるのだが、有馬先輩は納得してくれたようだった。


「それから、宮城先輩も撮影は渡り廊下の外からにして下さい。記録も大事ですが、安全を優先しましょう」


「わかったわ」


 遅々としていた歩みは、寒さに急かされ少し早まり、A棟の壁へと突き当たる。

 右へ折れ、このまま真っ直ぐ進めば渡り廊下だ。

 闇の中にぼんやりと運動施設や駐輪場、そして件の渡り廊下が見える。


「最後に、渡り廊下に踏み込む前に事前に救急車を呼んでおきましょう」


「……え、でも……」


「何もなくてもいいんです。誤報になっても……念には念を入れておくべきです」


「そうね、和希くんの言う通りよ。翔子」


「……う、うん……」


「それは、出来れば宮城先輩にお願いしたいんですが……」


 救急車を事前に手配しておくこと。これに関しては心苦しいが宮城先輩にお願いしなくてはならなかった。

 なんせ俺は、佐川や羽山、柳瀬先輩と立て続けに三人もの人間が病院に搬送される際に立ち合っている。

 いずれも連絡をもらったから、居合わせたからという理由で学校からも咎めを受けずに済んでいるものの、三回目ともなれば何か言われても仕方無い。

 先輩方は進路も決まり、卒業も間近に控えているので優先すべきは安全だが、俺はまだ福寿に通い続けたいのだ。

 例え『記録者』として役目を全う出来ても、退学なんてことになったら元も子もない。

 それも事象ごと後々には七不思議の力で修正されるのだろうが、修正された時にこの場に居なかったことになっているほうがいい。

 きっと今までの『記録者』はそうやって、通報するにせよ上手く逃げていたのだろう。

 俺は、たまたま事が起きる前から『体験者』と深く関わり過ぎて今までそれが出来なかったのだ。

 そうなると当事者となる有馬先輩ではなく、宮城先輩が適任だった。

 場合によっては、彼女とて柳瀬先輩のように今後の人生に影響してしまうかもしれないが……


「解ったわ。大丈夫、勝手に首を突っ込んだのは私だもの。和希くんはまだこの学校に通うのだから、君が気に病むことはないわ」


 全て理解したとばかりに宮城先輩はそう言った。

 遅々とした歩みでも着実に前に進んでいけば終わりはくる。

 宵闇に塗り潰されていた渡り廊下が非常灯に照らし出されて姿を現す。

 そこは昼間と違って生徒達が行き交う姿がなく、静かで薄暗いものの、他の場所同様日頃と変わらぬ学校の景色だ。

 『水底の呼び声』で体験者の後を追い、俺は以前一度龍臣と共に夜のこの場所を訪れていた。

 行きも帰りも、この渡り廊下を通る際は焦りに急かされていて、不気味だったかどうかすら覚えていない。

 感覚が麻痺してしまっていると言えばそれまでだが、今ですら怖いとすらあまり思えていなかった。


「翔子、和希くん、準備はいい?…………それじゃあ電話するわね」


 右手にビデオカメラを持ったまま、宮城先輩は左手に携帯を構える。

 時計を確認する。

 時刻は21時24分。

 救急車を呼んでしまえば時間の余裕はなくなる。10分。以前の経験から考えるとそのくらいだ。道路や病院の状況にもよるだろうがだからといって多目に見積もるわけにもいかない。

 それにこの手を使ってしまうと、もし何も起こらなかった場合もう一度というわけにもいかなくなるだろう。

 総てが一か八かの博打だった。


「……救急です。探し物をしていたら、友達が突然具合いが悪くなってしまって……っ!」


 心配そうに有馬先輩が見上げる横で焦っているかのように早口に宮城先輩は言う。


「……はっ、はい。住所は……そのっ……学校の前です。学校の前の大通り!」


 静かな学校の敷地内に宮城先輩の声が木霊する。

 いつもの彼女とはうってかわって取り乱した様子で、焦りと不安を滲ませた声。とても演技とは思えない。


「……学校の帰りに落とし物をしてしまって……一度家に帰ってから気付いて……っ……帰り道を探していたら、突然っ……」


 俺自身最近電話したことがあるから解っている。相手は多分、どうしてそこにいたのかなど訊いてはいないだろう。訊いているのは詳しい場所。

 それなのに、宮城先輩は動転しているとばかりに聞かれてもいないことをペラペラと喋っている。

 今さっき、事前に通報しようと伝えたばかりだというのに、流石宮城先輩だ。

 救急車に連絡しろと云われ、この短時間で考えたのだろう。


「……それで探してたものは見付かったんですが……え?……あ、はい……学校は私立福寿高等学校……」


 最後にボソリとそう言って、通話が終わる。

 終わった途端にストンと宮城先輩の表情がいつものすましたものに戻った。


「終わったわ。行きましょう」


 人が変わったかのように、凛とした声でそう言った。


「凄いですね、宮城先輩」


「これで言い訳はどうとでもなるわ」


 唖然としている有馬先輩に変わって、思わず賞賛の言葉を投げてしまう。

 気が動転している振りをして、必要以上の事を云わずに済ましたのだ。

 携帯の番号を通知させているから悪戯とは思っていないだろうが、混乱して喋っているように感じたのか相手も訊くのを諦めたのではないだろうか。その証拠に宮城先輩は名前すら名乗っていないし、救急を要する人間が一人なのかすら言っていない。

 なので、もし有馬先輩だけでなく俺にも何かあった場合や、逆に前回のように何も起きなかった場合にも対応できるようにしたのだ。友達としか言っていないから二人に増えたところで「言い忘れた」とでも言えばいいし、何も起きなければ「回復した」と謝ってしまえばいい。

 それに、学校前の大通りと伝えたことで、もし救急車が来るまでに校内を抜け出せなかった時にも言い訳がきく。大通りだと横に出来ないから、とか。

 但し、唯一言い訳がきかないとすれば、柳瀬先輩の火傷の様に外傷があった場合だ。

 そこまでは宮城先輩でも気が回らなかったのか、それとも七不思議の話の内容から外傷の可能性は低いと予想をたてたのか…………


「……有馬先輩」


 通報に対して宮城先輩がどう考えたのかの推察を頭から振り払い、後ろにいた有馬先輩へと声をかける。

 今はそんなことよりもこっちだ。


「……う、うん」


 有馬先輩は生唾を呑み込む様に返事をして、俺の隣へと並ぶ。

 逆に宮城先輩はカメラを構え一歩下がった。

 前回と逆の立ち位置だ。

 あの時俺は二人を見守る様に、『記録者』として観察するように二人の後ろにいた。

 最終確認をするように上を見上げる。

 都会の明るい夜空に、一際輝く弓の月が浮かんでいる。

 俺と有馬先輩の響く心臓を抑えるように吐き出した息が白くけぶる。

 お互い、片足立ちするように不自然に右足を掲げた状態で目を合わせ、最終確認とばかりに頷き合った。

 俺は今いる校庭側ではなく駐輪場と通用門がある大通りの側へと直ぐに退避出来るよう、有馬先輩よりも大股に踏み出さなくてはいけない。

 先に片足を上げた状態からでは跳ぶように踏み出し難いが今更仕方がない。

 掛け声は特に必要無かった。

 早鐘を打つ心臓の音がメトロノームの役割を果たしたかのように、二人同時に渡り廊下のコンクリートの上へと踏み出し――――


「―――っ!?」


 立ち眩みがした。

 ただ踏み出しただけで立ち眩みというのもおかしな話だがそうとしか言い様が無かった。

 一瞬グラリと視界の中の世界が揺れ、目を瞑ったつもりはないのに暗転し――――


「……な……んだ、これ……?」


 頭が真っ白になり、勝手に口から言葉が漏れた。

 言葉は声に出した筈なのに、耳鳴りの様な音が邪魔して聞こえなかった。

 ――――世界が変わっていた。

 暑い。熱い。

 たった一瞬で汗が吹き出す程に。

 赤い。紅い。

 熱が景色を染め上げたかの様に。

 真冬の凍える程に寒い日だったはずだ。

 月の浮かぶ空気の澄んだ夜だったはずだ。

 渡り廊下も無くなっていた。

 それだけじゃない。視界にあった運動施設も駐輪場も――――学校だけではない。敷地の外に見えていたビル群すら無くなっている。

 二つのことが同時に頭を過った。

 また火かよ、という場違いな既視感と踏入ること自体が禁忌だったのか、という後悔。

 ろくに頭は回っていないくせに、余計な感情だけが無駄に胸に渦巻いた。


「―――ひっ」


 ただ赤いだけの空間に何も出来ずに立ち尽くしていると、嗚咽とも、悲鳴ともとれる声が傍らで響いた。

 独りでは無かったことを思い出す。


「有馬せっ―――!?」


 彼女の所在を確認しようと振り返りかけ、思わず言葉が途切れる。

 有馬先輩は元々小さいが声は随分下の方から聞こえた。

 どうやら尻餅をつくような姿勢で座り込んでしまっている様だった。

 それが一瞬感じた眩暈のようなもののせいなのかは判らない。

 ただ、彼女へと目を向けようと首を振ったところで彼女の人指し指がおずおずと前方へ伸びるのが見え、反射的に彼女の姿を見るより先に指が示す先へと目線を動かして―――――


 ――――そこに、いた。


 いるというのが的確な言葉なのかは判らない。あるというほうが正確なのかもしれない。

 周囲の赤に染め上げられ、紅く蠢くそれがそこに存在していた。

 手足はある。矢鱈に。

 目や鼻、口もある。出鱈目に。

 それは肉塊としか表現のしようのない、生きているとは到底思えない怪物。

 ぶよぶよとした二メートル程の高さをもつその肉塊には、あらゆるところに焦点の合わない澱んだ目があり、耳や口、鼻といった人間の顔と同じ形のパーツがあり、腕や足が前から後ろから生えていた。


―――ズブリ


 潰れるようなやけに耳に響く音をたてて肉塊が脈動する。

 心臓が動くように蠢くと、その動きに沿って赤い血潮が撒き散らされ、目玉が一つ大地に吐き出された。


ビチャっ……


 今度は足が。

 吐き出されたパーツは生命から見捨てられた様に色を失い、地面に転がる。


グチャッ……


 次は鼻。

 それは、這いずるように前進していた。


―――ズブリ


 ナメクジが動いた後の筋のような血の跡を残し、そこら辺に切り捨てた人間の身体のパーツを散らかして、肉塊は少しずつ進む。

 失った分の目や足、鼻は脈動と同時に新しいものが生えてくる。

 人は、生命の危機に瀕すると嫌悪感など感じる余裕はなくなるらしい。

 今まで薬品による炎症や人体発火に対して感じた込み上げるような吐き気は催していない。

 そんなものを感じられない程に、目の前の光景は想像を絶していて、心臓を鷲掴みにされているような命の危険を感じさせるものだった。

 金縛りに遇ったかのように、動いてはいけない、気付かれてはいけない、と脳が警報を発する。

 自由が利くのは目線だけだった。しかし、目を瞑ってしまえば更に恐ろしいことが起こる気がして出来ない。

 尚も、人間のパーツを全身にあしらった怪物は蠢き、進む。


―――ジュブリ


 血飛沫を振りまく。

 通った道を空と同じ赤に染めて進む。


ビチョッ……


 右耳が二つ。左右へ飛び散る。


グッチャ……


 腸がかろうじて切り離されずに破片だけが飛んでいく。


ズズッ……

―――ズブリッ……ズズッ……


 それが前へと進んでいることを示すかのように、千切れた腸が引きずられていく。

 腸に並ぶように脚が生えた。

 唯一動かせる眼球を目一杯働かせ、それの進む先を探った。

 その方向にあったはずの駐輪場はない。代わりにあったのは世界と同じ赤い色をした池だった。

 どす黒いヌメリとした赤ではない。透き通った、空の色を写し出したかのような赤い池。

 人の成り損ない、もしくは人の欠片を寄せ集めたような化物は、間違いなくそこを目指していた。


グッチョ……ズッ……


 進むのに邪魔だった腸が完全に切り放され、赤い筋に並んで転がる。


―――ズブリ


 内臓を包むように指が生える。

 肉塊の表層面は常にグヂャグチャと蠢いている。


ビッチョ……


 それと池との距離は、後二十メートル程。

 ――――駄目だ。

 このままあれが池につくまでこうして立っているのか?あれが池に着いたらどうなるっていうんだ?着けば俺は助かるのか?着いたらそれでいいのか?それまでそのまま見ているだけなのか?


ビッチョ……グヂャ……


 池の上に一つプカリと気泡がたった。

 意識を成り損ないに全てもっていかれてしまわぬよう、池の上へと目を凝らす。

 一つ浮かび上がった泡は、突然池の水が沸騰してしまったかのように大小様々浮き上がったかと思うと…………白い何かが気泡を追う様に姿を現した。

 指だった。手だった。足だった。顔だった。またしても人だった。


―――ズブリ


ビチャっ……


 肉塊が池へと向かう。

 音だけで分かる。脳に直接響く様な不快な音が、耳鳴りが続く耳をすり抜け届く。

 池には、きちんと人の形をした、しかし決してもう動くことのない死体がびっしりと浮かんでいた。


―――ジュブリッ


グチョ……


 肉塊は変わらず池を目指す。

 池まであと十五メートル。

 あれが池へと辿り着いたら、あれは人の姿を取り戻すことが出来るのだろうか?

 化物から屍へと戻るそのためにあの池を目指しているのだろうか?

 ―――駄目だ。

 このまま呑まれてどうする?見届けてどうする?

 考えろ。思考しろ。

 俺は『記録者』だ。このままここにいても何も出来ない。観察して理解したところで記載出来なければ、ここから出られなければ意味がない。

 考えろ。絞り出せ。

 出るんだ。二人でここから…………二人で?

 そこでやっと俺は独りではなかったことを思い出した。

 そうだ。有馬先輩は?宮城先輩は?


―――ジュプッ


 蠢く。這いずる。

 僅かに、けれども着実に進んでいる。

 有馬先輩は、この空間に飲み込まれた始めに座り込んだきりそのまま動けずにいるようだった。

 耳鳴りに邪魔されてよく聞こえないが過呼吸に近い小さな嗚咽が漏れている。

 宮城先輩は、視界に入る限りは見当たらない。声も聞こえない。

 俺達だけがこの不気味で濃密な死の気配が漂う世界に飛ばされてしまったのだろうか……

 瞬間。

 耳鳴りを上塗りするかのようなけたたましい音が響いた。


ウウウウウウウウウウゥゥゥゥ…………


 耳を覆いたくなるような激しい音。本能に訴えかけるような危険を報せる音。

 その音が俺の耳にだけ聴こえているわけではないことを示すように、肉塊がぶるりと震えた。今までと違う動きで縮み上がった。


ウウウウウウウウウウゥゥゥゥ…………


 音は間断なく続き、それに呼応するように肉塊の前進が止まった。

 ―――今だ。

 動かない頭でそう思った。

 働かない頭にそれだけが浮かんだ。

 人の形をしていないのでその表現が正しいかは判らないが、化物は蹲るように脈動によって伸縮していた身体を縮こめて、ぶるぶると微振動している。

 振動によって変わらず血が飛散するが、パーツは切り放されず、新たなものも生まれてこない。

 目線を動かさぬまま、指先に力を込め、右手を伸ばした。

 意識的にずっと動かさないようにしていたので、感覚が麻痺したような痺れがあったが、それでも握りこもうとする指を開いて、伸ばした。

 仄温かい感触。血の通った命のあるものの感触。

 有馬先輩は座り込んだまま変わらずそこにいた。

 その腕を確かに掴んだ。

 暑さと緊張で滲んだ汗が掌の中でぬるりと滑る。

 有馬先輩も震えていた。ガタガタと大きく震えていた。

 それでも、動けず冷えていようが、厚手の上着を通してだろうが、掴んだ先に命の温もりを感じた。

 それが俺の意識を醒めさせる。

 まだ音は続いている。

 化物も動かない。

 今しかない。早く、早く逃げなくては―――

 呼び掛けられる程の余裕はなくて、俺は有馬先輩を立ち上がらせようと腕を引いた。


「っ!!?!」


 有馬先輩は完全に腰がぬけているようで、感覚の失せた指先では引っ張りあげられなかった。

 しかも人を引き上げるためにそれなりに踏ん張っていたはずが足がズルリと滑って、見事に体勢を崩した。

 とっさのことに、悲鳴を発するのを必死で噛み殺すので精一杯だった。反射的に出た小さな声も辺りに響き続ける音に掻き消される。

 体勢を立て直すことも叶わず、俺は有馬先輩の横に並ぶ形で尻餅をついていた。

 直ぐ側に有馬先輩の顔が並ぶ。

 彼女は、歯の根が合わぬ程に、ガチガチと震えていた。

 有馬先輩の目は釘付けにされているかのように肉塊へと向いている。

 瞳は大きく見開かれ、腰がぬけ、金縛りに遇ったかのように動けないでいた。

 もしかしたら、『体験者』特有の何かを視ているのかもしれなかった。

 転んだ拍子で滴っていた汗が目に入った。

 大粒の汗は視界を滲ませる。

 堪らずコートの袖口で拭おうとして……


ヌルっ


 掌に汗とは違う粘り気をもった感触を感じ、滲んで痛みを伴う眼に赤黒い何かが見えた。

 どす黒い赤色。生臭さを帯びた粘性のある液体。

 ――――血だった。

 地面に付いていた掌に血液としか思えない液体がびっしりと付着していた。

 見渡せば、俺と有馬先輩が座り込んでいるそこは一面黒みを帯びた血溜りの中だった。

 今更ながらに気付く。

 赤いのは空だけではなかった。池だけではなかった。

 肉塊が引いた赤い筋は、それが鮮明な赤だっただけで、地面自体がそもそも黒々とした赤色だったのだ、と。

 途端にせり上がるような吐き気が内臓をかき混ぜた。酸っぱく苦い胃液が口の中に拡がる。

 暑さと嫌悪感で意識が朦朧とする。

 限界だ。

 このままでは吐く。吐くだけならまだいい。気を抜けば意識を失いそうだった。


ウウウウウウウウウウゥゥゥゥ…………


 いや、違う。これは兆しだ。

 感覚が戻ってきたということは頭が働いているという証だ。

 自分自身にそう言い聞かせる。

 そして、考える。

 俺は『記録者』だ。『体験者』が七不思議を体験するのを観察する役目を負っている。

 ならば、この世界に引っ張りこまれたのは必然の出来事。そうでなければ観察は不可能だ。

 その証拠に俺達の後ろにいたはずの宮城先輩はここにはいない。

 けれど、元の世界に戻れなければ『記録者』は本来の役目を担えない。

 だから、必ず脱出出来るはずだ。

 もう形振り構わず辺りを見回す。

 俺達が踏み出したのはたった一歩。今いるのは本来A棟昇降口に程近い渡り廊下の上のはず。

 あの化物が現れたのは運動施設側の渡り廊下。

 化物が目指す赤い池は駐輪場があるその場所。

 化物から見れば、赤い池は一直線。

 対して俺達がいるのは、化物から見れば左手側。化物が池を目指す限りこちらに来ることはない。

 転んだことで今俺は有馬先輩の横顔を見ている。

 有馬先輩の頭の向う側に広がるのは一面の荒野。赤黒い何もない大地。

 けれど、本来ならそこは俺達が渡り廊下へと踏み込んだ校庭のはず。そしてそこには宮城先輩がカメラを構え立っているはずなんだ。

 だったら―――――


ウウウウウウウウウウゥゥゥゥ…………


 鳴り響いていた音が僅かにトーンを下げ、やけに大きな余韻を残して消えようとしていた。

 音が鳴り止めば、また化物が動き出す。そうなれば脱出出来ないと決まったわけではないが何が起こるかは判らない。

 それを待ってやる余裕も必要も無い。

 俺は倒れこんだ。

 全身の体重をのせて、巻き込むように有馬先輩に向けて。

 そうすることしか手は無かった。

 血を吸った服は重くて、汗だくになった体は鈍くて、それしか出来なかった。

 一か八かだ。

 駄目ならば、俺も有馬先輩も顔から、頭から血溜りへと突っ込むことになる。

 ――――音が止んだ。


「翔子っ!?和希くんっ!?」


 次に聴こえてきたのは宮城先輩の声だった。

 続いて、頬に鈍い衝撃。ジャリジャリとした水捌けをよくする特有の砂の感触。

 戻ってこれたのだ、と実感する。


「……何が……あったの?一体どういうこと!?」


 宮城先輩の声は悲鳴に近い。

 けれど耳鳴りがひいたばかりの耳には、薄いベールが張られているかのように緩和されて声が届く。

 歯を食い縛り、身体が動くことを確認して、上半身をなんとか起こす。

 有馬先輩は俺に押し潰されるようにして倒れていた。意識を失っている。


「翔子!翔子っ」


 構えていたカメラを投げ出すように起き、宮城先輩が駆け寄ってくる。

 有馬先輩の衣服や身体に赤い色は見られない。


「二人共大丈夫なのっ!?」

 今にも泣き出してしまいそうに顔を歪め、宮城先輩が訊いてくる。

 答えられない。大丈夫かどうか判らない。

 俺の衣服や掌にも、やはり血の跡は残っていないようだった。

 忌まわしく生々しい感触だけを残して、綺麗さっぱり消えていた。


「……何が……見えました……?」


 何と言っていいか判らず発した問いは、意味が解らないものだった。

 久しく発していなかった俺の声は、震えていた。


「……貴方達が渡り廊下に踏み込んで、その後転がり出てきた。それだけ。私が見たのはそれだけよ。瞬きもしていないのに……転んだ様子もなかったのに、おかしな体勢で……」


 俺の問いに、宮城先輩はぐっと詰まり、なんとか落着きを取り戻さんとするかのように息を呑んで、そう答えた。

 問いも問いなら、答えもまた意味不明なものだった。

 指先や手、足と体が動くことを再度確認し、首を振りながら立ち上がる。

 声だけではなく、足まで震えていた。

 それともこれはただ痺れているだけだろうか?


「……何が起こったの?」


 質問しておいてそれ以上喋ろうとしない俺に、宮城先輩は詰め寄る。

 答えられるはずがない。答えようがない。説明できない。

 彼女の視線から逃げるように時計を見る。

 21時26分

 そんなはずはない…………

 体感がおかしかったとしても、たった二分しか経っていないはずがなかった。


「……和希くんっ!」


 宮城先輩自体相当に取り乱しているのだろう。いつになくきつい口調で、唖然と時計を見る俺の服を引っ張り、追求しようとしてくる。


「…………すみません。今は説明……出来ません……」


 俺自身立っているのがやっとの状態だ。寒さによるものではない震えに全身が包まれ、喋れば声だけでなく、歯がカチカチとなってしまう程。


「……と、とにかくっ、……救急車が来たら有馬先輩を……それまではなるべく……動かさないで……」


「ちょっとっ!君は……?」


「……俺は逃げます……宮城先輩、有馬先輩をお願いします。救急車が来るまで絶対渡り廊下には入らないで……有馬先輩のためにも……」


 途切れ途切れに、一方的にそれだけを言って、震える足を叩いて走り出した。

 当初は駐輪場側、通用門から逃げる手筈になっていたが、赤い池があったそちら側に行く勇気はなかった。

 元来た校庭のフェンスの裂け目へ向け、足をもつれさせながら転ばぬようにだけ気を配り、ふらふらと走った。

 一度も振り返らなかった。振り返ったそこに何かが見えるかもしれないからとかではなく、振り返るだけの心の余裕が残っていなかったからだ。

 一刻も早く学校という気味の悪い空間を抜け出したくて、フェンスの切れ目を抜けた。

 敷地を一歩抜けたところで、まだ側に学校があることは重々承知で、膝をついて踞った。

 走ってくる途中で、違和感が残る耳にサイレンの音が微かに聞こえた。もうすぐ救急車が来るのだろう。


「……うっ!………ぐぇぇっ」


 踞ったままその場で嘔吐した。

 何も食べていないから、吐き出せるものなんかなくて、胃液だけを吐き出した。

 掌にあの粘性を伴う赤い感触が残っていた。

 瞳にあの忌まわしい赤い景色が残っていた。

 吐いて、吐いて……ひたすら吐いて……。

 福寿の制服が臙脂と黒なのは、血に染まっても目立たないようにこの色なのではないか?

 教師達は全て知っているんじゃないか?

 そんなことを考えていた。

 そう思わずにいられなかった。

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